「湯川秀樹博士の死去について」(『毎日新聞』1981年9月9日第1面_余録より
湯川博士がついに亡くなった。「ついに」という平凡な言業をどうしても使いたくなる、肉体をむしばんだガンとの永い闘いの果ての壮絶な死であった。またいたいたしい病躯(く)で、世界連邦と核兵器の廃絶による恒久平和を呼びかけることによって、日本最初のノーベル賞学者はいつしか一般の庶民からも「湯川さん」と、親しげに呼ばれるようになった。湯川さんは本質的に「やさしい」人だった、と思う。「友人の大多数にとって、小学校から(京都)一中、三高にかけて、私は特に目立った存在ではなかったらしい。」と自伝『旅人』や『本の中の世界』で書いている。「神童」などではなかったといいたかったようだが、平凡人のわれわれも'ホッ'とする。
厭(えん)世的で孤独な人間と自ら決めていた。しかし物理学者になる過程で、身近な家族や、多くの友人の声に導かれたことも忘れていない。
平和運動に入った動機について「私の研究してきた原子物理学から核兵器が出現した。間接的にせよ、その分野の研究者として私なりに責任を感じています。」と語っていた。この運動に関しては終始静かな情熱家だった。
今年元日、本紙で渡辺格氏と「生命操作と人間の未来」について対談した。最後に物理学が核兵器に「悪用」された例をひいて、「学問には意外なことが起きるんです。」と書き、「正月の話としては大分悲観論的になってしまいました。」と結んだのが印象に残る。
六月、久しぶりに開かれた科学者京都会議に出席、若い後進を前に核廃絶を訴えた姿には鬼気せまるものがあった。湯川博士の「遺言」を生かせるか、無視するか--私たちはいまその瀬戸際に立たされている。