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宇藤昌吉「ラッセル論 -バートランドラッセルの哲学に関する2,3の方法論的考察

* 出典:『科学基礎論研究』(科学基礎論学会)n.38(v.10,n.3:1971年12月刊)pp.1-9(通頁でpp.93-101)
* 宇藤昌吉氏は当時、日本大学松戸歯学部の教員

(その1)
 I.
 アラン・ウッド(Alan Wood)は,未完成の著作「ラッセルの哲学-その発展の研究」の序のところで次のようにのべている。(写真は、アラン・ウッド夫妻と83歳のラッセル、1955年)
「ラッセルの仕事は非常に多くの異なる主題にわたっているから,行きとどいた解説が書けるほど十分にそれらの主題のすべてに通じている人は現在ひとりもいないであろう。もちろんラッセル自身は別としての話である。著者もそういう知識をもっているとは思わない。それゆえ、ラッセルについて述べるに当っては,さまざまな専門的主題を考察するために適切な見地を選びうる判断力をもつことが必要条件となる。……ラッセルについて書く者は,みずからの研究の範囲をどれだけに制限するかをはっきり述べる義務がある。これはかれ(研究者・批評家)みずからの制限が,書かれる事柄自身の制限ととりちがえられることのないようにするためであり,また同じ分野で他の人のなすべき仕事がどれほど多く残されているかを明らかにするためでもある。 * 1)
 筆者もラッセルを論ずるにあたり,この小論の考察の範囲と,何を目ざし,どんな見地から考察するか,ということより始めよう。

 この考察で「ラッセルの哲学」というときに筆者が頭にえがいているのは,ラッセルの「存在論」と「認識論」,すなわち,存在の問題,心と物または心身の問題,知識の問題等についてラッセルが提出した理論<* 2) である。いわゆる価値の問題,宗教,社会,歴史,経済等についてのラッセルの考えは考察の対象になっていない。この小論が目ざすことは,アラン・ウッドのいうように,ラッセルの哲学の批評ではなくそれの理解である* 3)。批評の前にまず理解することを企てて,ラッセル批判への資料としたいわけである。そのさい,この小論ではラッセルの哲学を「方法論的に理解」しようとするのである。ここで「方法論的に」というのは,ラッセルが提出している諸理論にたいして外的なもので,それらを取り扱う筆者(主観)のがわのもつ一定のプランまたは前提に合せて,ということである。したがって,「方法論的考察」とは,ラッセルの哲学を取り扱うさいに「筆者(主観)のがわのもつ一定の前提に合わせておこなう考察」ということである。
 このような考察で筆者が想定している前提は,「ラッセルの一つの哲学的理論,例えば中性一元論は,それをそのような形としてでき上がらせた種々の条件――これをひとまとめにして,ラッセルの一つの哲学的理論の基礎的部分* 4)とよぶことにする――に依存している。」ということである。そうして手始めに,ラッセルの一つの哲学的理論が依存している基礎的部分の一般的・特殊的在り方の捕捉・確認からラッセルを理解してゆこうとするのである* 5)

(その2)
 II.
 ラッセルの哲学* 6)を上記のような方法論的見地より展望して,ラッセルの哲学形成の基礎的部分にある――論理的・方法論的諸条件のうち――主要な点は何か,と問うたならば,およそ三つのことがらが浮かび上がる。それらは,(1)ラッセルが自分の哲学的理論,例えば,「中性一元論」,「知覚の因果説」,「論理的原子論」等の樹立のさいにどんな「哲学的課題」を設定し,それらの課題「解決」は何であったかということ,(2)そのさいラッセルの用いた「課題解決の方法」はどんなものか,さらに,(3)課題の設定,課題の解決,および一定の解決方法をこうずるという一連の作業にさいし,どんな見解を前提または利用したかという,ラッセルの用いた「方法論的諸前提」(methodological assumptions)は何であったか,という点である。

(1)「ラッセルの哲学的課題とその解決」
 ラッセルの設定した哲学的課題は「一般的課題」と「特殊的課題」の二種類に区別される。一般的課題というのは,ラッセルが一つ一つの哲学的理論の樹立にあたり,個別的に設定したものではないが,彼が哲学的思索のさいにはいつも念頭から離さなかった(離れなかった)問題である。それは相互に密接に関連しあった二つの事柄から成り立っている。すなわち,「世界についてのわれわれの認識の範囲」と「われわれのもつ知識の確からしさの程度」はどうか,という問題であった:
私の哲学の発展は,私が扱って来たいろいろな問題と,その業績によって私に影響を与えた人々とに応じて多くの段階に分けることができるであろう。しかしそれらを通じてただひとつたえず心にかけて来たことがある。いったいわれわれはどれだけのことを知っていると言えるか,またどの程度の確か(らし)さまたは疑わしさをもって知っているといえるか,を明らかにしようという熱意を私は終始もちつづけたのである。」<* 7)
このうち,前者の認識の範囲決定にあたり,ラッセルは何を認識するかという「認識の対象」についての問題と,いかにして認識するかという「認識の方法やその理由付け」にかんする問題を峻別し,もっばら認識の対象についての問題にとりくんだ。それは,われわれが外界について認識するのは ―例えばカントの認識論のように― 認識の方法,本性,または様式等についての一定の理論* 8)によるのではなく,もっぱら認識の対象を「観察」することによる,と考えていたからである。例えば,雨あがりの道を歩いていて一つの水溜りに出合い,それをよけて通るとき,「そこに水溜りがある。」という認識は,目の前の水溜りを見ておこなわれるのであって,この認識の成立にかんするこみいった論議によるのではない* 9)からである。ラッセルにおいては,認識の対象の範囲をきめる規準は「観察」である。そして観察の内容は,「われわれのもつ知識の確からしさの程度」の問題と密接に結びあっている。
 「知識の確からしさの程度」にかんしてラッセルは,1914年に発表した『外界にかんするわれわれの知識』* 10)において,デカルトの "de omnibus dubitandum" の方法を用いて,この世で最も確かな知識は何であろうかという問の答として,知識の確からしさと疑わしさの程度をきめている。それによれば,心身ともに健康な人ならその確からしさを疑いえないような所与を「硬い所与」(hard data)と名付けている。それらは,(1)今この場で実際に知覚している感覚所与と表象,例えば,「目の前の赤い色」や「今聞いている音」あるいは「今思い浮かべている,今から三時間前に見た友人の笑顔」等;(2)「もしAはBに等しく且BはCに等しいならば,AはCに等しい。」というような真なる論理的知識;(3)時間的・空間的関係の知覚,例えば,ボールを上に投げてそれが刻々と「上から下へ」落ちるのを見ているときの知覚;(4)二色の色を比較したときの類似性または相違性の印象,等である* 11)。これらのうち,実際に今この場で知覚している感覚所与と真なる論理的知識を「硬い所与のうち最も硬いもの」(the hardest of hard data) と名付けている。一方,直接には知覚されないようなもの,例えば,物の「実体」とか「本性」,あるいは「他人の心」等の存在については,上記の「硬い所与」にくらべてその存在はより多く疑いうる余地があるとして「柔い所与」(soft data)と名付けている。
 上記の一般的課題は,ラッセル自身のべているように,彼の哲学的思索のさいにいつもつきまとった問題であった。また,その答えとしての確かな知識とその確からしさの順序は,それ以後のラッセルの存在論や認識論に基本的な役割をはたしている* 12)
 一方,ラッセルはこの一般的課題とその解決を前提として「特殊的課題」,すなわち一つ一つの哲学的理論に直接関係した諸問題をとりあげ,それらの解決として種々の理論を樹立している。このことをラッセルの提出した「中性一元論」(neutral monism)について考察してみよう。
 いわゆる「中性一元論」は,簡単にいって,『この世界の究極的なもの,または根本的実在は「心」でも「物」でもない第三のもので,それは両方のどちらでもないものとしての「中性素材」(neutral stuff)である。「心」も「物」も,ともに中性素材より構成または定義される。』と主張する一種の一元論である。ラッセルはこの理論を自分の哲学的見解として1921年から1927年の約7年問にあらわした4冊の本* 13)で展開している。この理論樹立のさいにラッセルによって設定された特殊課題は二つあった。その一つは,二つの異なった傾向と内容をもつ心理学と物理学,または「心」と「物」はいかなる原理を用いて調和さすことができるか,という「原理の問題」であった。他の一つは「心」や「物」をいかなる方法で構成,または定義することができるか,という「方法の問題」であった。

(その3)
 まず第一の問題についてみると,ラッセルは1914年にあらわした「熟知の本性について」(On the nature of acquaintance)という論文* 14)では,知覚について二元論的見解を持っていた。すなわち,知覚は主観と客観の相互関係より成り立っており,主観の知覚する「感覚所与」(sense-data)は客観的なものとして,主観の持つ「感覚」(sensation)に相対して存在する,と規定していた。例えば,黄色い紙のもつ黄色は,その感覚,すなわち主観によって知覚された黄色と異ったものである,と考えていた。しかしこの同じ論文でラッセルは,主観と客観の存在を仮定しないエルンスト・マッハやウイリアム・ジェイムスの提唱した中性一元論的見解に大なる長所を認めていた* 15)。それは,知覚において主観・客観の二元論的見解は図式的には便利であるが,経験的には決して認識されない「主観」と「客観」の存在が前提されているが,ラッセルはこのような「形而上学的存在物」(metaphysical entities)を仮定するのは好まなかったからである。その後.1921年にあらわした『精神の分析』でラッセルは「オッカムの剃刀」* 16)を用いて「主観」と「客観」の存在を切りすてて,彼の知識の体系を組みかえた。すなわち,主・客の存在を前提しないならば,感覚所与,例えば「一片の四角い黄色」は,その感覚と区別する基準がなくなり,この両者は全く同一なものとなる* 17)。 これは物的存在でもなく,また心的存在でもなく,物・心に対して中性的なものという意味と,これより両者が構成される素材という意味で「中性素材」と名付けられた。そうして,これを「心」と「物」を調和さす基本原理とラッセルはしたのである* 18)
 第二の方法の問題ではラッセルは,いわゆる「論理的構成」(logical construction)の方法を用いた。ラッセルは1910年頃にアルフレッド・ノース・ホワイトヘッド: 1861-1947)と共著の『数学原理(Principia Mathematica)』で論理的概念,例えば「級」(class),「系列」(series)、「関係」(relation)等を規定しているが,その後、これらの概念を用いて「物」や「心」を定義する仕事にとりかかった。まず,1914年にだされた『外界についてのわれわれの知識』(Our Knowledge of the External World)* 19)において,ラッセルは「物」を,ついで1921年の『精神の分析』(The Analysis of Mind)で「心」の概念を取り扱っている。「物」の論理的構成では,上記のような「論理的概念」と「物理的法則」,「視野の法則」(the law of perspective),および「視野的所与」(aspects)* 20)を用いている。「心」の論理的構成には,すでに「論理的に構成された物」,「中性素材」――これは「感覚」と同一視された感覚所与――「表象」(images),「記憶の法則」(mnemic laws),「共在的複合物」(compresent complex)の概念等を用いている。
 今,視覚だけに限り一つの「物」,例えば「一枚の日の丸の旗」を論理的に構成するラッセルの手続きをみるとおよそ次のようである。一枚の日の丸の旗を一定の場所,例えば真上より観察すると,二つの感覚所与,すなわち「一片の赤い円形」と「一片の白い矩形」があり,前者は後者の真中にある,と一定の関係の中で一つの視野的所与として看取される。この視野的所与は,遠い所にあるものは小さく,また場所によって異った形や色に見えるという,視野の法則にしたがっていろいろな形,大きさ,色合いをする感覚所与をもったものとして看取される。例えば,「一片の赤い円形」は斜めからみると「一片の赤い楕円形」として看取される。また,「一片の白い拒形」はみる所により「一片の白いひし形」になる。これらの色は,また光線の具合で明るい色や暗い色を呈する。これらの視野的所与は,次に「系列」の概念を用いて整理される。例えば,上記の例で,二つの視野的所与を時間的な順序に合せてみると,先に見た「一片の赤い円形」を真中にいれた「一片の白い矩形」は後に見た「一片の赤い楕円形」を中にいれた「一片の白いひし形」の前にきて後にはこない。また,同時にはみられない。すなわち,これら二つの視野的所与は「非対称的系列」(a series of non-symmetric relation)になる。その後,三つ目の視野的所与として「一片の赤い長円形」を中にした「一片の白い細長い矩形」が看取されたとすれば,これら三つの視野的所与の関係は「推移的」(transitive)な系列を形成する。すなわち,第二番目の視野的所与(「一片の赤い楕円形が中にある白いひし形」)の前に,第一番目の視野的所与(「一片の赤い円形が真中にある白い炬形」)があり,これはまた第三番目の視野的所与(「一片の赤い長円形が中にある横に細長い炬形」)の前にくる,という関係ができる。このような系列は,「密な系列」(compact series) ―それぞれの項の間には他の項がより細かくはいりこむことができる性質をもつ系列― を形成し,時間的に刻々と移り変る一つ一つの視野的所与は密にかつ連続的に集められる。このさい,密な一連の系列中の各項(一つの視野的所与)の動きは物理的法則にしたがっている。すなわち,上に向って投げられた一枚の旗の視野的所与は,ある位置より下へ刻々と下がる密な系列,手から離せば下に落ちる密な系列,風になびいてはハタハタと音がする密な系列,等を形成する。ラッセルは,このようにして集められた一つの物のもつ密な系列の全体をその「物」,われわれの例では,「一枚の日の丸の旗」と「定義」している* 21)

(その4)
 一方,「心」* 22)の構成はおよそ次のようである。上記のように構成された一つのもの,例えば一枚の日の丸の旗 ―これは物理的法則にしたがって一定の密な系列に並んでいる視野的所与のまとまり― は他のものの視野的所与,例えば旗竿,青空,屋根等々の視野的所与と一定の関係で共在的に複合物を構成する。このようなものをラッセルは「共在的複合物」(compresent complex)というが,これは「青空のもとに,一本の旗竿に,風にハタハタとなびいている一枚の日の丸の旗」として看取される視野的所与のひとかたまりをつくる。ついで,これは時間の系列に沿って前後にならべ,密な系列としての共在的複合物を形成する。これらに、観察者の存在を加味すると,一連の共在的複合物があらわれる場所は,この場合どこでもよいというものではない: それらは特殊な局所場,すなわち,生きている脳髄,または観察者の脳随のある場所のみにあらわれる。そして,ここにあらわれる共在的複合物はいろいろな媒介物に影響をうけている。例えば.霧がかかれば,上記の日の丸の旗はぼんやりとしてくるし,目を手でおおえば見えなくなる。また,目,視神経等の感覚器官の状態により異なってあらわれる。こういうことを加味した視野的所与をラッセルはとくに「顕現所与」(appearances)と名付けている。これらの顕現所与のある所にはまた「表象」(images)もあらわれ,これらのものは時間的に密な系列をなしている。一つの生きた脳髄内にあらわれるこのような系列には物理的法則は適用されず,ただ心理的法則,例えば「記憶の法則* 23)が介在している。ラッセルは,一つの生きた脳髄のなかにあらわれる顕現所与と記憶の法則のみが適用される表象の総体を一人の人の「」と定義をしている。換言すれば,一つの視野,一つの有機体および記憶の因果津の三者の集まる一つの局所場において,一つの「心」が構成されるのである。* 24)

(その5)
(2)「課題解決の方法」
 以上,要点だけみてきたのであるが,ラッセルは自分で設定した一般的・特殊的課題をいつも「分析の方法」(the method of analysis)を用いて処理していた: 「私は哲学的問題の解決を,分析の方法によってもとめてきた。」* 25)
 ラッセルは,1940年にだした『意味と真理の研究』(An Inquiry into Meaning and Truth)の中で,自分の用いる分析の方法についてのべている* 26)。分折にはその対象により「論理的分析」(logical analysis)と「時間・空間的分析」(analysis into spatio-temperal parts)の二種類がある。論理的分析というのは,一つ一つ複合命題を命題関数を用いて,論理的または文法的に要素命題に分解することである。例えば,「すべてのギリシャ人は死ぬ。」という命題は,「xのすべての可能な値に対し,もしxがギリシャ人であれば,xは死ぬ。」と分解するのである。他方,時間・空間的分析というのは,時間的または空間的に分離されうる対象に用いられる。例えば,人間の顔Fは,二つの目E1とE2,一つの鼻N,そして一つの口M,という要素に分けられる。ついで,顔FはE1とE2,N及びMよりなる。;E1とE2は,左右に平らな一直線上に長円形をしており,NはE1とE2の中間で垂直にぶらさがっている狭い二等辺三角形をしている,MはNの直下にその中間点がある一本の水平な線をしている,と(いうぐあいに)要素の在り方や相互関係がつけられる。ここでいうラッセルの「分折」とは,(1)一つの時空にひろがっている対象(F)の各部の要素(E1,E2,N,M等)を解明し,(2)これら一つ一つの要素のもつ性質や状態(長円形,狭い二等辺三角形,水平な線,等)を捕捉し,(3)ついでそれらの要素間にみられる相互関係(左,右,上,下,中間,等)をつける,とう三つの点の確認である。* 27)
(その6)

(3)「方法論的前提」
 上記のように,ラッセルは一般的課題と特殊的課題を設定し,それらの解決をはかったのであるが,このさいラッセルは、自分の「方法論的前提」(methodological assumptions)を自覚していた。ここではラッセルがいたるところで強調している3点にしぼって話をすすめる。
 1.「四つの科学の成果を前提」
 ラッセルは自分の存在論や認識論をつくるにあたり,その時点における四つの異なる科学―物理学,生理学,心理学,それに数学的論理学―の成果を前提としている。例えば,上にのべた「物」と「心」の構成や「知覚の因果説」* 28)の主張にこれら四つの科学の知識が前提(と)されている: ラッセルはその時点時点の科学が教えることに合わせて(松下注:参考にして)問題を処理している。このことを音の知覚についてみると,一台の大砲の音を大砲より100m,200m,300m離れて立っている三人の人々がきく場合,ラッセルは音波の伝わる速度(一秒間に360m)を前提(と)し,三人のいる場所は大砲のある場所より距離が異なるから音をきく時間も異なる,ということを考慮する。すなわち,三人は音を同時ではなく,大砲より100mの距離にいる人(A)が最初にきき,ついで2OOmの所にいる人(B),そしてその後300m離れている所にいる人(C),という順序できくのである* 29)。このさい大砲の音は音波となって流れ,それが耳に入って鼓膜を振動させ,ついで各部の器官を刺激し,聴覚神経を通り大脳へと伝わってゆくが,この時「感覚時間」(Empfindungzeit)* 30)が介在している。こうして一つの「顕現所与」(appearance)* 31)として大砲の音の知覚がえられることになるが,三人の観察者にあらわれる顕現所与はそれぞれ異なっている。このことは,A,B,Cの三人が一所よりくる音を知覚し始める時間が異なり,知覚された音は,音の出る場所―大砲のある場所―にではなく,脳内でであることを意味する。このことはラッセルにとって物理学的・生理学的にみた一つの事実であり,これらの科学的知識を前提にすれば,さけられない帰結となるのである。
 このように,ラッセルが科学的知識を前提として自分の存在論や認識論をたてるのは,上記四つの科学が提供する知識は,経験的にみて,「実体」とか「イデア」という観念的な知識または概念よりも,問題とする対象が存在するかしないかということについて誤る公算が少ない,と認めているからである。* 32)


(その7)

 2.「オッカムの剃刀(かみそり)」
 上記のことは,ラッセルが「オッカムの剃刀」といっているラッセルの方法論的前提と密接に関係している。
 「オッカムの剃刀」というのは,「必要なくして実体をふやしてはならない」という格率をよりどころとして,ある科学におげる一団の知識(例えば,物理学とか心理学)が,あれやこれやの仮説的実体(例えば,物質,精神,イデア,等々)の存在を前提することなしに解釈されうるならば,そのような実体の存在を前提(と)する理由はない,ということである* 33)。そうして,「オッカムの剃刀を使用する」または「オッカムの剃刀で切りすてる」という言葉の意味は,経験的に真とも偽ともきめられない実体とか本性とかいうものの存在を,肯定もせずまた否定もせずに ―一時棚上げして― 前提せず,ただその存在がはっきりしているもの(感覚とか表象等)のみを用いて,問題とする一団の知識を解釈するという方法をとる,ということである。例えば,有限の大きさをもたない,ただ想定上の点や瞬間の存在を世界の構成要素の一部であると前提せずに,現実に観察される「出来事」(events)* 34)を素材として物理学を解釈してゆくというやり方をとることである。ラッセルが「中性一元論」で用いた論理的構成 ―すなわち,推論のみにより観念的に想定された「物」とか「心」のような形而上学的存在を論理的構成物(概念)でおきかえること― は,オッカムの剃刀を用いて「物」とか「心」という概念について,ラッセルの解釈のしかたを示したものである。そして,ラッセルはこのオッカムの剃刀を「科学的に哲学する」ための彼の最高の方法論的原則としている。* 35)

(その8)

 3.「Russellの困果論」:
 ラッセルの中性一元論には,これとは別に独立してたてられているラッセルの因果の理論が前提となっている。すなわち,ラッセルは,すでにみたように,中性一元論樹立のさいに,中性素材よりそれぞれ「物的構成物(概念)」と「心的構成物(概念)」をまとめる決め手またはクライテリア(判断基準)として,「因果津」(causal laws)とそれについての自分の考えを用いている。
「因果関係」はふつう「原因から結果への関係。原因性と訳される場合もある。現象の普遍必然的な説明原理とされるとき(因果律)または(因果法則)(英 law of causes 独 Kausalgesetz)」* 36)といわれている。しかし,ラッセルの因果の法則は,一つのものまたは出来事の存在より(から)他のものまたは出来事の存在を推論することをのべる一般的命題のことである* 37)。例えば,「すべての雷の音の前には稲妻が先行する。」という命題は,ラッセルにとっては,因果の法則の一例である。われわれは稲妻を見たとき,「間もなく雷の音がするだろう。」と予測(推論)する。また,稲妻を前もって見なくても,雷の音を聞いたときには,「前に稲妻がしただろう。」と思う(推論する)。このさい,このような推論を可能にするものは,ラッセルによれば,接触する対象そのものではなく,それらの間に帰納的にみいだされる一定の関係である。* 38)すなわち,推論を可能にするものは現実に知覚されたものまたは出来事(上例では,実際にきいた雷の音や見た稲妻),あるいはそれらより推論されたものまたは出来事(知覚された雷の音より推論された稲妻あるいは知覚された稲妻より推論された雷の音)ではなくて,これらの間に見られる一定の関係である。この関係は,しかし,知覚された雷の音,あるいは稲妻という出来事そのものに内在的に含意されれているのではない。それは,そういうものまたは出来事は,ラッセルによれは,相互に独立した,個々別々のものまたは出来事 ―これをラッセルは「個別者」(Particularss)とよんでいる― として存在するものであるからである。
 こういう特徴をもつ因果関係を,ラッセルは相互に排他的な二種類の因果律に区別する。一つの種類の因果律は物理学に属する一団の「個別者」(例えば,「日の丸の旗」,「ボール」や「机」それらの色,形,大きさ等々)のみに適用される。「重力の法則」や「視野の法則」は前者のみ、「記憶の法則」は後者にのみ適用されるものである。そして,物理的法則としての因果律のみが関係している個別者を,中性一元論でラッセルは「純粋に物的存在物」(purely mental entities)と名付けている。* 39)
 ラッセルの因果の理論を理解するときに注意を要する二,三の点は,まず第一に,「原因」(cause)と「結果」(effect)の関係は普遍的,必然的なものではなく,便宜上二つのものまたは出来事において先に起る方の出来事を「原因」(cause)といい,後に起こる方の出来事を「結果」(effect)とよぶのである* 40)。第二に,このような原因と結果の関係は,「純粋に物的存在物」については,同種の感覚所与の間,すなわち「視野的所与」または「顕現所与」間における関係であり,実体としての「物」―これは,ラッセルにあっては「オッカムの剃刀」で切られている―とその知覚としての「感覚所与」との関係ではないことである。同様に,「純枠に心的存在物」ついては同種のもの,すなわち「表象」間,あるいは「感覚所与」と「表象」との間の関係であって,実体としての「心」と「表象」との間の関係ではない。例えば,一枚の日の丸の旗を空に向って投げあげる場合,観察者は一所に止っているとすると,旗の視野的所与は刻々とその位置を変え,一こま一こまの視野的所与は順次下から上へゆき,また上から下へ落ちてくるように看取される。この時,前後に看取される任意の二つの視野的所与をとりあげた場合,時間的に先にくるのを「原因」,後にくるのを「結果」と名付けるのである。また記憶の因果律では,一つの現在の経験より以前の経験を思いだすというときには,現在の経験,例えば煙の臭いを感じて「今感ずるたきぎの火の煙の臭い」と表現される現在の経験「原因」となり,これより時間的に後に思い出される過去の経験の一つとして「あの時あの場所でのたきぎの火,その煙,およびその臭い」と表現される記憶(または表象)を「結果」として因果関係がつけられるのである* 41)

 III
 以上のことがらからわかることで,ラッセルの哲学の特徴の一,二をのべると,「物」や「心」の定義に数学的論理学の概念が用いられる,という特殊的課題解決の方法が適用されることより,ラッセルの哲学的理論(この場合「中性一元論」)は非常に数学的・論理学的に抽象された理論となる。これについてラッセル自身,自分の哲学的理論は「ドライな,緻密な,組織的なもの」であるといっている* 42)。また,「中性一元論」と銘打つラッセルの哲学的理論は,「中性素材」という一種類のものを根本的原理とするという意味では「一元論」である。しかし,この内容として沢山の個別者(particulars)としての「感覚所与」を認めるという意味では,「多元論」である* 43)。かつ,「二種類の異なった因果律」またはそれらにしたがう二種類の排地的関係にある「純枠に物的存在物」と「純粋に心的存在物」を取扱うことを認めている,という意味では「二元論」と性格付けられうる。すなわち,ラッセルのこの一つの理論は一元論的でもあり,二元論的でもあり,かつまた多元論的でもあって,一つの理論のなかにいろいろな要素が入っている* 44)
 この小論は,アラン・ウッドのいうように,ラッセルの哲学は副産物であるということを出発点とした。それより,ラッセルの哲学をそのようなものとして形成させだ諸要因を――方法論的なみかたから――三点にしぼって考察し,これらの在り方の捕捉・確認より,ラッセルを理解してゆくことに努めたしだいである。(了)



1)A.Wood,"Russell's Philosophy: a study of its development" in My Philosophical Development, by B. Russell(George Allen and Unwin Ltd., 1959),p.257.
(この本をMPDと略す。) 邦訳:野田又夫訳「ラッセルの哲学-その発展に一研究-」(『私の哲学の発展』:バートランド・ラッセル著作集・別巻: みすず書房、昭和38年刊)p.331.(この本を以後MPD2と略す。)
2)例えば、「論理的原子論」(Logical Atomism),「中性一元論」(Neutral Monism),「熟知による知識」(Knowledge by Acquaintance),「記述による知識」(Knowledge by Description),「型の理論」(The Theory of Types),「真理の対応説」(The Correspondence Theory of Truth),「外面的関係の理論」(The Doctrine of External Relations),「知覚の因果説」(The Causal Therory of Perception)等の理論である。
3)「・・・現在必要なことは,ラッセルを批評することではなく,ラッセルを理解することである。」(MPD2,p.222:MPD1,p.258.
4)「一つの哲学的理論の基礎的部分」のなかには,一般的にいって,問題とする哲学者(ここではラッセル)がもった私的・公的条件,例えば,その人がうけた遺伝,その人の性格,家庭環境,種々の経験,その人を準備した人々,その人が生きた国につたわる伝統,宗敦,社会的状況等々がふくまれる。ここでは,しかし,ただ「論理的・方法論的な諸条件」のみについて考察を進める。
5)このような理解をうながす方法論的考察の必要性については、例えぱ、Hans Joachim Storig, Kleine Weltgeschichte der Philosophie (Im Bertelsmann Lesering),1961, pp.20-25 を参照。このような方法による研究の成果については,例えば,山崎正一『カントの哲学』(東京大学出版会,1957年);浜田義文『若きカントの思想形成』(劫草書房,1967年)を参照
6)アラン・ウッドはラッセルの哲学を「副産物」とみる。:「ラッセルを理解するための鍵は,それが本質的に副産物であったという点にある。」,MPD2,p.339;MPD1,p.263.
7)MPD2,p.8; MPD1.p.11.
8)カントは,周知のように,『純粋理性批判』において認識が真なるための諸条件をあきらかにする理論を展開している。
9)Cf. Russell, "Beliefs: Discarded and Retained" in Portraits from Memory and Other Essays(London; George Allen & Unwin Ltd., 1956) p.44. 邦訳:中村秀吉訳「放棄した信条と保持している信条」(=みすず書房版・パートランド・ラッセル著作集第1巻『自伝的回想』) p.19.
10)Cf. Russell, Our Know1edge of the External World as a Field for Sceintific Method in Philosophy(London; G. Allen & Unwin, 1914), pp.70-72.
11)このうち,(1),(3)と(4)は「硬い所与」といわれるが,それぞれ主観的なもので,時と場合により誤認されることがある。例えば今,熱い湯の風呂に入っている一人の人間を見たとき,われわれは「彼はあつい。」といったとする。しかし,このことは無条件に確かであるとは保障できないとラッセルはいう。それは,今目の前で熱い湯――これは実際に熱い湯として――の風呂に入っていると思われる人間が,たしかに一人の人間のように見えるが実際には金属(かプラスチック)でできており,そのため人間がもっているような感覚能力をもっていないロボットであるかもしれないということがありうるからである。(Cf. Russell, "Reply to Criticisms" in The Philosophy of B. Russell, ed. by P. A. Schilpp(New York; Tudor Pub. Co., 1944) p.693. こういう主観的に硬い所与をラッセルは『人間の知識』では、「認識論的確実性」(epistemological certrainty)をもつという。Cf. Russel1, Human Knowledge, its scope and limits(London; George Allen & Unwin, 1948) pp.41-44. 邦訳:みすず書房版・パートランド・ラッセル著作集第10巻 p.246-247.
12)これらの取扱いは,しかし,一つ一つの理論樹立のさいに設定する「特殊的課題」のたて方により多少変ってくる。例えば,後述のように,「中性一元論」樹立にあたってラッセルは hard data のうち「感覚所与」のみを根本的実在としている。
13)それらの本は,(1)『精神の分析』(The Analysis of Mind,1921); (2)『外界についてのわれわれの知識』(Our Knowledge of the Extenal World,1926年の改訂版);(3)『物質の分析』(The Analysls of Matter, 1927); (4)『哲学既説』(An Outline of Philosophy, 1927)である。これらでラッセルは自分の「存在論」,例えぱ,この世界の根本的な実在の問題や「認識論」,例えば,「物質」や「精神」という概念の構成等を取り扱っている。
14)Cf. Russell, "On the nature of acquaintance" in Logic and Knowledge, ed. by R. C. Marsh(London; George Allen and Unwin Ltd, 1956),pp.127-174.
15)Cf. Ibid.,pp.146-147.
16)後述の「オッカムの剃刀」のところを参照。
17)「感覚所与」と「感覚」が同一であるということを言語的表現で捕捉するならば,それは例えば、「私は暑い。」("I am hot.")という命題と,「これは暑さである。」("This is hotness.")という命題は,同一な事実に対する二つの異った麦現である,ということである。Cf. Russell, An Inquiry into Meaning and Truth (London; George Allen and Unwin Ltd., 1940) p.114.
18)エルソスト・マッハ(Ernst Mach, 1838-1916)やウイリアム・ジェームス(William James, 1842-1910)の理論は,ラッセルの中性一元論形成に大なる影響を与えたが,マッハはラッセルのいう中性素材としての感覚を「世界要素」(Welttelemente),ジェイムスは、中性素材を「純粋経験」(Pure Experience)と名付けた。Cf. Ernst Mach, Die Analyse der Empfindungen und das Verhaltnis des Phychischen (Verlag von Gustav Fischer)、Jena, 1903. 4. Auflage (1. Auflage=1885). William James, Essays in Radical Empiricism; a pluralistic univers, ed. by R. Barron Perrry(Perry?) (New York; Longmans, Green and Co., 1947)
19)この時ラッセルはまだ中性一元論を自分の哲学的見解として採用していなかった: 「熟知の本性」でのように,「主観」と「客観」の存在を前提とする二元論にたっていた。この本は1921年以降中性一元論をとりいれてから改訂されている。すなわち,1914年の初版で主観・客観の存在を前提としているため,「感覚所与」と「感覚」を同一視していないことを明白にのべている箇所は,改訂版では訂正されている。例えば
 第一版(1914年)  改訂版(1926)
    p.76      pp.83-84
   pp84-85     p.92
 しかしながら,「物」の論理的構成の箇所は全く同じである。
20)「視野的所与」というのは,視野の法則――一定の場所から看取される感覚所与のありかたをつかさどっている法則――によって整理される感覚所与のことである。例えぱ,ある場所から看取される「一片の赤い丸」は地の場所から眺めると「一片の赤い楕円形」となるが,このときに観察者の位置も考慮してきまる一定の大きさ,形,色をしている一つ一つの感覚所与のことである。さらに,ラッセルが "aspects" というとき,それらにはただ視野だけに限られたものではなくて,感覚所与が観察者のいる場所に依存していろいろと変って見えたり聞えたり,感触される他の感覚器官からくる感覚所与もふくまれている。
21)Cf. Russe11, Our Knowledge of the External World as a Field for Scientific Method in PhilosoPhy (London, 1926) pp.107-134. このように構成されたものは概念であって物ではない。
22)ここでは,感情、意志等を除外して,ただ知覚にかんする心の面の構成を例とする。
23)これは過去の経験と習慣に支配されておこるできごとをつかさどっている因果律のことである。例えば,火傷した子どもが火を見て怖がる、という傾向があるが,それはその子どもが火を見るとき、火の感覚が「原因」となり,前に火傷をしたという思い出または表象が、そういうことが過去にあった経験に照らして,「結果」として浮かび上がってくるという,因果関係によるとする。
24)Cf. Russell, The Analysis of Mind (London, 1921) pp.124-136.
25)MPD2,p.13;MPD1,p.14.
26)Cf. Russell, "Chapter 24. Analysis" in An Inquiry into Meaning and Truth(A Perican Book, 1940; Reprinted in 1963) pp.309-321.
27)この分析の方法の用い方を解説し,その方法の正当性を主張する副産物としてできたのが ―方法論的にみると― ラッセルの「論理的原子論」(The Philosophy of Logical Atomism) である。
 Cf. "The Philosophy of Logical Atomism" in Logik and Knowledge, ed. by P. A. Schilpp (London, 1956) pp.177-281.
28)われわれの知覚する物(例えば太陽)を知覚しているのではなく,天上の太陽とわれわれの脳髄との間には複雑な物理的・生理学的媒介過程があり,この一連の過程の結果としてわれわれの太陽の知覚が成り立っている,とする説である。
29)Cf. Russell, "Reply to Criticisms" in The Philosophy of B. Russell, ed. by P. A. Schilpp (New York, 1944) p.702.
30)「刺激が感覚に作用してから感覚がおこるまでの時間。・・・通常(視覚では)100~200δ(δは1/1000秒)という。」『哲学事典』(平凡社)p.225.
31)Cf. この小論 p.4 1?
32)Cf. Russell, "Reply to Criticisms" in The Philosophy of B. Russell, pp.700-702.
33)Cf. Russell, Hlstory of Western Phllosophy, and its connectlon with political and social circumstances from the earliest times to the present day(London; George Allen and Unwin Ltd., 1945) pp.462-463. 邦訳: 市井三郎訳『西洋哲学史』III(みすず書房刊・パートランド・ラッセル著作集第13巻),p.83。
34)「出来事」とは,ある時間内,一定の空間をしめる感覚所与,または視野的所与あるいは顕現所与のことである。例えば,「自動車のタイヤのパンクの音」,「くさった卵の臭」,「蛙をさわったときの冷たい感触」,「稲妻」等々は,出来事の例である。
35)Cf. Russell, An Outline of Philosophy(London, 1927) p.287.
36)粟田賢三・古在由重編『(岩波小辞典〉哲学』(岩波書店),p9.
37)ラッセルの因果の法則についての考えは,取り扱う時期や対象の相違により異っている。ここでは,1914年と1926年に発表されている「外界についてのわれわれ知識」の中でのべられている考えによる。因果の法則についてのラッセルの考えとその変遷に関しては乞参照:Erik Gottlind, Bertrand Russell's Theories of Causation (Uppsala; Almgvist & Wiksells Bohtryekeri AB, 1952)
38)Cf. Russell, Our Knowledge of the External World(1926年版),p.216. この本では,ラッセルはこういう帰納的一般化の根拠として,「自然の整合性」(the uniformity of nature)(松下注:自然の斉一性)ではなく,確率の概念であらわされる「帰納の原理」(the princlpes of induction)をもってきている。Cf. Ibid., p225. それはこういう帰納的一般化には例外的なことが起りうるからである。例えば,いつも知覚された稲妻のあとに雷の音が聞えるとは限らないからである。
39)ラッセルは,中性一元論のなかで,「感覚所与」をいろいろな異なった呼ぴ名を用いているが,それにはそれなりの前提または条件がある。すなわち,「感覚」と同一視された感覚所与は,「中性素材」,「物」や「心」を論理的に構成しようとする脈略では「視野的所与」(aspects)または「顕現所与」(appearanes);時間・空間的動きを加味して「出来事」(events);二つの異った因果律に関して解説されるときは,「純伜に物的存在物」と「純枠に心的存在物」;感覚所与の一つ一つは内面的に関係はなく外面的に関係するものであるというときには「個別者」(particulars)等々とよんでいる。
40)Cf. Russell, Our Knowledge of the External World(London,1914) 因果律に関した箇所は1914年版も1926年改訂版も変化はない),p.220. ここで,例えば,稲妻と雷の関係でこれらは個別者であるとすれば,どちらを「原因」または「結果」とすれぱよいか,という問題がおこる、ラッセルは,このさい四つの科学の知識を前提して,稲妻と雷の音が同一空間内のある所で起ると,光と音とではその伝播の速度が異なり,一人の人のもつ知覚として両方を知覚するときは,光が先で音は後に知覚される。また距離が近く,両方とも同時に知覚されても,速度は光が早く音は遅いことより,すなわち知覚の「前・後」あるいは速度の「早・遅」という関係より,雷に関して,ラッセルは,稲妻を「原因」,雷の音を「結果」と呼ぶのである。そして,両方とも一つの雷について実際に知覚するときはこの因果関係は「物理的法則」としてのものであるが,どちらか一方だけを知覚して他方は表象(または記憶)により関係づけるとき,「心理的法則」としての記憶の因果律の例となる。
41))この例の場合,この両者の因果関係は必然的なものではない。それは「たきぎの火の煙の臭い」と判断しても,実は「わらをもやした煙の臭い」である,と後で判明することもありうるからである。
42)Cf. Russell, "The Philosophy of Logical Atomisum" in Logic and Knowledge, ed. by R. C. Marsh(London,1959),p.281.
43)Cf. Russell, An Outline o Philosophy(London, 1927),p.293.
44)したがって,ラッセルを理解する注意の一つとして,ラッセルの哲学的理論はその内容にしたがい何等かの条件付で性格付けされることが望まれる。例えば一口に「中性一元論」とはいっても,それはいろいろのことがらのあるなかでただ「中性素材」一つを存在原理としていることに目をつけていわれているのである,という条件付または部分的な性格付けであることを忘れないことである。このため,複合体のなかの一つの部分(または要素)のみを取り上げ,他の部分(または要素)を無視して,例えば、ラッセルを「何々主義者だ。」ときめつけるのは,便利ではあるが,ラッセルを分析的に見たとき,実情にそわないことになる。ラッセル自身,自分を「唯名論者」(nominalist)とか「実在論者」(reaiist)とかに割り切ってきめつけることを鎌っている。Cf. Russell, "Reply to Criticisms" in The Philosophy of B. Russell, ed. by P. A. Schilpp(New York, 1944),p.686.