N. ウィーナー「解放-ケンブリッジ、1913年6月~1914年4月」
N.ウィーナー(著),鎮目恭夫(訳)『神童から俗人へ』(みすず書房,1983年1月)pp.191-215.* 原著:Ex-Prodigy; My Childhood and Youth, by Norbert Wiener, 1953)
* N. Wiener(1894~1964):9歳でハイスクールに、14歳でバーバード大学に入学し、18歳で数理論理学の論文で学位を取得。学位取得後ケンブリッジ大学のバートランド・ラッセルのもとで数理哲学と数学を学ぶ。1919年 MIT講師、1934年から MIT数学教授。サイバネテックスの創始者。
* 鎮目恭夫氏(1925年~2011年):科学評論家、翻訳家。
(上記の図書からの抜粋)
第13章 知らぬ間に哲学者に-ハーヴァード大学、1911年~1913年
1911年の9月、まもなく17歳のときに、私は哲学での学位候補者として、ハーヴァード大学に帰った。・・・。
(p.179)
1912年に私は修士の学位を得た。これは博士号への特別の段階ではなかったが(松下注:博士課程の前期課程としての修士課程ではない、あるいは博士課程の前段階としての修士課程ではないということ?)、翌年学業が続けられない場合に備えたのである。・・・。
特筆すべきことは、この年はタイタニック号が氷山に衝突して沈没した年だった。これは来るべき大激変にふさわしい前触れで、私たちの情緒の安定に衝撃を与えた。・・・。
(p.181)
(p.189)
ハーヴァード大学の最終学年になって、私は海外留学の奨学金を申し込んだ。決定通知を受けた時、私はもちろん大いに感激したが、候補地として2つの場所が頭に浮かんだ。1つは、当時全盛のB.ラッセルがいたケンブリッジで、もう1つはペアノの名で有名なイタリアのチーリンであった。ペアノの全盛期はすでに過ぎており、ケンブリッジは数学的論理学の修業に最適の場所である知ったので、私はラッセルに手紙を送った。研究に出かける前に、そこの先生の許可を得ることが必要だったからである。
第14章 解放、ケンブリッジ、1913年6月~1914年4月
(p.194)
(p.196)
私が初めて見たイギリスは、まだ世界大戦による打撃も受けておらず、数々の植民地戦争とクリミアと南アフリカにおける大紛争を別にすれば、ナポレオン時代からの平和に酔っていた。その当時のイギリスは、富める者の天国で、貧しい者には地獄にごく近い国であった。そのイギリスでは、労働者が学者になることが今日のメキシコの労働者の場合よりさらに困難であった。このような階級制度と、それにともなうスノビッシネス(上にへつらい下にいばりちらす俗物根性)--それは富者の側のサディズムより貧者の側のマゾヒズムをいっそう多く含んでいた--は、その一部の要素がまだ残っているかもしれないが、今やすでに、旧フランスがフランス革命で消え失せたのと同様に、おおかた消え失せてしまったのである。・・・。
(p.197)
1913年(当時)の大学生は、貴族または少なくとも確固とした中産階級の子弟であったが、その後、奨学金に支えられた学生が多くなった。労働階級の子どもは、母の胎内にいる時も、幼時も、栄養失調にいためつけられ、歯は悪く、手は荒れ、古着を着て、ぼろ靴をはいていたが、奨学金で小学、中学、大学と進む道が開けた。こういう人たちが今日若い学者になっている。彼らは才能と人格のおかげで認められたが、社交上のぎごちなさで悩まされ、それをなくすため一生懸命意識的な努力をせねばならなかった。何人もの人が、私に、学長などとの会食の作法を身につけるために最初にせねばならなかった苦労を告白した。・・・。
(p.201)
このコースを聞いている時に私は初めて印刷になった哲学の論文を書いた。今からかえりみれば、それはとくによい論文とは思わない。それは大きな順序数の整列集合の中の正の整数の再整列に関するものであった。とにかく、それで私は印刷のインキの喜びを初めて知った。こういうものは成長途上の若い学者にとって強力な刺激である。その論文はケンブリッジで出版された『メッセンジャー・オブ・マテマティックス』誌にのせられ、それが印刷されるのを現場で見て満足した。
私はバートランド・ラッセルの二つのコースをとった。一つは感覚データに関する彼の見解のきわめて洗練された説明であった。もう一つのコースは『プリンキピア・マテマティカ』の講読のコースだった。第一のコースでは私は、感覚データの窮極的な本性についての彼の見解を受け入れることができなかった。私は今までつねに、感覚データは構成物であると--ただし、受け身の構成物、すなわちプラトンのイデアとは正反対の方向の構成物だが、プラトンの場合と同様に未加工のなまの感覚的経験からははるかに遠い構成物である--と考えてきた。しかしこの点についてのちがいを別にすれば、私にとってラッセルのこのコースは新しいものであり、すばらしく魅力的なものであった。とくに、そこで私は、初めてアインシュタインの相対性理論と、観測者の役割に対する新しい重視とを知った。この新しい見解は、すでにアインシュタインの手で物理学に革命をもたらし、やがてハイゼンベルク、ボーア、シュレーディンガーの手で物理学をいっそう完全に変革する運命にあったのである。ラッセルの講読コースは私を含め3人だけだったので、私たちはめざましい進歩をした。私は、はじめて論理学上の型(タイプ)の理論と、それが意味する深い哲学的考察とを充分に認識することができた。私は自分の学位論文の欠点がわかり出して恥ずかしかった。しかし、このコースと関連して、私は後に発表した小さな研究をした。その論文は、ラッセルから特別のお褒めは頂かず、また、当時何ら大きな関心の的にならなかったが、関係の理論を類(クラス)の理論へ帰着させる論文であり、数学的論理学の領域で、あるかなり永久的な地位を占めるものとなった。その論文は、私が十九歳になって間もない時で、ケンブリッジ哲学学会会誌(プロシーディングズ)に発表された。この論文は私の数学的な考察と著述への本格的なさきがけとなった。
今になってもまだ私は、バートランド・ラッセルとの接触と、彼のもとで私がやった研究とを説明するのはなかなか容易でない。私のニューイングランドの清教徒気質は彼の自由主義の哲学的弁護と衝突した。自由主義者としての自分の哲学的立場から、他の自由主義者が自分の妻の愛情を盗みつつある時も、ほほえみかつ上品ぶっているのと、着物の下に盗んだ狐を隠しているスパルタの子どもが、狐に噛みつかれていても平気な顔を装うのとには、大いに共通性がある。だから私は、哲学的な自由主義には親しめない。この古風な不徳義漢(ママ)は、少なくとも、勝手にせよということを楽しんだ。清教徒は紛糾から自分を遠ざけるに役立つ既知の自制の枠のなかでやっている。哲学的な不徳義漢は清教徒と同じように制限をうけているので、同じように狭い航路をうまく舵をとって進まねばならない。しかし、その航路には灯台も浮標もあまり設けられていない。この問題について私は非常に自由に意見を述べた。ある暗い夜、私がラッセルの住居の方へ帰ってゆく道すがらある友人に出会った時、私がその友人に言った評言がラッセルの耳にはいったことは確かである。彼は私の言葉を耳にした様子を全くみせなかったが、その夜以来、私はラッセルに対する批評をとくに用心するようになった。
当時の私の異議は後年ゲーデルの研究によって立証されたが、彼の証明によれば、論理的公理のどんな体系の内部にも、それらの公理から決定的な答をひきだすことのできない問題が存在する。すなわち、もしそのような問題に対する一つの答が最初の諸公理と矛盾せずに成立すれば、それと正反対の答も最初の諸公理と矛盾せずに成立することを証明できるのである。決定の問題に対するこの解決は、『プリンキピア・マテマティカ』でホワイトヘッドとラッセルによってなされた仕事の少なからぬ部分を時代おくれにした。
社交的な面では、バートランド・ラッセルとの接触でもっともすばらしかったのは、彼の木曜の夜の会だった。それは客の数があまり多いことから、ラッセルの「スクォッシュ」(群衆会)と呼ばれていた。非常にすぐれた人たちがそこに集まった。数学者のハーディもいたし、『ジョン・チャイナマンの手紙』と『近代シンポジウム』の著者で当時の自由主義的政治思想の防壁だったローズ・ディキンソンもいた。サンタヤナもいたが、彼はヨーロッパに永久に住むためにハーヴァードを去った人であった。これらの外に、ラッセル自身がいつも興味ぶかい話し手だった。ラッセルの友人ジョセフ・コンラッドとジョン・ゴールズワージーのことをずいぶん聞かされた。
3番目の G.E.ムーア博士は完全なマーチ・ヘア(三月兎、やはり『アリス』にでてくる)であった。彼のガウンはいつもチョークでよごれ、帽子はぼろぼろか、それともかぶらず、髪はいつとかしたとも分らぬありさまだった。しかもその髪は彼が手でとかす気短なくせにもかかわらずいつももじゃもじゃだった。寝室のスリッパぐらいのものをはいて、彼は町を横ぎり教室へ行くのだったが、そのスリッパと数インチも短いズボンの間には、皺くちゃの白い靴下が見えていた。黒板に書いた字を強調する時には、アンダーラインせずに、チョークで丸をかく妙なくせがあった。哲学的な議論では、彼は息もつかないほどの速さで、しかも、にこにこしながら、落ちついた様子で相手を縮み上がらせるような批評をした。彼はよく「ホホー。まあ無理ですな、正気な人ならソーンなふうに考えるなんて」と言ったものだった。少なくとも一度、彼は倫理学クラブの会合で、学部の学生たちから「マミー・ジョーンズ」と愛称されていたガートン・カレッジの女王 E.E.C.ジョーンズ嬢を泣き出しそうにさせてしまったことがある。しかし、私が彼を知り、私の研究の批判をしてもらうようになってみると、彼は親切で友情の深い人だった。