バートランド・ラッセルのポータルサイト

柴崎武夫「Bertrand Russell と sense of humour」

* 出典:『日本女子大学英文学研究』1969年1月,pp.1-6.
* 「柴崎武夫先生近影」及び略歴が『日本女子大学英米文学研究』v.15(1980年3月)にあるそうです。/柴崎教授(ラッセル協会設立発起人の一人)は,一時期,「NHK基礎英語」の講師を勤められたそうです。


 第一次大戦中のある日,Bertrand Russell は陸軍省に呼び出された。数名の参謀肩章をつけた将校が,いとも丁寧な態度で彼に,「貴下にヒューマーのセンスを身につけていただきたい。そうすれば,世論に反する意見を表明するようなこともなくなるでありましょうから」と言った。第一次大戦には,彼はイギリスが参戦することに反対し,徴兵拒否の運動をして,100ポンドの罰金を取られたり,6ケ月(注:実際は約4ケ月半)牢獄に入れられたりした。この時ももちろん参謀将校の説得に応じなかった。そして後になって,あの時『わたしは毎朝新聞に発表されている戦死傷者の数を見るたびに腹をかかえて笑っています」と答えればよかったと残念がった。
 この話は,彼の『自叙伝』(The Autobiography of Bertrand Russell, v.2, 1968)に出ているのであるが,これを彼は,私事に関する限りでは,大戦中「もっとも奇怪な出来事の一つ」であったと言っている。なぜ 'one of the most curious incidents' だったかといえば,参謀将校にヒューマーのセンスに欠けているといわれたこと,またヒューマーのセンスがあれば戦争反対などしないはずだという論理がおかしいということであろう。将校の側からいえば,ヒューマーのセンスがあるというのは'心に余裕がある'ということである。ラッセルが反戦に夢中になっているのは狂気のさただ,もう少し心に余裕を持ちなさい,というつもりだったのであろう。またラッセルが「戦死傷(者)についてのごまかしの数字を見るとおかしくて腹をかかえて笑う」と言ってやりたかったと残念がったのは,おれだってヒューマーのセンスぐらい十分持っているぞということを示したかったということである。残念がるほど気のきいた応酬でもないし,むしろ後になって残念至極と告白していること自体の方が彼の sense of humour を証明しているようなものだと思うが,いずれにしてもこの挿話から考えられることは,sense of humour を持つということは,一つのことにあまり熱中し,夢中にならないこと,「不合理なものを笑うだけの心の余裕を持つこと」,だといってよいであろう。
 そこで問題は,果してラッセルはそんなに残念がるほど sense of humour を持っているのかどうかということ,また持っているとしたらどのように表現されているか,そしてそれが彼の精神活動とどのような関連をもっているのであろうかということである。

 Bertrand Russell(1872~[1970])は数学者であり哲学者である。数学(数理哲学)では Principia Mathematica, 3 v., 1910-1913 が,哲学では A History of Western Philosophy が,彼が全力を投入した二大力作であるが,それによって代表される通り,彼は科学的哲学者である。自然と人間との関係を二面的に考える。自然科学の面からみれば,地球は宇宙に於ける星屑の一つにすぎない。人間はその地球の表面にうごめく極めて小さな存在である。自然は人間のために創られたのではない。非情であり,人間にとってむしろ冷酷なものである。しかし価値の世界からみれば,価値を創造するものは人間である。人間が中心である。宇宙自然も,神も人間に従属する。人間は尊厳なものである。このように自然と人間との関係の二面的考察は,人間の尊厳とその自由とを守りながらも,常に自然に対する人間の思い上りをいましめるということになる。
 ところが,尊厳なるべき価値の世界に於ても,人間は矛盾に満ち,不合理で,意外に愚かである。宗教的偏見や迷信にとらわれて自ら不幸になる場合が多い。戦争で食糧不足に悩みながらも,安息日に植付けをすれば神の怒りにふれるという。貧困に苦しみながらも産児制限をすれば神の摂理に反するといって禁止する。修道尼は着物を着て風呂に入る。誰も見ている者はあるまいに,といえば,「神さまがおいでになることを忘れてはなりません」と言う。風呂場の壁まで見通す神さまも,着物だけは見通すことが出来ないのであろうか。対独宣戦布告の日には,トラファルガー広場で群集が歓呼の叫びをあげていた。これからドイツ人を殺す,こちらも殺されるというのが,そんなにうれしいのであろうか。興奮を求めるのが人間の本能的欲望なのだ。反戦運動をしようと同志が集れば,運動の指導権を取ろうと派閥の争いがはじまる。権勢欲,征服欲である。その他,所有欲,競争欲,名誉欲,虚栄,羨望,残虐性など,人間の業ともいうべきものが渦を巻いている。
 このような人間性の実態を知りながらも,ラッセルが冷笑的にも虚無的にも道徳廃棄論者にもならなかったのは,彼の人間に対する愛と,苦しむ者に対する憐憫の情とであった。『自叙伝』の Prologue で彼は,「私は今日まで3つの情熱に動かされてきた。1つは知識探求の情熱。それから愛を求める情熱。そして第3は,苦しむ人たちに対する耐え難い憐憫の情である」と言っている。特に第2次犬戦に広島に原爆が落されてからは,人類絶滅の危機を世界に訴えて必死の努力を続けてきたことは衆知の通りである。Has Man a Future? (1961) も,これを訴える書であるが,「この本が出版され,読まれるまで人類は生き続けられるであろうか」と,いかにもさし迫った如く悲壮である。このような愛と憐憫の情とに彼は支えられて,世界に平和と幸福をもたらそうと長い生涯を努力してきた。
 What I Believe (1923) で,彼は「よき生活」を定義して 'The good life is one inspired by love and guided by knowledge' と言う。愛が根元である。'knowledge' は科学的知識のことである。第一次大戦から今日まで,著作と講演とによって,この「よき生活」を実現しようと啓蒙活動(啓発活動)を続けてきた。How to be Free and Happy (1924), Education and the Good Life (1926)(松下注:これは米国版のタイトルであり,英国版は On Education となっている。), The Conquest of Happiness (1930), New Hopes for a Changing World (1952)(注:1951の誤記)など,代表的なものである。その情熱の強さは,彼が常に警告する 'fanaticism' に,彼自らも時に陥っているかと思われるほどである。しかし彼は 'fanatic' にはなり得ない。A1an Wood がラッセル研究書の表題を Bertrand Russell, the Passionate Sceptic (1957) と名づけているのは意味深いことである。ラッセルは情熱家ではあったが,同時に懐疑家でもある。第1次大戦には絶対に反対であったが,あらゆる戦争を無差別に否定してよいものであろうか,正当な戦争というものもあるのではないか,という疑念があった(松下注:小さな紛争が核戦争に発展する危険性のある時代の前のこと。1955年のラッセル=アインシュタイン声明以降は,紛争を解決する手段として戦争に訴えることに反対)。個々の現象を科学的に研究し,合理的に理解しようとする者にとって,懐疑は当然生ずべきものであろう。また理想への情熟が強ければ強いほど,現実がいっこうに改善されず,報いられることの余りに少い場合,幻滅と懐疑はより大きなものであろう。そういうことも彼はしばしば経験した。そして時に匙を投げたくなることもあった。あらゆる迫害を受けて戦争反対の運動をしてみたが,結局一人の人間の命を救うことも,戦争を一分間でも短くすることも出来なかったではないか(と,ラッセルは自問する。)(松下注:ラッセル自身そのように言っているが,多くの政治犯の命を救っているのも事実) Principia Mathematica を書き上げるのには Whitehead と共同して10年かかった。自殺しようかと思うほどの苦しい研究と思索の年月であった。馬車で運ぶほどの原稿を書いた出版費用の不足を2人で50ポンドずつ持出さねばならない。しかも出版されても満足に読んでくれる人はほんの僅かしかいないではないか。情熱を傾けて学究生活に打込んだ誇りと満足を感じるとともに,あまりに張り詰めた生活が息苦しくもあった。あるいは心の隅に空しさがしのび入る時もあったであろう。
 1920年にソ連を訪れ,自由のない共産主義国家に失望した。自分の子供たちを理想的に教育しようとして Beacon Hill に学校を経営したが,理想と考えた自由教育に大きな誤算のあることを思い知らされ,失敗した。第2次大戦中はアメリカの諸大学で客員教授として過していたが,カトリック教徒などの宗教的道徳的偏見に迫害され,ニューヨーク市立大学から締め出され,各地の講演予約も取り消され,妻子を抱えて電車賃にも事欠くようなこともあり,今さら彼らの無知蒙昧を嘆かざるを得なかった。アメリカといえば,彼がある大学を訪れた時,学長は新しい校舎特に立派な図書館が自慢で案内してくれた。デラックスなテーブルの並んだ広々した読書室で,最も科学的なカード方式や中央暖房(セントラル・ヒーティング)について説明されたが,ふと彼は学長に尋ねた。「ところでここで本を読む人はいるのですか」 学長は驚いてあたりを見まわし,「そりゃもちろん,ああ,あそこに1人います」と言う。近ずいてみたら,その学生は三文小説を読んでいた。
 戦後1949年にはイギリス最高の栄誉であるメリット勲章を,そして翌1950年にはノーベル文学賞を授与された。しかし Order of Merit を手渡してくれる King George V は,1918年には彼を牢獄につないだのではなかったか(松下注:George V (George Frederick Ernest Albert; 3 June 1865 - 20 January 1936) は1936年に死亡しているので別人の筈だが?)。そして再び1961年には,核武装反対運動のために Queen Elizabeth II の名において牢に入れられる。'Vanity of Human Wishes' (松下注:Vanity of Human Wishes 『人生無常』:サミュエル・ジョンソン博士が1749年に出版した詩)というようなこともしみじみと感じたことであろう。
 生後2歳で母を失い,4歳で父にも死なれたバートランドは,名門貴族の家に生れ,宰相を祖父に持ちながらも,96歳の今日(1969年当時)まで苦悩の多い生涯であった。もちろんそれは,彼の性格が敢えて挑み求めた苦悩であったといってよい。人の悪意にも逆境にも耐える勇気を持っていた。それを切り抜ける知力・分別も精神力も肉体的活力も,そして自信もあった。しかしそうした人生の息苦しさということもある。科学的合理主義だけではどうにもならぬ人間の愚昧,人生の矛盾というものがある。彼はそういうものを,むしろ人生の息苦しさから解放してくれる笑いとして受けとめる余裕があった。An Outline of Intellectual Rubbish (1934) は科学的合理主義者の見た,宗教的偏見や迷信,人間の無知蒙昧の事例を集録したもの(前述修道尼の話もこの中にある)であるが,その最後の文節で 'Perhaps the world would lose some of its interest and variety if such beliefs were wholly replaced by cold science.' と言い,'A wise man will enjoy the goods of which there is a plentiful supply, and of intellectual rubbish he will find an abandant diet, in our own age as in every other.' と結んでいる。息苦しくも長い人生の旅路で,路傍のここかしこにささやかに咲く「笑いの花」を彼は目ざとく見出して,それを喜び愛した。これが彼の sense of humour である。特に彼の『自叙伝』には彼の sense of humour によってひろい上げられた笑いが,いたるところにちりばめられていて楽しい。たとえばこんなのがある。
 大叔母の Aunt Lottie は'ややせっかちなあわて者'であった。'大陸旅行'に出る時 Georeという召使が駅まで見送りに来た。汽車が動き出してから急に,家事について彼に手紙を書く必要もあろうと考えたが,彼の surname が分らない。あわてて窓から首を出して,“George, George, what's your name? と叫んだ。'George, My Lady,' という答えが返ってきて,そのまま汽車はホームを離れてしまった。
 Cambridge 時代に親友の Crompton と2人で田舎を散歩している途中,農場の一隅を無断侵入して横切った。農夫が真赤になって大声でわめきながら迫ってきた。Crompton はふり返って,耳に手をあてて,おだやかに言った。「もっと大きな声で言って下さい。耳が遠いんです」 農夫はそれ以上大きな声が出せないで結局黙ってしまった。
 前述の通り,彼が牢に入れられることになったとき,牢番がいろいろと質問して明細書に記録した。そのうち彼に宗教は何かと尋ねた。「'Agnostic' (不可知論者) だ」と答えると,「どういう綴りですか」ときいてから,ため息まじりに言った。'Well, there are many religions, but I suppose they all worship the same God.' ラッセルは,お蔭でそれから一週間ほど実に愉快だった,と記している。

 ヒューマーを感ずるるセンスがこれほど敏感なラッセルにとって,参謀将校に「sense of humour を持っていただきたい」といわれたことは,たしかに 'one of the most curious incidents' だったと憤慨せざるを得なかったわけであろう。96歳の現在(1969年)まで,旺盛なエネルギーをもって,人間の未来に明るい光をかかげようとして活動し続けている,この彼の息の長さは,彼の sense of humour によって支えられているところが大きいのではあるまいかと思われる。ヒューマーはイギリス人の生きる智慧であり,身を守る盾であるという,それを実証しているようである。