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H.スピーゲルバーグ「あとがきに代えて-往復書簡の意義-」
『シュワイツァー研究』n.11(シュワイツァー日本友の会、1982年9月)pp.79-84.

 私は上掲の書簡(ラッセル=シュバイツァー往復書簡)の本文に対して、資料の解説や註に記した背景の説明のほか、何もつけ加えたいとは思わない。手紙がそれ自身で、またその筆者に代り語ってくれることを私はねがっている。ただいくつか補足的な情報と究極の(誤訳ではないか?)考察が読者に役立つかも知れないと希望して、以下のあとがきで編者としての責をふさぎたい。

ラッセルとシュワイツァーとの会見写真  一見したところでは、ラッセルとシュワィツァーというような、背景、生活様式そして哲学的見解も相異なる二人の歴史的人物のあいだに、意味深い手紙の往復がつづき、友情さえ生れたと考えることは、矛盾していると思われよう。八三歳の論理学者・哲学者のラッセルと、八○歳の神学者・音楽家そして実践的倫理的思想家のシュワィツァーとは、互いに十年間にわたって書いた手紙の往復で、何を意味することができたのか。これらの手紙に示された相互の尊重の表現は、すべて文通の儀礼の表現としてよりも、むしろ、額面どおりに受けとるべきか。ただ一つ可能な吟味は、これらの手紙とこの両者の他の平行した文通とを比較することにあるだろう。けれども当時それぞれの文通には、人名の索引が欠けているので、これはじっさい不可能である。別のチェックの仕方は、文通者がお互いについて一般聴衆に向ってなした声明文である。しかしこの場合は種々の理由のため両者は、お互いについてのみ考えればよいときより卒直ではなかったかも知れない。
 ラッセルはシュワィツァーについて二つの証言をのこした。その一つは、第四一の註に引用されているが〔本書七四ぺージ〕、一九六五年一月十四日、ニューヨークの市公会堂で、エステルハージ管絃楽団による満九〇歳祝賀の演奏会において、一連の感謝の表明の冒頭をかざった声明である。もう一つは、一そう短くて個人的でない評価で、シュワィツァーの死後に出たジョージ・シーヴァーのシュワィツァー評伝最終版の二番目のモットーとしてその巻頭にあるが、たぶん命日を記念する賛辞のつもりであったであろう。
真に善良で献身的な人々はまれである。現代はほとんどかれらを理解する資格がない。シュワィツァーは善良かつ献身的な人であった。
 この言明はあきらかにシュワィツァーの死後なされたが、彼の目にふれることを意図しなかったからには、故人頌徳(しょうとく)の伝統、(「死者についてはよきことでなければ何も語らざるべし」)に従ったかどうかは疑がわしい。簡潔さのあまり、生命への畏敬の倫理の思想家としてのシュワィツァーに言及しそこなっている事実は、シュワィツァーの仕事のこの面がラッセルにとってなお相対的に重要ではないことを示すものであろう。
 三歳年下のシュワィツァーも一九六二年五月十八日、ラッセルの九〇歳の誕生日に意味深い言葉を述べた。唯一の(?)本文を手にした私は、その公開の手紙からつぎの文章を英訳して示したい。
 いま世界は、核兵器の大破壊について世界を目ざめさせるべき確固たる思想家を必要としている。アインシュタインがまっ先きに名のりをあげた。彼は世を去ろうとしていたとき、他の人たちが抵抗をつづけることを知っていた。これらのもっとも重要で確固たる人々の一人としてあなたは、親しい友よ、戦いを進めるために登場した。あなたには、人々をして勇気あらしめ、人々を引きつれてゆく能力が与えられた。あなたによって英国では、他のどの国よりも先へと核兵器反対の戦いが進められた。たしかに核兵器に抵抗するどこの国でもこのことは、重要な意味をもつと言えるでしょう。
 これもまたひろく大衆のためのみならず、ラッセルの目にもふれる証言であった。けれども文通における表現とまったく一致するシュワィツァーの言葉の誠実さを問題にすべき理由は少しもない。ちなみにこれはもっとも明確で雄弁な証言なのだが。このつけ加えた証拠によって、二人のノーベル賞受賞者がたがいに相手をほんとうに温かい感嘆と文通による友情の精神でみていたことが確かめられたように思われる。友情の精神はしばしば手紙の冒頭の呼びかけそのものや、結びの文言に表れている。たがいの仕事についてかれらの知識が限られていたことを考えれば、かれらの感嘆は全面的なものではなかったであろうが、しかしそれはたしかに、熱核反応の(→による?)自殺(松下注:核兵器による人類の絶滅のことであろう)という劫罰から人類を救わんとする共通の戦いにおける緊密な一致の友情であった。
 文通における小さな不一致にもかかわらず、このほんとうの相互の感嘆という事実は、まだ文通全体の価値を証明するものではない。それ(→文通全体の価値の証明)が決定的にできるのは、現在はまだ不可能であるが、他の併行する文通との比較をもとにしてのみであろう。それにもかかわらず、これらの手紙のいくつかの意義は、そのような比較なしにでも決められよう。
 消極的には。この文通がラッセルならびにシュワィツァーの哲学をより深く理解するために何も加えないものであることは、まったく明らかである。これはかれらの接点あるいは個々の事業の背後にある倫理的原理に関する議論ではない。せいぜい主張してもよいことは、両者が共通あるいは個別の関心事において、政治倫理の応用問題をとり扱っている、ということであろう。ただしかれらは一般原則から、そしてこれはこの機会に明確に説明できなかったのであるが、解答を引き出すことは試みなかった。もしそうしていたら、かれらの結論に対する前提〔一般原則〕において、かなりの相違があったであろう。しかしこれらの結論そのもの〔反核の主張と行動〕には不一致の必要はなかったが。
 しかし私は、ラッセルとシュワィツァーと別々にではあるが、これらの結論の研究にいくらか積極的な意義をみる者である。この研究がかれらの伝記や自叙伝にどこまで附加と訂正を要求するか、私にはまだ明らかではない。たしかにシュワィツァーはラッセルの自叙伝においては、バートランド・ラッセル平和財団の共同発起人として名をつらねているだけであるが、これまで最大の(松下注:最も詳細な)ラッセルの伝記、つまりロナルド・クラークによる伝記では言及もされていない。私のみるかぎりシュワィツァーの名は、一九二四年の『ザ・ダイアル』誌上の『文化と倫理』の書評以後、ラッセルの公刊した著述には見当らない。文通もまたラッセルの基礎的見解になんら重要な変化を示してはいない。提起された特殊な問題についてラッセルは若干の見解を発展させたかも知れない。しかし今までのところシュワィツァーとの文通が、ラッセルの晩年一五年間における核非武装のための戦いの記録に若干の脚注以上のものをつけ加えるだろうとは私には思えない。そしてラッセルの熱意は、世界中の影響力ある盟友たちの協力を得たことを示したが。
 この文通の意義は、シュワィツァーの伝記にとって、とりわけその晩年にとって、ずっと大きなものがあろう。じっさいジェイムズ・ブラバゾンはその最近の伝記で、ベルリーンおよびキューバ危機、カタンガ問題〔コソゴ民主共和国最南端の一州で、ウランの産出世界第一位〕、そしてケネディ暗殺との関連で、たまたまいくつかのシュワィツァーおよびラッセルの手紙にふれている。しかし彼は、シュワィツァーの見解の発展の脈絡において両者の文通と関係を全体として分析し評価しようと試みてはいない。
 私にとってその意義は主として、シュワィツァーの晩年における新しい政治参加、その範囲と限界をよりよく理解するためにそれが機会を提供してくれることにあると思う。この政治参加は、彼のアルザス出身に照らして、若い頃から、とりわけ二度の大戦を通じ、ノーベル平和賞を受けたのちまで、彼のヨーロッパにおける生涯を通じてすべての、特に政治的な問題については故意に沈黙を守ったことに照らして考察すべきである。この初期の非政治的にみえる態度と政治問題に関する彼の顕著な沈黙については、いまなお一貫した研究と解釈が必要とされる。いかなる政治的発言もアフリカにおけるヨーロッパ植民地主義の共通の罪をあがなうべき彼の使命をさまたげる惧れ(懼れ)のあるかぎり、シュワィツァーは言葉よりも実践をえらんだことを指摘すれば足りよう。けれども、一般的な言い方で、またあれこれ特定の国民に味方することなく、シュワィツァーはつねに彼の故郷アルザスを犠牲にし、フランス領コンゴの苦しめるアフリカ人たちに医療の援助をねがった彼の超国家的企図をほとんど挫いたヨーロッパのナショナリズムを糺弾してきた。
 この顕著な、雄弁でさえある沈黙は、ノーベル平和賞を受けたのち、シュワィツァーがいやいやながらも徐々に、ノーマン・カズンズのような友人たちに説得されて、もし彼が全人類に対する熱核反応の脅威に反対の声をあげたら聞いてもらえるであろう、そして必然的に彼には声を上げる義務があると確信するに至ったとき、終ったのである。しかし彼がようやく声を上げたのは、そこにふくまれる生物学的および医学的問題の徹底的な研究にもとづいてであった。この観点からして核実験と軍縮の問題が、シュワィツァーの訴え得る、また訴うべき明白な問題であった。しかしこの主要な問題をこえた事柄でどこまで彼は抵抗を進めるべきか。この関連においてラッセルとの文通が、ラッセルの関心事を支持しながら、自分自身のそれもつけ加えながらシユワィツァーがどこまで進んだか、意味深い証拠を示してくれる。
 このようにしてシュワィツァーは、たといラムバレネにいる間ラッセルの招待に応ずることはしなかったし、またできなかったけれども、少くとも原理的にラッセルの抗議の行進と、百人委員会の非合法な坐り込みによるラッセルの市民的不服従を支持した。しかしバートランド・ラッセル平和財団の発起人のグループには、当初多少の条件はつけたものの、シュワィツァーは参加した。その上ソ連のユダヤ人のため、フルシチョフに対するラッセルのアピールをも支持したと思われる。しかし彼は、当面の情勢について十分な情報が得られないと思ったので、東西の強国に対するアピールの草案作成は断わった。シュワィツァーはスコットランドのアメリカ潜水艦基地についても、イギリスの国内問題として抵抗することを欲しなかったし、同じようにケネディ暗殺問題でもアメリカの国内問題として立ち上らなかった。他方においてシュワィツァーは、いまや国際的問題を提起して先手を打った。一九六二年のキューバ危機のごとき世界平和にかかわる事柄においてばかりでなく、十分な情報をもっていると考えたカタンガ紛争においても。ゴールドウォーターの合衆国大統領への立候補に関しては、明らかにラッセルとは別個に、これはアメリカ国内の問題ではなく、世界平和と核反応による劫火の危機にかかわる問題だと感じていた。これらの実例はシュワィツァーが今や、核の危険が含まれている場合のみならず、十分に背景の情報をもっている若干の場合や、問題が国内問題だけではない場合には、公けの立場をとるべき使命を感じていたことを示すように思われる。ラッセルとの文通という新しい資料がなければ、シュワィツァーの新しい国際政治倫理について明確な理念を得ることは不可能であろう
 しかしシュワィツァーとラッセルの政治倫理を理解するためのこの特別な意義で、この文通のすべての意味がつきるわけではない。それは二人の現代のすぐれた精神が示した、核軍縮と世界平和という共通の主張のため一致した連帯の証明である。すなわちこの文通でラッセルが心に描き、シュワィツァーが少くとも精神においてくり返し確認した一九六二年(松下注:1961年のまちがい)のロンドンのホワイトーホールの行進を共にしながら。