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アーノルド・トインビーからラッセルへの手紙、1967年5月6日付_Letter from Arnold Toynbee, May 6, 1967(in Japanese)

* 出典:『現代とトインビー』(トインビー市民の会発行)no.49(1981年12月号)
* 手紙と解説(画像版)
* 英国の著名な歴史家アーノルド・トインビーがラッセルの誕生日直前にラッセルに送った手紙です。邦訳(日高一輝・訳)に多少問題がありますが、そのまま掲載します。


(手紙)
 拝啓 ラッセル卿

 あなたの95回目のお誕生日を迎えるに当たりまして、あなたにご祝辞を送られる他の無数のあなたのお友達と同様、わたしもまた、わたしがいつもあなたにたいして懐いております感情の若干を表明いたす機会を得ますことを喜びとするものであります。まず第一には、あなたとエディス夫人にたいするわたしの愛情です(わたしはあなたがたご夫妻をいつもご一緒に考えることなしに、どちらかだけを考えますことはできません)。そしてそのつぎには、あなたにたいするわたしの称賛と感謝の念であります。
 わたしが最初にあなたにお会いしましたのは、もう半世紀以上も前でありまして、ちょうどあなたが、プラトンが同じ哲学者たちになしているやや超人的な要求に対して反撥しておられた直後でした。当時あなたは投獄されていたあなたの同志の人達を救い出すために、自ら陽光に背をむけてあえてほら穴の中へと踏み込んで行っておいでになりまして、そしてちょうど、ほんとうに文字どおり牢獄から出てこられたばかりの時でした(こうしたことはそれが最後ではありませんでしたが・・・)。そのようにあなたが初めて投獄されましたのは、公然と徴兵反対の演説をされたからでした。
 あなたには、最高の栄誉を博された立派な業績によってすでに名声を馳せておられた知的なお仕事がおありになったわけでして、そのような著作をつづけることだけに身を献げられることも可能だったでしょうとおもわれます。。そうしたお仕事は、わたし達にはよくわかっておることですが、あなたご自身に大きな知的な喜びを与えるものでありますばかりでなく、同時にわれわれ自身が存在しているこの未知の宇宙にたいする知識と理解をを深めさせることによって人類を稗益(ひえき)しているのであります。それからまたあなたは、ご自分でなさろうとおもえば本当に静かな生活をおくることも出来だのであります--そして、あらゆる学者たぢがこぞってあなたを賞賛されたことでしょう。もちろんあなたはその頃から今日にいたるまでずっとこうした知的な分野において輝かしい名誉を得てはおられます。しかしながら、そうした業績はほんとうに素晴らしいものでありますのに、あなたのその知的なご生涯で満足されるのには、あなたはあまりにもこの人類のためをお考えになられました。あなたは「闘うことなしに」無為にとどまることをいさぎよしとしない偉大な精神をおもちになってこられました。以前よりあなたは文明の護持のために闘いつづけてこられたのですが、後にいたって核兵器の発明以来、人類の生存のために闘いつづけてきておられるのです。
 わたしは何よりもまずあなたが、少なくとも三代相継ぐ現代の若い人々にたいして、これまでかなり長きにわたって、さらにまた今日においてもなおこれまで同様力強く、そして恐れることなく勇気と希望を与えてくださっておられることに感謝しています。あなたがなしてくださっておられるように、人類のために思いをくだいている人があるかぎり、そしてその関心を行動にあらわす人がいてくれるかぎり、われわれ残りの者は、人類にたいしてその生まれながらの権利である未来を与えるべく、また、人類が自ら破滅の運命からまぬがれようとするのを助けるべく、あなたのご精神を体して働く勇気と確信とを、あなたがわたし達に示してくださった模範から学ぶことができるのであります。
 これこそが、どうしてこの1967年5月18日(木曜)という日が、あなたが何のために立ち上がられ、何のために闘っておられるかを知っている何十万という人々にたいしてばかりでなく、それをまだ知っていない現代の何億という人々にとっても歴史的な日であるのかの理由なのです。あなたは、あなたご自身をのり越えて、あなた自身そのように際立って秀でた代表者であられる非凡な人種の歴史へと転身してしまわれました(?)。あらゆる生物が生まれながらにして自己本位であります。しかしながら、人間として生きている生物ことごとくの生涯の使命は、その中心的な関心を自己中心から実在の根本へと移すことであります。それが如何様なものでありましょうとも。これこそが人間の運命の真の成就であります。あなたはそれをなしとげられました。これが、どうしてわたしがあなたにつねに変わらぬ感謝の念をささげ、愛情を感じていたかのわけなのです。またこれが、どうしてこの1967年5月18日が、あなたのご友人の間に伍して、わたしにたいする喜びと希望の日であるかの理由なのです。
 敬 具
 1967年5月6日
 米国、カリフォルニア94305、スタンフォード、サンタ・テレサ273番地
 アーノルド・トインビー
(『ラッセル自叙伝』第三巻(理想社)より転載)



(解説)

 1967年の初夏5月に、トインビーはラッセル95歳の生誕を祝してこの手紙を送った。トインビー78歳の年である。その年の晩秋から暮にかけてトインビーは日本を訪れ(3回目)講演をし、伊勢神官や高野山を見物している。そして同年、精神的自叙伝『交遊録』を英国で出版。一方、95蔵のラッセルは『ヴェトナムにおける戦争犯罪』を出版、生涯最後の本となった。(松下注:Dear Bertrand Russell を1968年に出版している。)
 ラッセル98歳(1872~1970)、トインビー86歳(1889~1975)、ともに英国に生まれ一世紀近くを生き、常に人類への関心に怠りなかった。世界の英知であり巨星である。二人の偉大な精神的遺産は、多くの人に受けつがれている。両者は多くの思想的共通性をもつとはいえ、人間トインビーと人間ラッセルとして比べると大変なちがいで、ラッセルの生涯はトインビーのそれとは比べものにならないほど波欄に富み、徹底した実践的平和主義者であった。

◆「ロンドン平和デモ」とラッセル
 今年(1981年」)の10月24日の新聞に大きく報道された反核「ロンドン平和デモ」は、ローマ、マドリード、ヘルシンキでも同時に平和行進をよび起し、「ボン平和デモ」に続く「欧州デモ」となった。この「ロンドン平和デモ」は英国の「核非武装運動」(CND)のよびかけに一般市民が応じたものである。CNDは1958年に結成され、初代会長は87歳のラッセルであった。当時の史上有名なオルダーマストン核実験反対デモについて、トインビーはその著書『現代人の疑間』で、作家であり、ジヤーナリストでもある子息 P・トインビーと話題にしている。P.トインビーの情熱的な賛意をこめた質問に対し、トインビーは自分はラッセルと同様死後のこの世すなわち未来を深く心配していると述べながらも、このデモについては、やや期待はずれとも読みとれる伝統的英国人の中道主義をうかがわせるような応答をしている。
 実践的平和主義者としてのラッセルの活躍は、常に世界の注目するところであって、それこそ枚挙にいとまがないほどである。その代表的なものとしては、アインシュタインら科学者と平和宣言をし、「百人委員会」「誰がケネディを殺したか委員会」会長、またサルトルらと「国際戦争犯罪法廷(ラッセル法廷)」を設け、ヴェトナム戦争におけるジョンソン米大統領に有罪宣告を下して世界にその犯罪性を訴えた。また「バートランド・ラッセル平和財団」を創立し各国にその支部がおかれている。
 これらのラッセルの実践は晩年になされたのであるが、トインビーは、上掲の手紙においても、また著書の中でもしばしば賛辞を呈している。

◆両者の思想的共通性と人間性のちがい
 二人の思想性には多くの共通性がある。要約すると、従来の西洋中心史観を批判し東洋思想を認識して中国に未来を託していること、ナショナリズムを含む自己中心性の克服を訴え、世界的意識とその具体的制度を提唱したこと、また教育を重視し愛と創造的知性こそが人類を救いうる基本であること、そして、軍備と戦争否定の思想は平和を守るための絶対的条件であるという信念を人生の最後までたゆまず説き続けた。
 二人に親しく会見した日高一輝氏によると、別々の機会であったにもかかわらず、次のように語ったそうである。「日本国憲法の平和条章は各国が真似なければならないモデルであり・・・日本人が世界平和の先駆者として護持することを切望する」と。
の画像
 では人間としての二人はどんなふうであったろうか。死を迎える前年すなわち85歳のトインビーをロンドンのフラットに訪れた日高一輝氏(右写真出典:日高一輝(著)『世界はひとつ、道ひとすじに』(八幡書店,1986))に、トインビーが語った内容が象徴的に物語っている。「わたしとラッセル卿とは性格が異なるのです。ラッセル卿のあの勇気と実践力はとてもわたしの遠く及ぶところではありません。わたしに無いものをもち、わたしに出来ないことをなさったラッセル先生をわたしは心から尊敬しています。しょせんわたしはティーチャー・・・いつも歴史家という立場でものを考え発言するのです・・・」
 ラッセルは名門貴族の生まれ、常にネクタイと上衣をきちんとつけ、靴はピカピカ、峻厳な面持で背すじを伸ばし毅然とした動作、一方トインビーは学識のある庶民の生まれで、何年も同じ服を着、ズボンは短か目、背はまるめかげんで常に他を思いやり微笑を絶やさず慈父の姿であった、というのが実際に会った人々の一致した印象である。

◆両者の交遊は・・・
 ラッセルの自伝や著作にはトインビーは登場していないという。トインビーの著書にラッセルの名が見えることは前述したとおりである。ところが、トインビーの最初の妻ロザリンドの父ギルバート・マレーはラッセルと親友で、ラッセル自伝に登場している。トインビーにとってG・マレーは義父であると同時に、ウィンチェスター・スクールとベイリオルカレッジ(オックスフォード)での恩師でもある。1967年に刊行されたラッセルの文書資料集には、トインビー一家すなわちトインビー自身と息子 P・トインビー、それから最初の妻ロザリンドからの手紙がリストアップされているが、一家との具体的な交際はさだかではない。
 (関係資料の多くは「ラッセルを読む会」主催の松下彰良氏にお世話になった。(E=江木正子