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湯川秀樹「現代科学者の任務 -第10回パグウォッシュ会議に出席して」(昭和37年9月)

* 出典:湯川秀樹著『創造への飛躍』(講談社文庫C5、1971年7月刊)pp.78-81.
* 湯川秀樹(1907~1981):1949年に「中間子理論」で日本初のノーベル賞(物理学賞)受賞。1953年より京都大学基礎物理学研究所長。科学者の社会的責任を痛感し、終生、核兵器の廃絶と世界平和のために、発言・行動をし続けた。

ホテル・ラッセルの写真画像(松下撮影)  (1962年)9月初めのロンドンは涼しかった。夜になると寒いくらいであった。ケンブリッジから戻ってきたとたんにカゼをひいてしまった。第10回パグウォッシュ会議の会場であり、また宿舎でもあるラッセル・ホテル(右写真 Hotel Russell:1980年8月松下撮影)の一室に身を横たえながら、何とかして一日も早くカゼを追っぱらわねばならないと思った。少なくとも会議の第一日だけは出席しなければならないからである。
 会場には、35ケ国から200人あまりが集まった。90歳を迎えたバートランド・ラッセルが思ったより元気そうな足どりで現われた。かつての鋭い感じとは打って変わった柔和な顔つきである。英知と慈悲を兼ね備えた高僧という感じである。ラッセル=アインシュタイン声明(1955年7月9日)以来、わずか7年の間にパグウォッシュ運動がこんなに大きく発展したことは、彼にとって大きな喜びに違いない。1957年の第1回の会議の出席者は22人にすぎなかったのであるから5年間に10倍にふえたわけである。大きくなったのは結構であるが、この運動を一貫する根本精神が忘れられてしまってはならない。ラッセルはこんどの会議に声明の最初の署名者全部に出席してもらって、その趣旨を再確認しようと思ったのである。日本からは、こんどはだれかほかの人に出てもらうつもりでいた私も、そうなると出席せざるをえなくなった。ラッセル以外の10人の署名者のうち、アインシュタイン(A. Einstein, 1879-1955)とジョリオ(F. Joliot-Curie, 1900-1958)ブリッジマン(P. W. Bridgman, 1882-1961)とは、もうこの世の人ではなかった。ボルン(Max Born, 1882-1970)とマラー(H. J. Muller, 1890-1967)は病気でこられなかった。
 開会式の壇上に並んだのは私たち5人だけであった。地元イギリスの科学大臣へールシャム卿がまず長い演説をした。彼ははじめに「政治には、まだ科学的理論がないが、そういうものを作るのは容易でない」といった。私はこの人はなかなかよく物を考えているらしいと感じた。そのあとで政治が科学技術の発達した現代にマッチしていない点の省察を行った。この演説のつぎには、いくつかの国の首脳や国連事務総長や学士院長などからのメッセージが10あまりつづいた。その後のラッッセルのあいさつの中で、妙に印象に残ったのは、彼が披露した、出席できなかった2人の手紙の一部であった。ボルン(注:Max Born, 1882-1970:1954年にノーベル物理学賞受賞)は「第3回の会議で自分が座長をしていたときもつぎのような言葉をさしはさんだ。'気のきいた合理的思考法だけでは不十分である。大量殺戮の危険は、・・・国家的傲慢と偏見を人類愛で置きかえる決意などの倫理的信念によってのみ克服できる'。こんど出席したとしても、自分は同じことしかいわないだろう」と書いている。また、マラー(Hermann Joseph Muller、1890-1967:アメリカの遺伝学者。1946年にノーベル生理学・医学賞)は、「今となってみると、公的な支持が少なすぎるのを心配したのと同じくらいに、多すぎるのを心配しなければならなくなってきた」と書いている。後者については、日本はまだ心配しなくてもよさそうである。私がこういう会議に出席すること自体、首をかしげる人がまだまだ多いからである。前者は私たちが5月の科学者京都会議で強調した点の一つと一致している。実際、この会議に日本から提出された論文はモラルに関するものであった。旧知の物理学者ハイトラー(W. Heitler, 1904-1981)が、もっと広い意味での科学とモラルの問題にふれたのを心強く思った。

 しかし、ここに集まった学者たちの大部分は、モラルの問題に関心がないどころか、才気ある合理的な思考以外は、はいりこんではならないとさえ思っているように見受けられた。そういうえ考え方の人の中には、当面の軍縮問題だけに努力を集中すればよいという意見の人が相当数いるらしかった。しかし、そうなると勢い強大国の人たちの技術的考察だけが重要視されることになる。少なくとも、ときどきはこのロンドン会議のように、もっと問題をひろげ、中小国の人たちも多数参加する機会があたえられる必要がある。ここで取りあげられたのは「科学者と世界の安全保障」というような軍縮に直接つながる問題のほかに、「社会における科学者の地位」「科学における国際協力」「発達しつつある国の援助における科学」「科学と教育」などがある。これらの問題はどれも重要には違いないが、国連の諸機関で取り扱われているものも多い。パグウォッシュ会議として取りあげる以上、そこにおのずから違いがなくてはならない。そういう点では私は失望を禁じえなかった。
 もう一つの問題は、パグウォッシュ会議自身の組織をどうするかであった。5年間に10倍も大きくなったのは喜ぶべきことではあるが、同時にそれは新しい困難をもたらした。個人本位のルーズな組織という当初からの性格と相補的なものとして、地球上のいろいろな地域の人たちが、それぞれ組織をつくって、この運動に参加するという新しい性格が前面に出てきた。その意味でパグウォッシュ運動は一つの曲がり角にきたといえよう。
 会議の初めの3日ほどは、無理をして出席していたが、だんだん気分が悪くなってくる一方なので、最後の一日間は、ホテルの部屋に引っこもって寝ていた。幸い、ケンブリッジの会と違って、日本から小川岩雄君もきてくれ、ロンドン大学にいる亀淵迪(すすむ)も参加した。小川君がある程度、私の代弁もしてくれた。会議の最後に声明が発表されたが、この種の声明の意義は、パグウォッシュ運動の初期にくらべて、かなり減少した。実際この声明自身の最後は、つぎのようになっている。
「私たちはいまや、原則に関する一般的声明では十分でない段階にきている。行動が必要である。・・・。完全な軍備撤廃と、恒久平和とは現実的であり緊急であるという私たちの確信を、ここにかさねてはっきり表明する。この事業はまさしく人類の進歩のための、長期にわたる苦闘の一部とみなさるべきであり、そこでは科学者が責任ある役割をになっている。世界のいたるところの科学者に、私たちと一緒になって、この使命を果たすよう呼びかける」
 科学者の一人として、日本人の一人として、また人類の一員として、私のするべきこと、私にできることは何であろうか。理論物理学の研究と両立させるにはどうしたらよいのか。小川君の持ってきた声明を読みながら考えこんでいたら、頭痛がひどくなってきた。カゼは日本へ帰ってもまだなおらなかった。