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和田耕作「バートランド・ラッセルの公開状に対するフルシチョフとダレスの解答について -- 東西会談をめぐって」『フェビアン研究』v.9,n.2(1958年2月)pp.24-28.

* 和田耕作(わだ こうさく、1907-2006):(元)民社党衆議院議員で、1984年に勲二等旭日重光章受章

 昨年(1957年)11月23日、『ニュー・スティツマン』誌上に発表されたバートランド・ラッセルの、アイゼンハウァー大統領とフルシチョフ第一書記にあてた公開状は、世界の大きな関心を集めた。このラッセル卿の公開状は当時、ジォージ・ケナン(注:George Frost Kennan、1904-2005:米国の外交官、政治学者。ソ連の封じ込め政策で有名) がBBC放送で行った特別放送がまきおこした大きなショックや、インドのネール首相のブルガーニン首相(注:ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ブルガーニン Nikolai Aleksandrovich Bulganin, 1895-1975:フルシチョフ時代前期の1955年から1958年にかけてソ連閣僚会議議長(首相))とアイゼンハゥアー大統領宛の手紙などと共に、それぞれその趣はちがうけれど、高まる東西の緊張緩和の世界の声を代表したものであった。

 ラッセル卿の公開状の全文は、本誌昨年(1957年)11月号に掲載したので、参考にしていただきたいと思うが、その要点は、米ソ両国の平和のための直接の話合いをすることが世界の平和と、人類を破滅から救うものであることを卒直かつ毅然たる態度で訴えたものであった。ラッセル卿は「貴両国の与論は両国のそれぞれ異なる国家的利益を守ることに集中している。しかし、私は貴下達のような遠いおもんばかりのある知的な人々は、ロシアとアメリカの利益が一致する事柄は、相反すると考えている事柄よりも、はるかに重要であることを承知されていることと思う。若しすぐれた貴下達二人がこの事実を共同に宣言し、この宣言に一致するように両国の政策をしむけていくならば、全世界はこれを歓迎し、過去、現在の如何なる政治家がやった成果よりも、より上位に貴下達の業跡を置くであろう」と前置して、次の四つの点をあげている。

 第一は、人類の継続灼な生存を確保するために、放置すれば人類の破滅となりかねない核兵器競争を断ち切るために協定を結ぶことである。歴史をふり返って見ると、世界征服の願望は、それが軍事的であれまた思想的であれ、過去の多くの人々が考えたことの一つであるが、それは人類に様々な災厄をもたらしたと同時に、それを試みた人々は多くは結局無残な失敗におわった。「現在、二人の偉大な人々(注:)はまだこのコースを辿らない思想を提出し合っている。つまり私は(アメリカの)独立宣言と共産党宣言をさしているのである。これらの思想のどちらも、従来からあった諸思想 --仏教、キリスト教、回教、あるいはナチー-- 以上に世界を征服するだろうとする理由はない」とのべ、「現在の状勢で新たなことは、それが(→それの)(注:両思想による世界征服)成功の不可能性ではなくて、この試み(注:両思想による世界征服)からおきてくる災厄の巨大さである」とのべている。
 第二は、核兵器の無制限な散布(各拡散)並に、次々とその他の各国が競って核兵器を生産しはじめることからおきる国際的アナーキの出現を抑制するための米ソの協力である。そのため核兵器の分散(拡散)をストップすることと、核兵器生産を主張する外国への軍事的・経済的援助をとめる」ことが必要だというのである。
 第三は、世界戦争への相互の恐怖と不信は一層刺戟し合って巨大な軍備に向わしめており、このままつづけば、生活向上さすための物資は乏しくなり、教育はゆがめられ、よりよい世界への改革のヴィジョンは反逆と見なされ紛さいされることになる。これに反して、米ソが協定に達すれば両国の現在の軍事経費の十分の九は節約され、それを平和目的に使うことができる。
 第四は、人類絶滅の恐怖を追いちらすことである。彼(ラッセル)はいう。「暗黒を消散するために、世界が輝かしい希望をもって生きるために必要とされるただ一つの方法がある。それは東西世界が共存を認めて相互の権利を認め合うことである。そして相互の尊敬すべきイデオロギーを払げるために力の使用とは別の方法をもってすることである。このことは相互の尊しとする信条を棄てることではない。相互の信条を拡げるために武力を使用することを罷めることだけが必要である。」

 以上がラッセル卿の公開状の要点である。当時は、衆知の通り、ソビエートの人工衛星が一号、二号と大気圏外に周遊し、アメリカは精神的恐慌の状態から抜けやらぬときであった。そしてアイク・マクミラン会談につづいて、NATO十五ケ国の兵力と知力の総動員の呼びかけを行いつつあるときであった。またソビエートは力の優位を大空に誇示しつつ、活発な書翰外父を再び精力的に打ちはじめて、その政治的成果を確保せんとするときであった。
 フルシチョフは、ラッセルの公開状の世界灼意義を高く評価して、「欧州の反乱」と呼ばれたNATO会議の直前に解答を書き送った。そして12月21日、『ニュー・スティツマン』誌は別稿のような長文の返事を掲載した。これに対してアイゼンハウアーは、NAT0会議での予期以上の西欧側の反省的な動き、相つぐブルガーニンの書翰外交と、国内外における諸意見、諸勢力の調整等のため、日を費やし、本年二月はじめ、ラッセル卿あての解答をダレス長官に起草させた。『ニュー・スティツマン』誌はこれを二月八日に公表した。(別稿) また、以上のような経過のうちに公表された、フルシチョフ第一書記とダレス長官の返事については、それらの返事の公表と共に、『ニュー・スティツマン』誌の論説氏はそれぞれ巻頭論説で興味深い論評を加えている。(別稿)
 以上の諸論を注意深く検討して総括的に感ずる点は、追うものと追われるものとの力の充実感の相違である。フルシチョフの返事には過去におけるソビェート政権が犯した誤膠をすべて知らぬ振りをして黙殺しながら、ぬけぬけと共産主義の理想を語り、確信をもってラッセルの理想に共鳴するずぶとさがある。しかも彼の主張には「不誠実」であるとの感じよりも、より多く「本気に平和を望んでいるのだ」といった感じをおこさせる不思議な迫力をもっている。これはどのような理由によるだろうか。「社会主義は本質的に平和を望んでいるからだ」という人があるかも知れない。しかしソビエート体制をまだほんとの社会主義だとは思っていない、その(注:真の社会主義への)過渡期にある異状児だと思っている私はその理由だけで納得することはできない。おもうに、この問題のかぎはここ数年来とくに二〇回党大会以後のフルシチョフを中心とする非スターリン化の動きが、その過程に示された様々の逆流 --ハンガリー事件や、ジューコフ追放等--にもかかわらず、大勢としては不動のものとなりりつあるのではないかとの感じである、非スターリン化を支持する国内の新たな大衆的な中心勢力ができつつあることと、また中国はじめ重要な衛星諸国で、非スターリン化の重要な内容に、事実上の賛意を示していること、そして、スターリンでは突き破ることのできなかった壁を乗り越えて広汎な世界の後進諸国への影響力を高める相当確実な可能性をもちはじめたことなどが、その根底ではないだろうか、スプートニクに示された圧倒的な軍事的優位によって、それまでのフルシチョフの動揺は一つの確心となり、安心して平和的競争を提案し民主的勢力に手をさしのべる自信をもちつつあるのではないかということである。

 これに対してダレス長官が代表するアメリカの見解は、国の内外で色々の批判にさらされながらも、現在のアメリカの支配的見解であることは否定できない。この見解を貫ぬく考え方は、一貫したソビエートへの不信である。再三「狼がきた」と呼ぶ小供に対する村人の不信が、結局、大事をひきおこした話のような、悲しむべき不信の影が感ぜられる。ダレス長官が、アメリカ自身のことは一応別として、ソビエートの罪状の数々を一つ一つ数えあげる場合に、それ自体は一つ一つ反論がむつかしい事実をのべていることは認められるとしても、それは要するに過去の出来事である。むろん、これらの過去の出来事は、将来繰返す可能性をもっているのだし、その意味で、その国の将来の方向を見るのに決定的な要素となることは否定できない。しかし、個人とちがって、国家を含めての社会的団体の機能は、それを動かす人々の性格がかわるにしたがって、かわってくることも重視しなければならない。この意味で、この数年間のソビエート政権の動きは、それなりに重視すべきものであると思う。すくなくとも無視することは事実を無視すると同様にノンセンスであろう。ダレス氏の意見にはそれと同じような感じがする、しばらくは不動なものと思われたアメリカの優位とそれにもとづく、国内、国外に築きあげられた状態は、当然それに見合う精神状態をつくりあげているのだが、それに対する挑戦をおそれる支配者的精神が、事実を冷静に見る目をさえぎっているのではないだろうか。

 いまだにのこっているアメリカ的建国精神の健康さと、世界第一の物質力は、右のような、かすんだ頭脳で指導されることがなければ、そして積極的な改革と前進を計らんとする精神で指導されるとしたら、まだまだ大きな福祉と平和を人類に及ぼすことができると思うし、ソビエートと平和競争をしてひけをとるとは思はれないのに惜しいものだとの感じがする。悪業を一ぱい身につけてはいるが、たくましく前進し追うものと、美化された権威化をもってはいるが、前進を止めて追われる立場に立つ者との競争は、個々の人間の場合は間違いなく前者の勝利であるけれども、国家または社会的団体ではそうばかりとはいわれない。アメリカ的良心の台頭もよって、ソ連との平和競争に打ち勝つ準備にとりかかってもらいたいものである。

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 このために、現在世界最大の問題となっている東西頂上会議の提案は、アメリカとしては、むしろ進んで受け入れるべきものだと思う。頂上会談か外相会議かの問題は、言葉をかえていえば、世界問題の政治的解決か、事務的解決かということであろう。一国の政治でも、このごろの社会政治の復雑さは、そのほとんどが事務的会談ではらちのあかないものとなっている。数字と事実を何んぼ出し合っても結着のつかない程、数字は多く事実は多いからである。おまけに厄介な思想の問題もある。世界の問題となれば尚更のことであって、本来外相会議というのは、一国を代表する政治的会議のことであるのだが、当今の外相会議はとくにその性格をかえている。アメリカとソビエートという二大国が、それぞれ従属的な国々を従えているような実状のもとでは、そして、第三国的な小国の大群が、外相会議に出られないような状態のもとでは、考えられる外相会議は、丁度一国の次官会議と同様に大したことはきめられない。昨年の九ヶ月にわたるロンドン軍縮会議がその例である。幾つかの世界の中心的問題はすでにその焦点は明らかになっており、たとえば原水爆問題のようにそのままで放置すれば人類の安否に関することであるのでこの問題だけでも頂上会議による方向決定が必要であろう。また、たとえば中欧に非核武器地帯をつくるとか、また東西ドイツ、南北朝鮮から共同撤兵をするとかいった問題でもこれがドイツと朝鮮の統一の前提的条件であることは否定できないのに、この撤兵の問題について、アメリカが消局的または反対的態度をとることは、理解できないことの一つである。戦後十年以上もたっているのに、撤兵したら、相手に敗かされるような政権をもっていたのでは、今後もちつづけても仕方がない。朝鮮の現状では、このおそれもあるかも知れないので、できるだけその他の方法をつくすとしても、ドイツでははっきり西独の優位は決まっているのに、いまだに消極的、反対的であるのは馬鹿な話である。ソビエートが東独や東欧から兵をひくのは、アメリカが西独やフランスから兵をひくよりは、一層多くの危険があるとも思はれるのに、ソビエートの撤兵の提案にうけて立てないのだからお話にならないのである。

 アメリカは資本主義国として軍備を減らすことを経済的破たんをおこすものとしてほんとにおそれているのだろうか。まさか巻き返して攻め入る考えはないと思うが、若しソビエートの軍事攻撃をおそれているとすれば、逆に現在効果をあげているのは、ソビエートとの軍事攻撃の意図ではなくて、乎和攻撃であることを指摘しておかねばなるまい。
 このような諸点について、アメリカの政治指導の精神を立て直さないと、真に追われるものの地位にこげついて仕舞うというほかはない。