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村上陽一郎「ラッセル」
『現代思想』1978年9月(臨時増刊総特集号)pp.20-21.

* 村上陽一郎(むらかみ・よういちろう:1936~ ):東京大学大学院比較文化博士課程修了/東京大学教養学部教授、同・先端科学技術研究センター教授・センター長を経て、1995年から国際基督教大学教養学部教授(東京大学名誉教授)
* 村上陽一郎氏のホームページ



ラッセル(Bertrand A. W. Russell, 1872-1970)

 ヴィクトリア女王時代二度に亘って首相を務めたジョン・ラッセル卿を祖父に、またJ.S.ミルと親交があり、急進的自由思想家として知られた――但し、まだ幼いラッセルを残して早く他界した――両親の下に生れたラッセルは、名門貴族の子弟によくあるように、正規の初等・中等教育を受けずに、ケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学、数学と哲学を学び、暫く母校で教鞭を執ったが、次第に平和運動、婦人解放運動、反道徳運動に熱中して、一九一六年、母校を解任。あるいは自らの教育哲学の実践を目指して、二度目の夫人ドラと、一切の「抑圧」を解放した実験校(Beacon Hill School)を設立運営したが、「非行少年」の巣となって敗退、数度国会議員に立候補したが、落選。一九一八年には六ヶ月投獄の憂目に会う。(右写真出典:From R. Clark's B. Russell and His World, 1980)
 既成の結婚観や性道徳への反抗を実践した彼は、その点での同志だったはずのドラから訴えられて離婚。三度目の夫人を伴ってアメリカに移住(一九三八)、シカゴ、UCLAなどで講義を担当したが、ニューヨーク市立大学が彼を招いた際に、排斥運動が激発して、この話は沙汰已みとなる。
 こうしてつねに世間の常識に反抗し続けた彼だが、第二次世界大戦が始るや、反ナチズムの精神から平和主義者ラッセルは、断固英米の大戦遂行を支持、一九四四年イギリスに戻ったが、大戦終結後もスターリニズムに抵抗するための「冷戦」体制の側に立ったために、一般的名声は上った(一九五〇年ノーベル文学賞受賞)が、進歩派からは変節を論難されたりした。

 一九五四年ビキニ環礁水爆実験で突如再び行動的平和主義に立ち帰ったラッセルは、一〇〇歳に近い七〇年に他界するまでの最後の十五年間、パグウォッシュ会議や所謂「百人委員会」(Committee of 100)など核兵器禁止運動の文字通り先頭に立って行動し、坐り込み運動で逮捕されたりするほど情熱を燃し続けた。

 ラッセルの残した仕事は、一人の人間の為し遂げたこととしては例外的に広汎かつ多面的であるが、哲学上も、あるいはもう少し広く見て思想上も、何々派に属したこともなく、何々派を創ったわけでもなかった。哲学の場面で考えても、その一世紀になんなんとする生涯において、緩い意味での経験主義から逸脱したことは極めて初期の数年を除いてなかったにせよ、しかし何か絶対的な体系に向って自分の思索を一歩一歩彫琢するという練成、熟成の哲学者ではなかった。従ってここで載り出すラッセルの思想は、彼の一つの截断面にしか過ぎず、とてもその全貌というに程遠いことはお断りしなければなるまい。

 彼の哲学上の遍歴は、先ず、当時イギリス哲学界の主流だったへーゲリズムの洗礼を受けたことに始る。しかし数学に関心をもつに及んでへーゲルの数学観の「馬鹿々々しさ」から、忽ち一種のプラトン的観念論へ転向する。そしてこのプラトン的「数学的神秘主義」は間もなく捨てられるが、しかし人間の知的営みの中での合理的かつ理性的な側面への彼の関心は、次第に彼を論理と数理へと誘う。
 一九〇〇年頃からの一〇年間ほど、ラッセルの仕事はこの面に集中される。形而上学的には、彼はここで「原子論」的立場をとることになる。事物に内在的な関係を考える限り、事物はその本性上相互に浸透し合い、あるものはその内包的性質によって他のものを自らの中に含み……というわけで世界は唯一つの全的統一体として意識に統一される。こうした観念論を打破するために、彼は事物のアトミズムを主張し、さらに「関係」を事物の内在的性質から切り離された外在的な性質をもつものと考えた。原子的事実は、それ自体独立であって、それに対応する命題は、それゆえに真と考えられる。さらに全体とは切り離して個々の原子的事実を論ずることができる限り、「分析」という手法は哲学におけーる最も重要な道具とたる。
 こうして広い意味での「分析哲学」と軌を一にしながら、ラッセル初期のこのリアリズムは『数学の諸原理』に最も鮮明に現われた。しかしラッセルはここから新しい「構成主義」へ移行する。先ず数論において応用された構成主義は、哲学的に問題の多い数の内包的定義付けなどを一切捨て去り、それを只管極く僅かな論理的概念(集合)と論理的関係(含意、連言、選言、集合の要素)から構成するという立場をとった。この立場はすでにフレーゲという偉大な先例があったわけだが、この段階でのラッセルはフレーゲを知らなかったと言われる(ペアノからは直接的影響を受けた)。この立場こそ、彼の名を不朽にしたホワイトヘッドとの共著『プリンキピァ・マテマティカ』(全三巻:一九一〇~一九一三)の基礎となるものだった。この書物こそ、数学の論理学への還元という今世紀を支配する大きな潮流の象徴的存在となったのである。と同時に、すでに彼は有名な「ラッセルの逆理」を見出していた。この「自己言及」(Self-reference)を特徴とする逆理は、集合論や数学基礎論の世界にも巨大な影響を与え、彼自身が提案した解決策である「階型理論」ともども、その後のこの種の問題の宝庫となったのである。
 ケンブリッジの講師時代(一九一〇年代)のラッセルを彩る最大の事件はヴィトゲンシユタインとの出会いであった。はるかに年若なこの学生は、ラッセルから大きな影響を受けたが、師もまたヴィトゲンシュタインから強烈な印象を受けた。ヴィトゲンシュタインの『トラクタートス』に与えられた序文は、この特異の著者自身の満足を引き出すことはできず、ラッセルも後期ヴィトゲンシュタインを厳しく批判するようになる運命が待ち受けていたにしても。
 ラッセルの「構成主義」は、この時代に深化する。物理的概念を個人のセンス・データから構成できる、と考えていた時期は比較的短く、所謂「物理主義」に近付くが、論理的原子論は残され、言語表現による命題の構造と、世界の構造との対応が前提となるところから、言語表現は「理想言語」として把握されることになり、そこからオクスフォード派、つまり日常言語学派に対する苛烈な批判も生じてくることになる。
 何れにせよ、ラッセルの初期の仕事を土台にして一九二〇年代半ばヴィーンに成立したヴィーン学団の論理実証主義とは、つかずはなれずの立場をとりつつ、自らは、何らかの絶対的な「主義」を標榜することは決してなかった。
 その意味で、ラッセルはまさしく「情熱の懐疑家」であり、その懐疑主義は、隠遁への道ではなく、実践の道に連っていたと言える。彼の後継者でもあったポパーもイギリス哲学界の玉座を退いた今、ラッセルの遺鉢(衣鉢?)を嗣ぐ人物は見当らないにせよ。