吉田夏彦「ラッセルのパラドクス」
* 出典:『絵のパラドクスと言葉のパラドクス』(岩波書店、1986年10月刊)pp.84-89 に収録* 吉田夏彦氏(1928~2020)は当時、東京工業大学教授。
* 本書は、1986年1月27日から27日まで、3回にわたり岩波書店小ホールで「だまし絵とパラドクスの科学-エッシャーの楽しみ」という題で行われた講演の速記録をもとに、半分ほど削った上、必要な補足を行ったもの。
* 吉田夏彦「(ラッセル)哲学と論理学」(1970年5月)
たとえば、さっき(前節)の家族ということを考えてみますと、源義経は源氏でしたから源氏という大きな家族を考えますと、源義経は源氏の一員であるということができます。平重盛はそうではなくて、これは平氏に属しています。いまでもこの人はなになに家(け)の人だとか、なになに家の人でないとか、いろいろなことをいいます。そしてお嫁にくればなになに家の人になるということは昔はありました。いまは男女同権で民法的にいうと結婚すれば一つの世帯をつくるので、親類全体に(法律的に)属するといういい方は必ずしもできないかもしれませんが、社会的な関係としてはやはりお嫁に行けばいままでの自分の生家を離れてそっちの人になるとかいろいろないい方があります。
この、一つの集合に「属する」という関係に注目しましょう。
家族の話だけじゃなくて、会社の話を考えてもいい。だれだれさんはなになに会社の社員であるということでもよろしい。パンダなんていまは珍しくはありませんが、パンダを見たことがない人が初めてパンダを山のなかで捕まえてきて、動物学者のところに持っていき、「これ、なんですか」と聞いたときに「これはパンダだよ」という。そのパンダという動物の種族に、この目の前にもってきたこの個体が属することを、動物学者は教えてくれたのです。
こういうふうに一つのものが集合に属するという関係はわかりやすい関係なのですが、ここでaが自分自身のメンバーになることはない。つまり、aはaに属してはいないという命題を考えてみます。
aのところに何を入れるかによりますが、aがaに属するのではないということは普通の場合には、いつもだいたい正しいのです。たとえば、A社になになにさんは属しているが、A社がA社の社員だなんてことは普通はありません。あるいはパンダの個体はパンダという動物の種類に属している。だけど動物の種類は動物という個体ではありませんから、そのパンダという種類がパンダという種類に属しているというのはナンセンスのいい方のように思われます。
このへんがちょっと微妙になってきますのは、皆さんの大部分は日本の国籍を持っていらっしゃると思いますが、そうすると、日本という国家に属していらっしゃるといえると思います。ところで市民が何かのことで国家を相手に訴訟をおこすことがありますね。とくに無実の罪で長く苦しめられていた方などが無罪が確定したとき、国家賠償法というのがあって国家に対して賠償を請求できる。そのときに賠償があまり十分でなければ国家を訴える。このときに国家をいわば人間と同じ位置においてやるわけですから、日本国家というものが日本人と同じ扱いを受けることがある。そうすると、日本という国家は法人ですが、ある意味で日本人であるといえるのじゃないか。だから日本の国はやはり日本の国民であるといういい方ができるか、これは法律的にどうなるかわかりませんが、言葉づかいによく気をつけないと、そういう感じがするときがないではない。
だから例外としてこういう条件を満たすようなものがあるかもしれない。しかし、そういうものがあるにせよ、ないにせよ、これは条件としては非常にはっきりした条件ですね。だからaが自分自身に属さないという条件を満たすものの例を挙げなさいといえば、たとえば、さっきいったように会社とかいろいろなものを挙げることができる。もちろんわれわれ個人は集合ではありませんから、私一個人が、その個人に属するなんてことはない。だから個人もまた、この「aがaに属するのではない」という条件を満たすことはすぐいえると思います。
この条件を満たすもの全体で一つの集合ができないかということを考えてみますと、おかしなことになります。このことを初めていったのは、さきほど名前の出たバートランド・ラッセルです。
仮にこういうことで集合がつくれるとします。その集合をラッセルの名前に因んでこれをRというふうに呼ぶことにしましょう。
さて、RがRに属するとします。RがRに属するとすれば、Rは自分自身に属さないというこの条件を満たすもの全体でしたから、RがRに属しはしないことになります。こうしてRがRに属し、属さないという矛盾がでてきたのは、RがRに属すると前提したからです。そこで、RがRに属さないとすると、問題の条件を満たしますから、RはRに属することになります。こうして矛盾の逃げようがなくなります。この例で、ラッセルは、集合の概念を無造作に使うと矛盾が出るということを示したのです。
これは「この頁に書いてある文は正しくない」という「嘘つきのパラドクス」と構造がよく似ています。
「この頁に書いてある文は正しくない」
このことが正しいとしても正しくないとしても矛盾するので、これは困ったというので、タルスキー(Alfred Tarski, 1902-1983)が工夫をしたという話をしましたが、それとなんとなく似た感じがします。自分について何かいおうとするような論法がどうもパラドクスに縁があるようですね。「この頁に書いてある文は正しくない」というのは、その頁に書いてあること自体を指している。それからここではある集合が自分自身に属するか属さないかということを問題にしている。
集合論に矛盾があることは、ラッセルが示したのが初めではありませんで、その前にすでにカントール自身が自分の集合論のなかに矛盾を見つけております。ほかにもいくつかの矛盾がすでに発見されていたのですが、ラッセルのはこの集合論の最も基本的な概念である「属する」という概念を使って簡単に出した矛盾であるというのでたいへん有名です。カントールの矛盾の方は、集合論をある程度知らないとわからないのですが、ラッセルの矛盾は集合論のごく入り口のところですぐにぶつかる矛盾です。
これがなぜパラドクスといわれたかといいますと、集合というのは非常に自然な概念で、家族とか生物の種であるとか、会社とか、国とか、同窓会とか、一杯機嫌で集まった人たちが偶然あるところでそこにこしらえる集まりとか、いくらでも例がある。そこでわれわれは一つの条件を満たすもの全体で集まりをつくるという考え方に慣れていた。しかも数学に使って非常に便利だ、こんなにわかりやすくて便利な概念なのに、それを使うと実に簡単に矛盾が出てくる。ということは当時の先入見に反したのでパラドクスだったわけです。
この矛盾を解くには、このときにどうするかということについてはいろいろな意見がありました。集合の概念がどうもよくないのだから集合の概念を一切追放しようではないかという意見の人もあったのですが、それはどうもできない。実際、現在でも数学者は少しも集合の概念を放擲(ほうてき)はしていないのです。集合の概念がないとどうも不便だというのが大多数の数学者の言い分です。