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H.スピーゲルバーグ「伝記的まえおき」

* 出典:『シュワイツァー研究』n.11(シュワイツァー日本友の会、1982年9月)pp.6-11.
* パグウォッシュ運動

ラッセルとシュワイツァーとの会見写真  手紙の往復はバートランド・ラッセルとアルベルト・シュワィツァーが、1955年10月20日に、個人的に出会ったほぼ直後から始まった。その日はシュワィツァーがバッキンガム宮殿でイギリスの功績勲章(Order of Merit)を授かった翌日であり、その日シュワィツァーは、同郷の友人エーミル・メトラーの経営するヨーク・マンション・レストランで2回、公開のレセプションを催したのであった。この席にラッセルは予告なしに(ヴォーン・ウィリアムズについで)第2の訪問者として現われたが、ふたりの会談を写真におさめたエリカ・アンダースンは、ラッセルのにじみ出る好奇心とシュワィツァーの慎重な風貌を示す印象的な記録を残した。説明によればラッセルは、「核戦争の脅威を論ずるためにシュワィツァーに会いにきた」とある*1。英語でシュワイツァーの最初の大きな評伝を書いたジョージ・シーヴァーも、その折にシュワィツァーに会ったが、両者の対面をつぎのように記した。

 年のわりに元気なバートランド・ラッセルは……さっさとテーブルに歩みよった。彼の話題は、核エネルギーが悪魔的な破壊のために放出されて以来の、人類の生存に対する脅威という、両者にとって絶えざる関心事であった。しかしまず彼はアインシュタインの友人として自己紹介せねばならなかった。アインシュタインの名を聞いてシュワィツァーはおどろくとともに、両者の間に直接的な交わりが生まれたようだった。活発な会話がフランス語でつづけられた、ただし低い声で、ラッセルのひじょうに素質のちがった知性にもかかわらず。*2 ラッセル=アインシュタイン声明発表記者会見の写真  この不意の訪問の動機は何であったか。ラッセルの発意は、彼のそれまでの企画や関心を背景にしてのみならず、当時の彼のシュワィツァー観に照らしてみなければならない。広島の原爆以来の核兵器の脅威に対するラッセルの高まる関心は一般に知られており、ここに詳しく述べる必要はない。それが新しい方向をとったのは、1954年3月1日、最初の水爆がビキニでアメリカ空軍によって投下されてからである。その年のクリスマスにラッセルはB.B.C放送で「人類の危機」と題する、力づよい講演を行なった。この講演で彼は、イギリス人でもヨーロッパ人でもなく、人類の一員として、脅威的な悲惨を全幅描いてみせた。この講演の予期せぬ反応によってラッセルは、すぐれた科学者たちのグループを作り、さらに強力なアピールの場たらしめんとの考えをいだいた。そこで彼はこの講演を1955年7月9日(発表/右写真)のラッセル=アインシュタイン宣言にもりこんだが、これはアインシュタインがその死の2日まえに署名したもので、やがて科学と世界情勢に関するパグウォッシュ会議の成立に至るもので、会議は1957年の開始以来毎年行われてきた。
 この宣言の署名者にシュワィツァーは含まれていなかった。しかしシュワィツァーの名は、宣言に先立つアインシュタインとラッセルの文通にはみえていた。じっさい1955年3月14日付の手紙で、はじめてシュワィツァーの名を入れたのはアインシュタインであった。その最後の段落:
「私はアルベルト・シュワィツァーにわれわれのグループに加わってもらうことが大そう望ましいと考えます。彼の道徳的影響はとても大きく、世界的です。もしあなたがよいと思うなら、科学者グループの活動提案の詳細を私にお知らせ下さったらすぐにも彼に手紙を書きましょう。」*3
 けれども4月5日の返事で、ラッセルは、まだこの示唆に従う用意がなかった、宣言の発起人を科学者に限ろうとしていたので*4。ラッセルをしてシュワィツァーに企画の支持者となってもらえると考えさせたのは、アインシュタインの推薦によるとみてよさそうである。この仮定を確認すると思われることは、ジョージ・シーヴァーの説明によればラッセルとシュワィツァーの会話は、ラッセルが自己紹介にアインシュタインの名をあげて始まったことである。

 その当時ラッセルは、シュワィツァーの思想を知らぬではなかった。じっさい彼はシュワィツァーの生涯と思想について、世間の通説以上に知っていた。(ラッセル文書館の)ケネス・ブラックウェルが私の注意をひいてくれた一九二四年の論文でラッセルは*5、『倫理が人生に影響するか』という題のもとに、きわめて批判的にではあるが、シュワィツァーの大著『文化と倫理』の書評を試みた。彼はこの本に「かなりの重要性」をみとめ、「注意してよむに値する」とすすめながら、倫理は事実の知識からは引き出せないとのシュワィツァーのカント流の命題に同意を表したのみで、シュワィツァーの生命への畏敬の原理は説得力がないとみ、倫理が人生に影響し得るというシュワィツァーの信念を斥けた。その後ラッセル自身の発展にも、おそらくはそのシュワィツァー観にも、多くの事が起った。ラッセルは決して、倫理を単なる好みの表われとみる理論的見解を、ときに不満をもらしながら捨てはしなかった。しかし戦争と革命の恐怖に直面してラッセルは、「情熱的な懐疑家」(アラン・ウッドの評)から「情熱的な人道主義者」に転向して、社会主義的人道主義の倫理を説きかつ実践した。この時点まででは、この新しい倫理的構えがラッセルのシュワイツァー評価に影響したという具体的な証拠はないし、その間シュワィツァーは実践的な人道主義者として登場し、アフリカ原生林のなかの新しい病院で、西欧文明が失った生命への畏敬の精神を証明していた*6

 それゆえ当時まだロンドンの近くのリッチモンドに住んでいたラッセルが、一九五五年十月にシュワィツァーがロンドンにいると聞いたとき、共通の関心ある問題で彼を訪ねようと先手を打ったのはごく自然なことであった。それはまず、シュワィツアーとラッセルの共通の友人であるジャーナリストのクララ・アーカットが私に手紙で親切に確認してくれたように、彼女と連絡し、ついでシュワィツァーのロンドンにおけるアルザス人の友人であり宿主であるエーミル・メトラーと連絡したのであった。
 シュワィッァーが核の脅威に関心をいだいたのは、最初の原子爆弾が二発、日本の都市に投下されたのちで、一九四〇年代にさかのぼるが、当時彼はまだ彼自身の恐怖と心配を公に表明していなかった。一九五三年、シュワィツァーはノーベル平和賞を受けたが、しかし翌年十一月四日にオスロで行った『現代の世界における平和の問題』と題する受賞の講演でも、過去の平和への努力にふれ、国民相互の新しい信頼の精神について語ったのみで、原子爆弾にはふれなかった。けれどもその年の四月に、ロンドンの「デイリー・ヘラルド」紙〔の記者〕がアレグザンダー・ハダウ教授の示唆、すなわち同年三月一日に〔ビキニ環礁で〕爆発実験をした水素爆弾を主題とする科学者の会議を国連が設けることについて意見を求めたとき、シュワィツァーははじめてこれに手紙で答えたが、それは四月十四日に公表された。その一節:
 私は(…)あなたに私の考えを個人的にお伝えしたい。水素爆弾の効果の問題はひどく不安をかき立てるものです。しかし私はこの問題を取り扱うのに科学者の会議が必要であるとは思いません。今日の世界にはあまりに多くの会議があり、あまりに多くの決定がそこで下されています。世界がなすべきことは、この恐しい問題を理解している個々の科学者の警告に耳を傾けることです。それならば人々はふかい印象をうけ、理解を示し、われわれが陥っている危険を自覚するでしょう。ちょっとアインシュタインがうけた影響を思いうかべて下さい、原子爆弾〔の実験〕に直面して彼が示した不安のゆえにです。世界に話しかける科学者たちは、完全にすべての問題とそれに含まれる危険を理解していなければなりませんし、かれらのできるだけ多くが講演に論文にすべて真実を人類に語る科学者でなければなりません。もし科学者たちがすべて、恐ろしい真実を自分で語らねばならぬとめいめいが切実に思って声を上げるならば、世界の人々はかれらに耳を傾けるでしょう。なぜならそのとき人類は問題がひじょうに重大であることを知るからです。もしあなたとアレグザンダー・ハダウ氏が、科学者が思いこんでいる思想を人類のまえに示すように、なんとかかれらを説得できたら、そのときはこれらの恐ろしい爆発をやめさせ、統治者たちに圧力をかけさせることについて若干の希望があるでしょう。しかし科学者たちは、打ち明けて話さねばなりません。科学者だけがもはやわれわれはこれらの実験に責任がもてない、と言う権威をもっています。科学者だけがそれを言えるのです。私の意見はおわかりでしょう。私はそれをあなたに、心に不安をいだいて申します、毎日私を捉えて放さない不安です。われわれに忠告せねばならぬ人々〔=科学者たち〕がその声を聞かせるようにと希望しながら。*7
 このように当時まだシュワィツァーは、原子核などの科学者だけがこの問題を判断するのに適していると考えていたし、かれらが同時代人に警告するよう呼びかけたのであった。一九五五年七月、シュワィツァーはリンダウ〔ドイツ南部〕でノーベル賞受賞者たちの第三回の会合に参加した。この会合はいわゆる「マイナウ声明」を出して閉じたが、それは現代におけるどんな戦争もあげくの果てには水素爆弾による放射能汚染の危険を免がれないことを指摘した。
 一九五五年七月十三日、国連事務総長ダグ・ハマルシェルドはシュワィツァーに手紙で次のように訴えた:
 あなたも私も知っているように、全世界はあくまでも、すべての国民の努力に有効な意味を与え、「共存」の原理に新鮮で堅固な基礎を与えることのできるイデオロギーを必要としています。そこで私は、国連にかかわる、厳密に政治的分野のなかでも、世界に向って根本的なメッセージを送ることは、あなたにふさわしいと確信します。私はすでに折を得て、あなたが現代の人々に説明せんと試みたその態度をよりよく知らせることにより、新しい精神をもって国際生活を活気づけることができるだろうという私の意見をあなたに申し上げました。私たちが国連で、あなたのなさった事業とあなたの示す象徴に対して感謝することを決めましたのも、あきらかにこの理由によります。しかしこのことはまたたぶん、あなたから諸国民の相互尊重のためなされたアピールに、ちょうど私たちが国連で理解しているその意味で、あなたの力強い声をよろこんでかけて頂けるだろうと、私たちがあえて望む理由でもあります。
 この手紙に対する返事を私は知らない。とにかくシュワィツァーはこの願いには応じなかった。けれどもブラバゾンによれば、この時点でシュワィツァーはこう述べた:
「私はノーベル平和賞を頂いた-なぜだか分らない。いまや私は何かそれに値することをせねばならぬとおもう。*8
 それからその年の十月にシュワィツァーは、女王から功績勲章(Order of Merit)を授かった翌日、ラッセルに会った。この出会いもシュワィツァーの計画には、なんら直接の影響は及ぼさなかった。やっと一九五六年になって、シュワィツァーをして声を大にして語らしめる、より具体的計画ができた。それに従って一九五七年ノーマン・カズンズが、シュワィツァーの英国の友人クララ・アーカットとともにラムバレネを訪ねた。この訪問の成果は、相つぐ核実験に反対の声をあげることが彼にとって意味あることだとシュワィツァーを説得して、『良心の宣言』が一九五七年四月二十四日、ラジオ・オスロおよび、その他約一四〇国の放送を通してなされたことであった。一年後には「平和か原子戦争か」と題した比較的短い三つの講演が同じように放送された。
 シュワィツァーが〔声をあげる〕決心を固めるに当って、ノーマン・カズンズのラムバレネ訪問が決定的な出来事であったことは疑いないが、しかしその一年半前のラッセルとの出会いが最後の一歩をふみ切らせるに役立ったことは、察するにあまりあるだろう。


〔 〕は訳者の注。本文中も同じ。
 エリカ・アンダースン『シュワィツァー写真集』(ニューヨーク、ハーパー・アンド・ロウ社、一九六五年一一八ぺージ)
 ジョージ・シーヴァー、アルベルト・シュワィツァー『人間と精神』(限定第六版: ロンドン、ブラック社、一九六七年、三四一ぺージ)〔曾津伸訳・みすず書房刊は、一九四七年の初版による〕
 オット・ネイサンとハインツ・ノーデン編『アインシュタインの平和論』(ニューヨーク、シモン・アンド・シュスター社、一九六〇年、六三〇ぺージ)
 『同書』、六三二ぺージ。ラッセルのまとめ方はシュワィッァーをアーノルド・トインビーと混同したかのように聞える。(「私はこのたびは科学者にだけ、したがってあなたが名をあげたアーノルド・トインビーのような他の分野の人にではなく、交渉する方がよいと考えていた。」)
 『ザ・ダイアル(The Dial)』九六号(一九二四年)五三五~五五六ぺージ。この書評はレスター E. デノンの『バートランド・ラッセルの哲学』(ポール A. シルプ編、現代哲学者双書、一九四四年)七四三~八一ニページの文献表では見おとされている。
 ラムバレネにおけるシュワィッァーの医療活動に対するラッセルの評価は、一九六四年五月五日の『ロンドン・オブザーヴァー』紙によせた特別寄稿のなかで、『シュワィッァーへの評決』と題するジェラルド・ナイトの暴露的な本に対するクララ・アーカットの批評を裏書きする弁護の形で表明された。ラッセルの指摘によれば、シュワィツァー病院の技術的不足にもかかわらず、「技術的進歩はつねに非人間的な機械の代価をともなうものであり、これは献身的な個人がかれ自身の行動と手本によって与える人間性を欠いている。」
 ジェームズ・ブラバゾン『アルベルト・シュワィツァー』(ニューヨーク、G. P. パトンアム社、一九七五年、四一九ぺ一ジ)。ドイツ語原文は一九五五年七月二十二日の『全ドイツ評論』三〇号に、またギュンター・ハイプ編『生命が問題』ハムブルク、ヘルベルト・ライヒ社、一九六五年、二五~二六ページにもある。
 『前掲書』四三〇ぺージ