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吉田洋一「バートランド・ラッセルのことなど」

* 出典:『心』(平凡社)v.27,n.5(1974.05)、pp.76-81.
* 吉田洋一氏(数学者:1898~1989)は、吉田夏彦教授の父。吉田洋一氏は、名著「零の発見」(岩波新書)で有名。

 若いときに読んだ本そのほか、比較的最近読んだ本そのほか、そういったものについて読後感みたいなものを書いてみようか、と思う。なかにはもう手許にないものもあるにしても、一々原典に当ってみる暇もない。したがって、これから書くことはうろおぼえの由なしごとばかりである。

 
 大正のはじめごろ、岩波書店から、『思潮』という雑誌が刊行されていた。たしか、阿部次郎が主筆で、安部能成その他、主筆とほぼ同年代の人たちが毎号執筆していたか、と思う。
 (旧制)高等学校に大正六年に入学した私は、ときどきこの雑誌を買ってきて、寄宿寮で読みふけったものであった。どんな記事が載っていたかは、もうほとんどおぼえていない。ただ、どうしたわけか、阿部主筆のものした「六号記事」に記されていたことだけが、いまでもいくつか記憶に残っている。
 「六号記事」というのは、今日のことばでいうと、「編集余録」とよばれているものに当るだろう。六号活字で組んであるのが習いなので、こうした名称が生まれたものらしい。これは何もこの雑誌にかぎらず、一般的な用語であったように思う。ただし、阿部の六号記事は、他の雑誌の場合に比すると、とびぬけて長いものであった。その六号記事に、あるとき、次のような話が載っていた。
二階の窓側でタバコをふかしていたら、庭で遊んでいた子どもが、「おとうさん、何しているの」とたずねる。「ご勉強」と答えると「本も読まないし、書いたりもしないでご勉強とはおかしいな」と子供がいう。子供にはかぎらない、机に向かって本を読むか、ものを書くかしていないと、世人は勉強とは思わないものらしい
ざっとこんなことであった。
 なまけものの私にとって、これは何ともありがたい福音であった。明窓の下、端座して書見にいそしむなどということは、私のもっとも苦手とするところなのである。この六号記事をよんでからは安心し、もっぱら、阿部流の「勉強」をほしいままにするようになった。いまでも、何か考えごとるときはもとよりのこと、本を読むのにも、たいていねころぶか、楽な椅子にふんぞり返って、タバコをふかしているのが常である。ものを書くのが不得手なのもこの習癖があるためらしい。
 もう一つ、こんなことも書いてあった。
「戦争(第一次世界大戦)がはじまると、ドイツの思想家、イギリスの思想家もみんな時流に脚をすくわれてしまった。そのなかで、ひとり毅然としているのはバートランド・ラッセルだけだ。」
というのである。
 この一節は、私に強烈な印象を刻みつけた。なにかにつけて頭の中に浮かんでくるのである。

 
 大東亜戦争がおこったとき、私は人並みに日本の勝利を一途に祈念していた。と同時に、国内の状勢を眺めて、いろんな人たちが気ちがいじみた言論をもてあそぶのを読んだりきいたりすると、ともすれば、ラッセルのことばがあたまに浮かんできたものであった。一度立ちどまって振り返ってみたらどうかななどと考えて、人に洩らしたこともあったが、うなづいてくれる人があっても、ただそれだけのことで、なんにもならなかった。
 私の祈念にかかわらず、戦争は敗北に終った。と、たちまち、いままでやれ皇国精神の、やれ皇道教育の、と騒ぎまわった同じ連中が、こんどは「敗戦は日本国民にとってよき教訓だ」とか、「教育は民主的でなければならん」とか、打って変った「進歩的」言論を弄しはじめた。いうことは変ったが、時流に脚をさらわれていることは相変らずである。私はまたもラッセルを思いださずにはいられなかった。
 戦後しばらくの間は、時勢はアメリカ一辺倒のような気配をしめした。日本の伝統は何もかも駄目であるかのようにいう人もでてきた。日本語をやめて、フランス語に代えた方がいいといった珍説を吐いた人もいたそうである。
 そういえば、たしか昭和二十五、六年ごろであった。そろそろ「源義経」とか「新平家物語」など、いわゆる時代小説が新聞や雑誌を賑わしはじめた。これに対し、「軍国主義の復活だ」とか、「封建性への郷愁だ」とかいう批判の声をあげる人がいたらしい。読書家相手のある新聞の記者から、この問題についての意見を求められたとき、私は苦笑を禁じえなかった。ずいぶん苦労性の人がいるものだ、と思った。それとも、「自分は進歩的、平和的であるぞ」と誇示するためのジェスチャーかしらと勘ぐってみたりもした。歴史小説ブームの今日と思い合せると興味なしとしない。当時ああいう批判を行なった連中は、今の状勢についてどういう感想を抱いていることだろうか。

 
 私がバートランド・ラッセルの名を知ったのは、阿部次郎の六号記事を読んだときが初めてではなかったらしい。それ以前から、数学者としてのラッセルの名を耳にしたおぼえがあるようなのである。だれから聞いたのか、どんな本で読んだのか、いまではかいもく見当がつかない。
『数理哲学序説』の表紙画像  ともあれ、第一次大戦後、ラッセルの名は日本でもとみによく知られるようになった。デモクラシーということばがはやりにはやった時代である。ラッセルの著書 Roads to Freedom といったたぐいのものが翻訳され、かなりの読者をかちえたらしい。それかあらぬか、今日でもラッセルを社会思想家及至は社会運動家としてだけしか知らない人も少なくないようである。
 しかし、それはラッセルのほんの一面にしかすぎない。現に、第一次大戦中、「脚をすくわれなかった」ラッセルはその反戦運動の故に牢に入れられたのだが、そのほぼ一年間(松下注:刑は減刑されて入獄していたのは約5ケ月ほど)Introduction to Mathematical Philosophy という本をものしているのである。ただし、この本の訳書が出たのはもっとずっとあとだったようにおぼえている(松下注:平野智治訳で、1942年に弘文堂から出版されている)。しろうとわかりのするように、彼一流の明快な文章で書かれているのだが、日本ではそれほど世評には上らなかったようである。これは今日とちがって- あるいは今日と同様に- 数学が人気のない学問であったせいなのかも知れない。
 それはさておき、いま上げた本の題名からも推しはかられるように、ラッセルは哲学者であり、また数学者でもあるのである。最初の著書のことは別として、その二番目に公けにした著書は、「幾何学基礎論」(An Essay on the Foundation of Geometry, 1986)とでも訳すべきものであった。その後、著わした数学書を挙げれば、Principles of Mathematics があり、また、ホワイトヘッドとの共著 Principia Mathematica, 3 vols., 1910-1912 がある。前者は英文で書かれたものだが、後者は序文のほかは論理記号で書かれている。未完のままのこの書は、大判の分厚い三冊から成る大著なのだが、その本文にはときたま一、二行の短い英文が点在する、どのべージを開いてみても、たいてい、論理記号からできた式がベタベタ書き並べてあるだけなのである。口の悪いアメリカのある数学者が、「著者以外にこの本を通読した人は十指にみたないだろう」といったようなことを書いていたように記憶する。実のところ私も、もとより、これを通読してはいない。しかし、そうはいっても、この本こそは、今日の記号論理学・数学基礎論の草分けの一つといってもいい本なのである。これらの本についてここで紹介することは適当ではないであろう。ただ言及するだけに止めておきたい。

 
 昨年(1973年)の春、西銀座でふらりとはいった本屋で、The Autobiography of Bertrand Russell, 3 vols. という本が眼についた。さっそく買いこんできて、その年の夏休みにはこれに読みふけった。小型のペーパーバックだが、三冊で千ペ一ジを越すものだけに鎖夏にはちょうど手頃のよみものであった。ノーベル文学賞を授与されただけあって、その文章は平明であり、まことに読みやすかった。そのすこし前に、同じイギリスの数学者 G. H. Hardy の自伝を読んだことがあったのだが、その重苦しい文体にくらべて、なんとラッセルの文章の快適なことよ、と思ったりしたものであった。
 ラッセルの自伝の What I Have Lived For というプロローグは、「自分の生涯は三つの強い願望(松下注:Passions なので、むしろ3つの「情熱」)によって支配された」といったような意味のことばから始まっている。その三つの第一は「愛」といっても、これは男女間の愛のことらしい-へのあこがれ、第二は「知識の探究」、第三には「人類の苦悩に対する耐えがたい憐れみ(憐憫の情)」、だというのである。 第二、第三はいいとして、「愛」が第一に掲げられているのは、私にとっていささか思いがけなかった。しかし、読んで行くほどに、なるほど、ラッセルはずいぶん女出入りの多い人だ、ということがわかり、納得の行く気持になった。かつて日本に来訪したとき連れてきた秘書のミス・ブラックとは後に結婚し、また、離婚をしたらしい。
 ともかく、問題の第一の願望を、ラッセルは十分充たしたらしいが、第二、第三についても、そのために費した努力は並々ならぬものがある。よみ終ったとき、何という充実した生涯を送ったんだろう、という嘆声を洩らさずにはいれなかった
 もしかりに、私が年少のころにこの本を読んだとしたら、どうだったであろう- こんなことも考えてみた。こんな怠けものにならずに、及ばずながら、もっと充実した人生を送りえたのではないか。そんな気もしてきたものでる。もっとも、第一や第三の願望は、どうせ私の手にはおえない。せめて、第二の願望についてだけでいいから、もっと真剣に努力しようとしたかも知れない-などというと、自分の本を修身書扱いにしているといって、ラッセルはさぞ苦笑することであろう。

 
 続いて、昨年の夏にやはりラッセルの書いた A History of Western Philsophy というのを読んでみた。やはり鎖夏用には手頃の大きさの本である。
 哲学史などは若い生意気盛りによんで以来、久しぶりのことなのだが、このラッセルの本はそれまでによんだ哲学史にくらべて異色であるような感がした。寡聞な私のよんだ範囲では、今までの哲学史には思想の系譜は書いてあっても、その背景についてはあまり触れていなかったような気がする。この点ラッセルは、かなりの紙数を費して説明してくれているようである。
 もっとも、そのために却って私にとってわかりにくいところがあったことも否みがたい。ことは主としてキリスト教に関してである。アリウス派とかネストリウス派とか、キリスト教内のいろんな流派の名前がたくさん出てくる。なかにはその教義の説明のついたのもあるが、全然説明もなしに突如として顔を出してくる流派の名前もないではない.そうしたことは西洋では常識なのかも知れないが、無知な私にとってこれは苦手であった。
 苦手なところはいい加減によんだが、そうした上での漠然たる印象をのべると、キリスト教のために何と多くの血が流されたことよ、ということになる。ロシヤ革命以来、マルクス主義の故にずいぶん流血の惨事があったようだが、これとキリスト教とくらべて、一体どっちが罪が深いかしらというようなことも考えさせられた。
の画像  それからもう一つ。裏面の事情はともあれ、キリスト教徒間の流血の争いの表向きの原因の多くは神としてのイエスの地位に関する見解の相違であったらしい。読んでいるイエスを単に人間である教祖として、神扱いにしなかったら無事であったろうに、などと不信心者の私は考えずにいられなかった。現に、イスラム教では、マホメットは神にはならないらしい。イエスとともに予言者ということになっていると聞く。ともかくも、つまらないことで無駄な血をたくさん流したものだ、という感はどうしても拭い切れなかった。(右イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953)

 思いつくままに書きなぐっていたら、結局、ラッセルのことばかり書いてしまったようである。実をいうと私は、ラッセルの本をそうたくさんは読んでいない。また、読んだ本の中味にいつも共鳴ばかりしていたわけでもない。ここに書いたことは、おそらく、世に周知のことばかりだろう。ラッセル協会とかいう団体のあることを小耳に挟んだだけに、こそばゆい感を免がれないでいる。
 白状すると、書きはじめるときには、ラッセルに引っかけて「日本語は非論理的な言語か?」といった問題に触れるつもりだったのだが。横道にそれてしまった。さきにも書いたとおり、私は机に向かうのが苦手。したがって、ものを書くのが苦手なのである。編輯者の度々のご催促に対し、これでどうにかお応えしえたことにしていただきたい(了)