由良君美「バートランド・ラッセル卿のために」
* 出典:『理想』1970年9月号、pp.1-7.* 由良君美(ゆら・きみよし:1929.2.13~1990.8.10)氏は当時、東大教授(後に、東洋英和女学院大教授)。英文学、美学専攻。イギリス幻想文学研究の第一人者。写真はラッセル協会の研究発表会で講演中の由良君美氏。由良氏は、ラッセル協会設立発起人の一人/父親は哲学者の由良哲次
*(参考)四方田犬彦(著)『先生とわたし』(新潮社、2007年6月刊):
「先生」というのは'由良君美'教授のこと。同書より引用:「(p.46)二人の姉と一人の妹に囲まれ、病弱である上に、いつも同輩の男友達の世界から弾きだされていた君美少年にとって、書物は唯一の心の慰めであったようである。
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(p.91)増殖していく書物のせいで、浜田山の自宅が日常生活に支障を来たすまでになったとき、彼はより広い家を求めて転居することをようやく決意した。1977年夏、由良君美は武蔵野市吉祥寺に、美しいバルコニーをもった二階建ての邸宅を購入した。だが運び出すべき書物の分量を計算し間違えたため、引越し作業は困難を極めた。大型のトラックが二軒の家の間を往復し、新家屋に収容できなかった書物のなかには、そのままベランダに雨晒しの運命を迎えるものさえあった。」
* 29歳の由良君美(写真)
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1872年の生れであり、したがって98歳という稀にみる高齢をもって逝去された、数かずの栄誉につつまれたバートランド・ウィリアム・ラッセル卿の98年の生涯にたいして、この極東の一介の朴念仁が、いまさらなにを言うべきであろうか。
わたくしは、ラッセルを研究したことがあった」。哲学の道を志した以上、当然のことであろう。そのことを匿すものではない。(松下注:四方田犬彦(著)『先生とわたし』によれば、由良君美氏は、東大受験に失敗し、学習院大学哲学科→同英文科に学士入学→慶應大学大学院(西脇順三郎に師事)→慶應大学経済学部副手→同経済学部助教授を経て、高橋康也の引きで東大教養学部英語科助教授、教授となっている。ラッセルを研究したのは、学習院大学の時か、その後のことか不詳)しかし、わたくしは、はっきり言おう。わたくしは、ラッセルを翻訳紹介することによって、口に糊してきたことはないと。わたくしには理解できない、なぜ、ラッセルをかつぐことで、自己の存在理由をなりたたせてきた人たちが、この『理想』誌のラッセル追悼号にその心血をそそごうとしないのかが。この疑念を、どうして匿す必要があろう。
わたくしは、ラッセルの死を、わたくしの心の一隅で、ひそかに祭ろう。しかし、ラッセルの死に乗じて、「偉大であった」の、「かけがえのない大人物が逝った」のと、騒ぎまわったり、果ては、ラッセル思想の理解すらどうかと思われる猟奇の文章を、彼の死にさいして週刊誌に寄せ、あまつさえ、ラッセルの生涯をその女性遍歴史を中心に描いたベストセラーによって産をなそうという手合いにたいしては、仲間と思って頂いては迷惑至極であることを、まず申しあげておこう。
わたくしは、わたくしに分る限りのラッセルに尊敬を捧げるが、わたくしに分らないラッセルの部分にたいしては、無能をさらけだして、疑念を提出しよう。そのほうが、このラッセル卿の、いわば自説の修正に臆しなかった点にのみ秀れた稟質の認められる人物にたいする、営利を超えた恭敬になるであろう。
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ラッセル卿の偉大さは、なによりもまず、ヨーロッパ合理主義の本道に根ざす思考を、その極限にまで延長しようとしたところにあり、いわば、ヨーロッパ合理主義の「帰謬法」(reductio ad absurdum)に自己を化すことのできた誠実さに求められねばならない。ヨーロッパ合理主義は、バックル的なイメージで考えれば、19世紀的になろう。しかし、もともとそれは、人間が人間の状況を、人間の手で改善しようとする圧倒的な欲求をもち、その改善を行う能力を信じようとするかぎり、いつ・いかなるところでも、発動しうるものと、同一の諸結論だったのであり、その意味において、皮肉にも、人間性にかんする合理主義的諸解釈は、古典古代(ギリシア)の思想家の解釈と、大いに似通っていたばかりでなく、おそらく、それ以上に、ヨーロッパ中世後期の思想家の諸解釈と似通っていたのである。そのことは、たとえヨーロッパ十18,19世紀合理主義者たちが、スコラ哲学者たちを、自分たちとは全く反対の極にある人たちであると見なしていたにせよ、すこしも変らないことなのである。
われわれのラッセル卿が、社会改革を吟味するときに、パスカルやキェルケゴールやルソーよりも、聖トマス・アクウィナスを採ろうと宣言したことを、わが国のラッセル屋の人たちは、いったい、どこまで、身にこたえて考えたことがあるのであろうか。
ついさき頃も、ある新興宗教財団の経営する総合雑誌(松下注:『潮』のことか?)が、わたくしに、「ルソーとロレンス」を比較して論じながら、『現代人にとって生き甲斐とは何か』という特集に執筆し、ゲバルトとフィーリング人間(松下注:どちらも当時の流行)をともに排しながら、ユートピア論と終末論との抱き合わせ風土を論じてもらいたい、と要求してきたばかりである。ラッセルの死に際して、ひともうけしたい人は、この企画に快哉を叫ぶべきであろう。わたくしは、聖トマスを採るラッセルの思考に、ヨーロッパ的思考の、ぎりぎりの良心をみる者である。ルソーに走ることは、わたくしの採るところではない。
ラッセルと啓蒙思想家とのあいだには、なみなみならぬ連続性が認められる。ラッセルの平和運動に眼がくらみ、彼を自己の良心の権化と仰ぐ人たちは、どこまで、この点を、吟味しているのであろうか。「一般意志」の鼓吹者ルソーに同ずる人が、聖トマスに同ずるラッセルを、自己の亀鑑とすることがどうしてできるのであるか。
ラッセルとヨーロッパ啓蒙主義の命脈上の一線は、まことに深刻である。人間に内在する尊厳にたいする信念を強固に確立し、再建しようとして、ヨーロッパ合理主義者・啓蒙主義哲学者たちは、まったくあたらしいアプローチを採用した。つまり、権威の声に頼ることをせず、科学の証拠に頼ろうとしたことである。わがラッセルも同様であった。啓蒙主義者の哲学は自然科学の驚くべき発達によって活気を与えられていたし、自然科学は、それ以前のいかなる知識よりも、はるかに納得のゆく自然的宇宙像を描きだしてくれたし、知識の断えざる拡大のための技術を与えてくれるかに思われた。事実、ラッセルの哲学も、「事実」「判断」「意欲」のあいだに、厳正な意味論的区画を設定し、「確実な科学的知識」の漸次的拡大に期待をもち、その間、「判断」「断定」と「意欲」との区別とを、倫理的に立てることを、ラッセル倫理学の基本に据えてきた。このことは、近代合理主義者たちの思弁が、近代科学の発見したことがらの、最初の哲学的結晶化であったことと、相即するものであろう。科学によって突如拡大した地平線の与える熱狂によって、啓蒙主義者たちの思弁は、鳴り響いていたのだ。真理を獲得する不謬の方法を手に入れた以上、過去の絆は断ち切ることができるし、「経験」と「理性」という確固たる基礎に立って、人間の頭脳をほしいいまに発揮できるだろうという自信を、啓蒙主義者の思弁は反映していたといえる。
初期ラッセルの立場も、すべて、この思弁の反映であった。したがって、後年の『原子力時代に生きて』のラッセルの悲痛な悔い改めを信じて、初期のラッセルを知らない人たちには、つぎのようなラッセルの信条は、まったく、晴天の霹靂(へきれき)であろう。1890年代のラッセルは、シドニー・ウェッブとビアトリス・ウェッブの説を全く信じ、『ボーア戦争』を支持する帝国主義の立場に立っていた、ということである。この誤りに気づくには、ファシズムとカイザーの比較が、さらに決定的には、「原水爆」という絶対兵器の出現が、必要だったのである。とくに、ラッセルを戦後日本の世代に知名度たかい人物にするのに、この「絶対兵器」の出現が、ラッセル卿の唯一の認識論の根拠たる科学から生まれるまで、本人には分らなかったという、事実が絡んでいるのである。
(松下注:このあたりの書き方は誤解を与えやすい。/『ラッセル自叙伝』より引用:(1901年春学期、メイトランド教授の家にて。ラッセル29歳の時)'・・・。こうした回想の五分間が過ぎた時、わたくしは完全に違う人間になっていた。・・・。いままでは「帝国主義者」の一人であったが、この5分間の間にボーア人の味方になり、「平和主義者」となった。何年もの間、ただ正確さと分析のみを好んで来たのであるが、こんどは、美に対するなかば神秘的な感情、子供に対する非常な興味、それから、人間生活を堪えしのべるものにするような、何らかの哲学を見出したいと思う釈迦の願いにも似た深い望みをもって、いっぱいに満たされていることがわかった。・・・。')
啓蒙主義の代弁者たちは、科学という武器を、ありとあらゆる形式の問題解決に応用してみようとした。ラッセルも同様である。(松下注:いうまでもなく、ラッセルは科学の成果をそのまま鵜呑みにしているわけではない。)ただし、この場合、啓蒙主義そのものにかんしては、デカルトとロックとの根本的対立があった。デカルトは、他人から教育される一切の意見を拒み、しかるのち、数学的公理の確実な力と明断性とをそなえた「本有観念」だけを、うけいれようと決心した。つまり、このような純粋かつ不動の諸原理から、世界の構造をひきだそうと考えたためであった。ロックは、しかし、そうは考えなかった。ロックは人間の心を「タブラ・ラーサ」と考え、この「白い蝋板」の上に五官を経て印象が刻みこまれるものと考え、五官は生まのデータであり、この生まのデータから観念が合成され、この機械的経験的土台のうえに、理性という上部構造も築かれるのであって、この理性という建築こそ事物の永遠の秩序と法則的均斉を反映するものと考えた。デカルトとロックの相違は認めるにしても、ふたりをともに含めて、合理主義的思考が、数学的簡潔性をもって心のなかに、形づくられると考えた形体は、すでに、それより遙か以前、「信仰」とく「啓示」にむすびつけられてきた諸概念と、実は驚くほどの類似をもっていたのである。「神」「不死」「宇宙の道徳的完成」などの諸前提は、すべて、スコラ学のものであったが、合理主義者の抱いた観念も、すべて、これらを証明可能な推理として認めようとしたことは忘れられてはならない。ラッセルの場合、「神」と「不死」は、20世紀人の平均的通念に合わせて否定されているが、「道徳的完成」は、彼の「要請」のひとつであることは言うまでもあるまい。
ヨーロッパ合理主義・啓蒙主義は、その運動家たちが自認したよりも、遙かに遠い過去に負うものであったが、しかし、それだけに止らず、その時代の場景を反映し、その時代を支配していた社会慣習や制度への反抗であったことは重要である。ラッセルの場合、その多くは、ヴィクトリア朝の偽善と権力崇拝、ならびに無知に由来する抑圧からの解放に、その反抗心が向けられた。とりわけ、ヴィクトリア朝的良俗の遺制が性的慣習に現われるところにたいして、ラッセルの批判は、有効にむけられたと考えられる。『結婚と道徳』(Marriage and Morals, 1929)に集成された、ラッセルの「教育と性道徳」にかんする理論と実践がそれであった。この点についてのラッセルの主張は、『自伝』における晩年の告白を完全に裏切るほど、理想主義的に性急であった。平和で幸福な世界は、教育における急激な変化を伴わずには不可能であると説き、「幼時に因習的な教育を受けた人の十中八九は、なんらかの程度において、結婚と性一般について、ただしい正気の態度になることができない人たちである」と説いた彼は、ヴィルヘルム・ライヒとともに、性的ユートピストにすぎなかった。
啓蒙的合理主義は抑圧からの解をめざし、とりわけ「無知」からうまれた抑圧からの解放をめざした。しかし、この「無知」とはそもそも何であろうか。科学的認識からみた、人間の環境支配能力の拡大によって生ずる知識と反対のものなのであろうか。「抑圧」とはなにか。人間の制度が人間に作為的に加える抑圧なのか。それとも、ヨーロッパ的人間像が、「人間の自然」よりも「理性」を高位に置き、GNPの向上に文明のバロメーターをみようとするところに生じた「抑圧」なのか。ラッセルは、この問いにたいして、ついに答えるところがなかった。
歪曲・誤用・恐怖なども混乱のもとに隠されがちになる人間性の姿を、啓蒙主義は、たしかに再発見しようとしたといえるであろう。しかし、その道は、ラッセルの生涯を貫いた合理主義の信念、「宗教などは人類の幼年時代の未発達の心性」、に由来する、いわれなき恐怖として、すまされるものなのであろうか。むしろ、ヨーロッパ的理性の、いわゆる「普遍性」をさらに相対化して、人類学的思考を経て、そのあとに達しうる、ヨーロッパ的自己の異化ではなかったのか。ラッセルの思考が、認識論上、「論理的原子論」をついに離れることなく、倫理上、「主観主義」の枠を価値判断にかんして離脱することができなかった限りにおいて、ラッセルの思惟は、ヨーロッパ18世紀啓蒙主義の論理的延長の線上を、ついに離脱することはできなかったのである。
おそらく、この点において、20世紀1970年代に住む若者たちは、自己の世界史的合理性について、情ない幻想にひたっているといわなければなるまい。18世紀啓蒙主義者の合理主義は、現代の'べ平連'(松下注:「ベトナムに平和を市民連合」のこと)その他よりも、はるかに地域的偏狭にたいして我慢ができなかったし、インターナショナルな物の見方や、世界史的な普遍史的判断力において秀れた常識をもっていた。因習的なヨーロッパ社会の下らなさ、その偽善・その打算的功利主義とは対照的に、啓蒙主義は、一方において「文明の汚れを知らぬ原住民」を光栄化し、その他方において、「中国の賢者」を光栄化した。(前者については、およそ思想を口にする学生なら、ハロルド.T.パーカー『古代崇拝とフランス革命』(1937年)、ロイス・ウィトニイ『原始主義と進歩の観念』(1934年)を読んでいるであろうし、後者については、わが後藤末雄の『支那思想のフランス西漸』(東洋文庫)を読了して悟るところがあったであろう。)
ところで、啓蒙主義を支配した気分は楽天主義であった。啓蒙主義の強調の中心は、たえず積極的なものに置かれ、けっして消極的ではなかった。啓蒙主義は「人間信仰」の表明であったし、人間の燦然たる未来を予測する歩みでもあったのだ。方法と確信は、いずれも科学からひきだされたものだったが、啓蒙主義とラッセルを距てる世紀の主調は、あまりにも異っている。ラッセルにかんする最良の伝記を書いたアラン・ウッドの夫人にたいして、ラッセルはなんと答えたか、「宇宙の秘密は、ただ恐ろしいということ、これだけです」と。(アラン・ウッド著『B.ラッセル-情熱的懐疑家-』p.237) 人間の必要事とその願望について、知性を適用することの自信において、これほど、啓蒙主義思想家とラッセルとを赤裸々に距てるものはないであろう。
18・19世紀合理主義は、今日のいわゆる科学主義とは、天地雲泥の差があるものなのである。なるほど、アプローチの仕方と確信とは、科学からひきだされたものではあったが、啓蒙主義理性主義の主な関心は、専門分化した知識には全くなかったし、精密機械の力の推進力にもなく、ただ、人間の需要と願望にたいして、知性を応用することにしかなかったのである。この点において、今日言うところの科学信仰と、18・19世紀啓蒙主義の大半とは、あまりにも違うものだったのである。
今日の科学主義的思想は、高度にエソテリック(秘教的)であり、社会的には無責任であるか、または狭隘な功利的性質を露骨に示している。この点、18・19世紀啓蒙主義は、偶然を容認するまいとする必然論的態度と、権威侮蔑の点において最盛期スコラ思想とは違っていても、その精神と形体において、これほどスコラ精神の継承者にふさわしいものはなかった。ラッセル思想の曲折した過程を、もしも貫く何かがあるとすれば、スコラ精神を継承し、なおかつ、その精神においても形体においても、またその偶像破壊と権威侮蔑の精神においても、最も忠実であろうとする精神の営みであったということができよう。
たしかに、科学の示したデータは、教会の教父たちのドグマとは著しくちがっていた。しかし、もっとも顕著な科学的進歩は、観察や実験的帰納的な分野のものというよりは、思弁的演繹的分野から生じたものであったことも、今となっては、覆うべくもない事実である。天文学は化学を追い抜いたし、地質学や生物学は、ようやく批判的吟味をうけはじめたばかりの時代であった。それにたいして、数学は科学のあたらしい女王であったし、「科学というものは、こういうものになりうるのだ」ということの、完全な範型とみなされ、数学こそ、普遍的な知識にいたる鍵を握るものとされた。ここから啓蒙主義的合理主義思想には、演繹的推理の顕著な傾向がみられることになり、不謬の前提から発して、個々の事例へと論理的に抽出してゆく手続きをとることになり、人間の行動や社会制度の活動の変数の研究にさえも、この態度の応用がとられることになったのである。ラッセルの哲学上の業績の主要なものが、1900年から1916年までになされたものであるということ、その大半が「数理モデルにもとづく論理判断の還元であることは、以上の2世紀を貫くヨーロッパ思想の歩みの必然から、はじめて理解しうることなのである。
たしかに、未来にかんする態度において、スコラ派と啓蒙主義者とは違う点があった。スコラ派は人類の究極の超越的目標をもとに未来を考えだし、それに反して、啓蒙主義者たちは、もう間近かだと信ずる未来にむかって希望をつなぎ、未来こそは、現在の人間の条件の耐えがたい重圧から、人間を解放してくれると考えがちであったといえよう。それに反して、合理主義者たちは、純粋に人間的な地平での課題を、思考の対象にした、と一応言いうるであろう。つまり、自由な行為者としての人間が、自分自身の未来を計画構想し、自分自身の努力と知性の善導によって、実現できる未来のみを、課題にしたと、いいうるであろう。しかし、そうではあっても、13世紀スコラ思想家たちと、18世紀合理主義者とのあいだには、人間の可能性にたいする評価、また、人間の理想状態を形づくるものについての思考において、驚くべき一致がみられる。スコラ思想家たちは、制度の面における変化の可能性を、決して除外してはいなかった。たとえば聖トマスは、「自然法」の不変性を信じていた(これは啓蒙主義者も信じていた)一方で、「人定法」は「人間の条件の変化のゆえに」変化することは果して正当なりや否やの問いをかかげて、この問いに肯定の問い(答え?)を与えたのである。
また啓蒙主義者はスコラ思想家と比べて、変化の必然性をなお一層、強調しがちであったとはいっても、理性の理想型に合うように制度を改変しようとする啓蒙主義者の希望から、これも生じたものだったのである。このような理想型の存在を信じ、その獲得に成功しさえすれば、未来永劫にわたって、人間はこの理想型を永続化できるであろう、と啓蒙主義者の大半が信じたことは事実である。「究極因」を排し、客観的な倫理判断の成立根拠を否認したとはいえ、ラッセルの思考の根底にあるものは、意外に、数学という理想型を基にした、スコラから啓蒙主義に至る思考の筋道の西欧的再確認なのである。
このことは、たとえば、ラッセルの「多元論」とく「熟知」の確実性とをめぐる、根深い信念にも及んでいるように思う。たとえば18世紀啓蒙主義の継承者トマス・ペインは、人間の権利と理神論、自然と理性の宗教とのために、あくない論陣を張ったが、なぜ神は単一の世界を創らずに、かくも多様の世界を造ったかという疑問にたいして、つぎのように答えた。それは、科学においても技術においても、人類にたいして、よりたやすく教えを垂れようとする特定の目的が、神にあったからなのだ、と、つまり、「倫理的・科学的・機械的」なすべてのことにおいて、神を模倣する努力をする時が、人間にくることをペインは望んだわけである。
この面においては、ラッセルの信念は、神を排除し、倫理と科学との妥当範囲を慎重に分けようとすることになろう。自然主義をとろうと、価値情緒主義をとろうと、主観主義をとろうと、超越的な倫理基準の成立を懐疑するならば、すべては同一の懐疑に帰着するからであり、T.E.ヒュームの批判に耐えることのできない弱点を露呈することになるであろう。
しかし、この弱点は、逆にまた、啓蒙主義のもうひとつの烈々たる伝統と合するとき、ラッセルの後半生を一貫する平和運動への献身となったことも、これまた真実なのである。人類解放をめざして、フランス啓蒙主義哲学者たちは、公然と、または寓意的に、有害な諸制度を弾劾した。抑圧的な政府も、教会の淀も、検閲も、経済的国家干渉も、法体系も、奴隷制も、戦争も、すべては啓蒙主義思想家の鋭い非難の砲火にさらされた。17・18世紀のあいだに、合理主義者によってなされた「永久平和のための草案」の幾多の具体的提案を、いまわれわれは想起することができる。
紛争をなくすための適切な手段はもとより、紛争の根底にあるそもそもの諸原因をなくそうとして、彼らが払った考察のすべては、われわれの時代の諸考察を予見しており、とりわけ、ラッセルの平和運動を凌ぐものさえある。国家と社会の基盤は、平和と一般福祉さえまず与えられるならば、再建の道がつくこと、つぎに、政府権力の制限と、権力の分出・人民主権・自由人の手による契約を経ての市民社会の成立が、当時においては、啓蒙主義者の、「地上の都」を「天上の都」に近づける最も確実な道として考えられていたものであった。ドルバックやコンドルセたちは、ルソーとともに、民主的な生活方式の創造が、永久平和の前提条件であると考えていた。
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ラッセルの生涯を振り返るとき、わたくしに最も端的に浮びあがるのは、この「啓蒙主義最後の思想家」としての彼の姿である。論理的原子論への信頼も、平和運動への挺身も、すべては、幾多の矛盾をはらみながら、ラッセル思想のこのヨーロッパの知的伝統の主流の一つとの関係を物語る。
この主流を綜合する時代にラッセルがおらず、ある意味で、その末端に立つことになったことは、ラッセルの罪ではない。むしろ、いささか大時代であることによって、かえって、1940年代以降の哲学専門分化の道に自解することなく、生涯を、科学的合理主義と平和主義との独自の合体の方途に円熟しえた幸福な巨人として、現存のルカーチ(1885-1971)とともに、わたくしは、ラッセルを讃えたいと思う。(了)