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アドホック・エッセイ&備忘録:2007年11月10日

松下彰良「小森健太朗『探偵小説の論理学-ラッセル論理学とクイーン,笠井潔,西尾維新の探偵小説』」



 著者の小森健太朗氏は、本書のあとがきのなかで、「本書のコンセプトとしては、探偵小説の批評書であると同時に、哲学書・思想書たらんと志した。」と書かれている。
 私は論理学の専門家でも、(探偵小説は好きである程度読んでいるが)E.クイーンやましてや西尾維新などの探偵小説を読んでいるわけではないので、本書を批評する資格はない。論理学や哲学の観点からの批評は、三浦俊彦氏がいずれ行ってくれると思われるので、ラッセリアンの私としては、多くの皆さんに読んでもらえるように、紹介だけさせていただくことにしたい。

 10月上旬であったか、浦和の須原書店本店で本書を買い求め、読み始めた。しかし、途中まで読んでいるうちに、E.クイーンの作品を読んでいなくて本書を読むのは不適切だと思い、とりあえず最後まで速読し、クイーンの小説を何冊か読んでから再読することにした。そこで、地元の公共図書館でクイーンの3作品を借り、『間違いの悲劇』『シャム双生児の謎』『オレンジ橙の謎』の順番で集中的に楽しんで読み、その後本書を再読し、11月8日にようやく読了した。

 本書は、バートランド・ラッセルの愛読者にも、探偵小説の愛読者にも推薦したい本である。しかし、興味深い内容にもかかわらず、ベストセラーになりがたい、いくつかの阻害要因があるように思われる。思いつくものをあげると、
  1. ラッセルの愛読者でE.クイーンの作品をたくさん読んでいる人でしかも探偵小説の論理学に関心を持っている人も、探偵小説の愛読者で探偵小説の「論理学」(ここでは現代論理学=記号論理学)やラッセルに興味を持っている人も、それほどいないのではないか。

  2. 最初は興味深く快調に読み進んでも、p.26の「ラッセルの記述理論」の説明のところで、いきなり論理式が9つ、ドバーとでてくるので、記号論理学の初歩の勉強をしたことのない読者は続けて読む気力がそがれてしまう可能性がある。(ここのところは、否定記号「~」がどの範囲までかかるかによって、9通りの場合があるということを言っているだけであるが、記号論理学の基礎を勉強したことのない読者は、続けて読みたいという気がなくなってしまうのではないか。巻末にでも簡単な解説を書いておけばよかったと悔やまれる。)

  3. 1)及び2)も影響しているのか、新聞等に書評が掲載されていない(?)、あるいはどこかの新聞に簡単な紹介が掲載されているかもしれないが、購読を薦めるような書評はほとんど新聞や雑誌等に掲載されていないのではないか?
 以上のような理由のせいか、大型書店にいっても、本書は平積みされることなく、置かれていてもいまのところ、1、2冊しか発見できない。

 テレビの探偵物やサスペンスドラマなどは、2時間以内という時間的制約があることもあり、不十分かつ飛躍した推理が時々あり不満に思うこともあったが、これまで「探偵小説の論理(学)」などということをまともに考えたことはなかった。単なる鑑賞者と実作者(もしくは評論家)との違いだろうと思われる。(推理作家でラッセルについてふれた最初は、江戸川乱歩だろうか。→ 江戸川乱歩「ラッセルと探偵小説」

 本書で言及されているラッセルの著作は以下の通りである。

・「指示について」(1905)他、ラッセルの記述理論に関する諸論文
・『数学の原理』(1903)
・『数学原理(プリンキピア・マテマティカ)(1910-1913/+第2版=1927年刊)(哲学書房から『プリンキピア・マテマティカ序論』というタイトルで邦訳が出されている。)
・Logic and Knowledge

 本書のよりどころの一つは、三浦俊彦氏の著作であり、特に、『虚構世界の存在論』『ラッセルのパラドクス』を参考にされている。

 ウィトゲンシュタイン崇拝者でラッセルの哲学や論理学を安易に批判する人が多いが、小森氏も、ゲーデルの不完全性定理の結論に対する誤解(その誤解に基づいたラッセルのタイプ理論に対する批判/たとえば、柄谷行人による批判)について指摘しておられる。インターネットのホームページ上に同じ誤解に基づいたラッセル批判がかなり存在しているが、柄谷氏のラッセル批判やウィトゲンシュタインのラッセル批判の影響が大きいと思われる。

 小森氏は、厳密な(狭義の)論理学ではなく、広義の論理学(ラッセルがいう非論証的推理(論証))を表す言葉として、「ロゴスコード」という言葉を提案し、使っている。新しい時代の探偵小説の論理を考えるにあたり、この「ロゴスコード」は重要なものさしであり、その範囲は、時代とともに変化し変容している、と主張されている。

 以下、興味を引きそうなところを少し多めに引用しておきたい。この引用を読み、購読してみたくなる人がでてくれば、私の紹介の意義はあったことになる。
(p.64)還元公理を排除することで、日常での等号イコールを用いた論理的判断をウィトゲンシュタインは、論理の外に追いやる。・・・。(ラッセルとウィトゲンシュタインの)どちらが正しいと判定を下すわけではないが、探偵小説における論理を考察するというプラクティカルな課題に対して、ラッセルの論理観をとることをわれわれは選択する。(参考:石本新「ラッセルの論理学」)

(p.68)ホームズの探偵能力が一般人と隔絶しているのは、一般人が見落とすことをみてとる観察力や、豊富な知識による面が大きい。ホームズ物語は、20世紀の探偵小説においてルールとして確立されたフェアプレー観がまだ未成立であり、書き手のワトソンはホームズが知りえた情報を読者にフェアに開示していないことがよくある。

(p.70)こういったいい加減な推理が多く含まれるホームズの推理に関して、シービオクは、ホームズの推理は多くの場合、帰納でも演繹でもなく、「あてずっぽう」であると指摘している。

(p.73)・・・。相手の癖や心理を読むわざや技術は、名探偵には求められる技量だが、それは論理学で扱う論理とは違った地平にある。

(p.75)ラッセルは、『私の哲学の発展』(1959年)の中で、「非論証的推論」について一章をさいている。(松下注:ラッセルが非論証的推論について本格的に論じたのは、1948年に出版した『人間の知識』の中のことである。)

(p.87)エラリイ・クイーンによる論理的な探偵小説構築の試みは、バートランド・ラッセルが目指した厳密な論理学構築の試みとかなりの程度重ねあわせることができる。共通しているのは、どちらもが、「理想的な論理空間」を構築しようと試み、そのための基本的なルールとして「メタレベルへの上昇」を禁じたことである。

(p.99)(三浦俊彦氏の『ラッセルのパラドクス』から小森氏が引用したもの→)「しかし、ゲーデルの証明は、『プリンキピア・マテマティカ』に限らずあらゆる演繹体系の限界を示したものだった。当時入手できる最も包括的な演繹システムが『プリンキピア』であったため、代表として用いられたにすぎない。実際、数学や論理学にいかなる限界が見つかろうとも、数学と論理学の相対的関係を論じた『プリンキピア』の趣旨にとっては、ダメージとはならない。」

(p.121-122)では、探偵小説の論理で問題とされるべきレベルはどこにあるか。それにはまず、探偵小説の「ロゴスコード」において何が公理(広義)とされているのかを見定める必要がある。・・・。筆者はさしあたり以下の3つの公理の存在をあげることができると思う。
 (公理1)叙述の真実性の保証
 (公理2)探偵存在の保証
 (公理3)犯人の行動の合理性の保証
 (第2公理は、暗黙のうちに真理(探偵小説では正解とされる推理)の範囲が約束事として定められた範囲にあることを言っている。たとえば、A.クリスティーの『オリエント急行の殺人』のように、全員が共犯者というということではどのような犯行も可能になってしまうので、そのようなものは原則として、暗黙の前提として排除されなければならない。)

(p.136)クイーンがこの点で真実決定のために苦闘したのは、この論の文脈ではこの第2公理の恣意性を排除しようとする苦闘とみることができる。それは、自らの論理体系で「還元公理」をなしですまそうとしながら、結局「還元公理」を要請せざるをえなかったラッセルの苦闘と重なりあう。

(p.155)だが、この「ロゴスコード」の範囲は、時代とともに変化し変容している。それは、探偵小説においても観測することができる。(注:これが小森氏が強調したいことの1つであり、'狭義の論理学'との違いはここにある。)

(p.160)作者が意味を与えた事柄に読者が意味を感じるためには、作者と読者の間に、ある種の「ロゴスコード」の共有がなければならない。さきほど述べた、動機の可動範囲と並んで、時代によって変容する「ロゴスコード」が係わってくる領域である。読者に有意味と思わせる手がかりや伏線を作者が提示することができなくなるとき、探偵小説は危うくなる。

(p.180)このように、クイーンは初期の『チャイナ橙の謎』から、最後の『間違いの悲劇』にいたるまで、ラッセルの論理パラドクスにとりつかれたように、そのパラドクス・テーマを反復し、繰り返し、その謎に挑んでいる。

(p.181)そして何より、この作品(『チャイナ橙の謎』)の逆説的な性格があらわになるのは、密室の取扱いにおいてだ。普通、探偵小説で密室は、物語の最初で謎として提示される。ところが、この作品で密室が提示されるのは解決篇においてだ。

(p.198)この論の言葉でいえば、チャールズ・マンソンの(残虐な大量・無差別)殺人に、「ロゴスコード」の変容を嗅ぎつけていたのかもしれない。マンソンのロゴスがコードとなるような新しい時代に、はたして探偵小説は生き延びることができるだろうか。それが、クイーンが最後の作品『間違いの悲劇』で私たちに問うた問題だろう。

(p.221)これまでの論では、まだ現代の「ロゴスコード」を否定的に規定したにすぎない。より進んだ論では、それを積極的に捉え返す視座を得なければならない。

(p.238)こういう世界のもとで、従来のミステリが成立する余地は一見極めて狭そうに思われる。従来の論理を働かせる余地はかなり狭そうに思えるからだ。だが、後の節でとりあげる様相論理の考えを持ち込めば、必ずしもそうでない見かたも可能となる。