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工藤喜作「ラッセル (スピノザの倫理思想について)」

* 出典:『ラッセル』 (講談社,1979年10月刊/人類の知的遺産v.35)pp.374-377
* 工藤喜作(1930~2010):執筆当時、神奈川大学教授。2008年4月現在、目白大学副学長。


 

その人柄を愛し、その形而上学を批判


 ラッセルはスピノザ(Baruch De Spinoza, 1632年-1677年:はオランダの哲学者、神学者)について、「偉大な哲学者たちのうちで、もっとも人格高邁で、もっとも愛すべき人である。知的には彼を凌駕した人びとがいるが、倫理的には、至高の位置を占めるのは彼である。」と主張する。
 このようにラッセルは、スピノザを倫理的には高く評価したけれども、その形而上学には批判的であった。なぜなら、彼の形而上学は、全体としての世界が単一の実体であり、その部分は、単独には、論理的には存在できないという論理的一元論だからである。この論理的一元論は、近代の論理学とも、また近代の科学的方法とも両立できない。諸物は論理的な'推論'によってではなく、'観察'によって発見されねばならないからである。
 しかし、このラッセルの批判は誤解であろう。なぜなら、スピノザは論理・数学的方法が最善の方法とみなされた時代に生きた人であったから、'幾何学的方法'を用いたのであり、また、体系の論理化を企てたのでもある。もし彼が今日の時代に生きていれば、当然、他の方法を用いたはずである。ベルクソンの主張するように、体系の論理的一元化は、彼にとって本質的なものでなかった。この非本質的なものを本質的なものとみなしてしまったところに、ラッセルの誤解がある。
 

その倫理説は知識人にとっての宗教


 スピノザの形而上学には同意できなかったラッセルも,(スピノザの)倫理説には少なからぬ好意を示した。それはスピノザが、「人間の能力の限界を承認した場合にも、高貴な生き方をすることがどのように可能であるか、ということを示そうと努めている」(『西洋哲学史』市井三郎訳)からである。そして、「その限界が疑いもなく存在する場合には、スピノザの示す'格率'は、おそらく可能なかぎり最良の格率であるだろう。」と言う。たとえば、死は人間にとって不可避的である。だから、これについて恐怖したり、嘆いたりすることは無駄である。必要なのは、死への恐怖の奴隷となることではなく、いかにそれ(恐怖の奴隷になること)を回避しうるかを、恐怖心によってではなく、冷静に、理性的に考えることである。また、他人から、あるいは他民族から残忍な扱いをうけた場合、それに対する原始的な反応は'復讐'である。だがスピノザは、この復讐という、ある単一な情熱に支配された人生が、いかなる種類の知恵とも両立しない狭量なものであると教える。
 スピノザは、自分に加えられた害や憎悪には、'復讐や憎悪'でなく、'愛'をもって報いねばならないと主張する。ラッセルはこれを崇高な教えであることを認めながら、これが「凡人の真似のできない教え」であり、また、たいして効果のある教えではないと批判する。というのは、邪悪な人が力をもっている世界では、この説はかえって、なにか'下心'があるのではないかという誤解を招くからである。不幸や悪に対して、その原因を自然の全体的な秩序との連関において理解すれば、それらが別のものになってくるとスピノザは教える。しかし、これにもラッセルは批判的であった。なぜなら、個別的な悪が自然全体のうちに吸収されても、その悪が別のもの、つまり善になるとは考えられないからである。
 しかし、このような批判にもかかわらず、ラッセルはスピノザの倫理説がわれわれに有用なものを与える、と主張する。
「人類の通常の運命よりもひどい(と思われる)なにごとかを耐えねばならないのが運命である場合にば、全体について考える、あるいは、とにかく自分自身の嘆きよりも大きい事柄について考えるという'スピノザの原理'は有用な原理である。
つまりスピノザの説は苦難に満ちた人に大きな慰めを与え、絶望からの解放に大いに役に立つと主張しているのである。
 このラッセルの見解は、スピノザが、啓示宗教を批判しながら、なお、それが無知の大衆に大きな慰めを与えるという聖書の効用性を説いたことと似ている。このような見地に立てば、啓示宗教が無知な大衆に慰めを与えるという点で宗教でありえたと同様、スピノザの倫理説は知識人に慰めを与えるという点で、やはり知識人の宗教の内容を構成するものと考えられるのである。