年譜I(1872-1900)
ライン
1872(0歳)
・5.18,午後5時45分頃、Wales に生まれる。愛称 Bertie。
1874年(2歳)
・母及び姉、ジフテリアにかかり死亡
1876(4歳)
・父 (1842-1876)死亡。ロンドン郊外 Richmond Park 内の Pembroke Lodgeの父方の祖父母のもとで18歳まで過ごすこととなる。(ラッセルは兄フランクとともに1876年2月、Pembroke Lodge 到着)
・英語と同様、すでに独語が話せた。
・毎朝7時半から8時までピアノの練習;朝8時、家族の祈祷;食事は質素;1年中冷水浴励行
[Pembroke Lodge の住人: 祖父母、ラッセル、兄フランク、Agatha伯母さん、Rollo 伯父さん、及び、8人の使用人。]
1878(6歳)>
・5月28日,祖父 John Russell没
1883(11歳)
・8月9日、兄より初めてユークリッド幾何学を学ぶ。38歳で Principia Mathematica を完成させるまで、数学が主たる関心事となる。
・宗教について疑問を持つ。
1884(12歳)
・12歳の時、初めて性の事実を知る。
・12歳の誕生日に、扉に、'汝、群衆の為す悪に従うことなかれ(Thou shalt not follow a multitude to do evil)' と書かれた聖書を祖母からもらう。
1886(14歳)
・祖母の知的限界がラッセルにとって耐えがたいものとなる。
1887(15歳)
・キリスト教信仰の根本的かつ合理的論拠と考えられるものを系統的に検討し始める。
1888(16歳)
・3月3日より、'Greek exercise'(『ギリシア語練習帳』)と名付けた日記帳に、主として宗教問題に関する若き日の思索を綴り始める。
・5月9日、ケンブリッジ大学の Trinity College 受験のため Old Southgate にあるギリシア語、ラテン語の速成塾に入寮(18ケ月間:ただし、土、日は帰宅)
・16歳〜17歳にかけて多くの詩を読む。ミルトンの詩全部、バイロンのものほとんど,シェークスピアのもの多数、テニスンの大部分。シェリーに共感。
1889(17歳)
・夏,Surrey 州 Hindhead にある Rollo 叔父さんの家で初めて、当時米国の Bryn Maur College の学生であった Alys Pearsall Smith(ラッセルより5歳年上)と出会い、一目惚れ。
・ケンブリッジに行く前、『ミル自伝』を読み、無神論者になる。
1890(18歳)
・10月,Cambridge大学のTrinity College入学。数学と哲学を専攻。
1892(20歳)
・2月27日,Apostles(=the Society) の一員に選ばれる。
1893年(21歳)
・5月18日、成人(21歳)に達し、亡き父の遺産2万ポンドを相続。
・9月13日,アリスにプロポーズ
・4年次、E. McTaggart 教授の影響で一時ヘーゲリアンとなる。
1894(22歳)
・12月13日、アリスと結婚
1895(23歳)
・1985年始め、二種類の一連の著作を執筆していくことを決意:'一つは、最も抽象的な論理学や数学から始めて具体的なものに向かう研究であり、もう一つは最も具体的な社会や歴史から始めて一般的・抽象的な原理に遡る研究'
・1月〜3月、ベルリン大学で経済学を学ぶために、アリスとともにドイツに旅行。(ラッセルは祖母の教育方針のおかげでドイツ語がしゃべれた。)ベルリン滞在中、週に3回ほどコンサートにいった。
1896(24歳)
・秋、アリスとともに,初めて訪米(3ケ月滞在)
・1898年にラッセルとアリスは、毎年何ケ月かをケンブリッジで過ごす慣例を始めた。これは、1902年まで続いた。
・この年の始めに祖母死亡
・1898末ごろ、G. E. Moore とともにヘーゲル主義を脱する。カントも捨てる。
1899(27歳)
・マクタガートの代理で、母校でライプニッツの哲学を非常勤で講ずる。
・10月、南阿戦争(=ボーア戦争)勃発。当時ラッセルは自由党員で帝国主義者であった。
1900(28歳)
7月,第一回国際哲学会議(パリ)にてイタリアの数学者 G. ペアノ(1858〜1932)にあう。
・19世紀の終わり(1900年12月末)に The Principles of Mathematics の原稿(=初稿)を書き終える。
・'関係の論理'の定式化、雑誌に発表。
・数学者・論理学者 G. Frege(1848.11.8〜1925.7.26)の影響

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