ハーバート・スピーゲルバーグ「資料解説(ラッセル=シュワイツァー往復書簡)」
* 出典:『シュワイツァー研究』n.11(シュワイツァー日本友の会、1982年9月)pp.4-11* 右の写真(ラッセルとシュワイツァー:1965年:Schweitzer 死亡の年)
Source: Bertrand Russell Archives (McMaster Univ.)のサイトより)
数年前まで私は、バートランド・ラッセルとアルベルト・シュワィツァー(Albert Schweitzer, 1875-1965年9月4日)の間の文通を知らなかった。たまたまアルザスのギュンスバッハにあるアルベルト・シュワィツァー文庫を訪れたとき、2、3の関係のないラッセルの手紙をみせられたことはあったが。私の同僚のリチャード H.ポプキンがマックマスターのバートランド・ラッセル文庫(松下注:B. Russell Archives 「ラッセル文書館」のこと)から得た一連の手紙(第34~37、本書62ページ~66ページ参照)のコピーを手にしてから、ようやく私は、それらはケネディ暗殺事件の国際調査の可能性を示すものだが、それらに先立ってもっと続いた手紙の往復があったかも知れないと思いついた。これが事実と判ったのは、ポプキン氏がマックマスター(大学のラッセル)文庫から、残っているシュワィツァーのすべての手紙のコピーを手に入れたときである。ところがギュンスバッハの文庫は、マックマスター文庫がだいぶ前に交換としてギュンスバッハヘ送ったラッセルの手紙の最初の一組のコピーと、シュワィツァーの手紙の若干のコピーを私に提供してくれた。このことにより、往復書簡のもとの42通の手紙のうち39通を日付の順にそろえてまとめることができたが、3通の短い手紙だけがまだ数に入っていない。ラッセルは20通、シュワィツァーは17通の手紙を書いたが、その他はかれらの名で秘書たちが書いたものである。
ラッセルの手紙はすべてタイプされてあり、書きうつす必要はなかったが、シュワィツァーの手紙の場合はちがう。彼の有名なタイプ嫌いのおかげで、手書きのもとの手紙は一通しか残っていない。彼の手紙はすべて彼みずからの手書きであった。そのため若干の判読の問題が生じた。シュワィツァーの手書きは、時々おこる書痙のため、当時つまり80~90歳(1955年~1965年)に書いたものは、とりわけ読みにくい。それゆえ彼の手紙はすべてワシントン大学哲学部の忍耐づよい秘書たちによって書き直さなければならなかった。保存された手紙のうち9通はフランス語で、6通がドイツ語で書かれてある。なぜこうなったのか不明である、シュワィツァーは一度だけドイツ語で書くことを弁明してはいるが。しかしたぶん彼は、ラッセルが両方ともよくできることを知っていたであろう。1955年、文通に先立つロンドンにおける両者の会談はフランス語であった。シュワィツアーの手紙の解読は必ずしも容易ではなかった。数ケ所で私は、欠けている単語を括弧づきで補ったり、明らかに間違いと思われた所を直したり、よみやすくなると思われるところでは、特に記すことなく、シュワィツァーの不規則な句読点を変えたりした。
私はこれらの手紙の編輯と出版を許可して下さったことについて、著作権の所有者たるバートランド・ラッセル出版認可委員会とレーナ・シュワィツァー=ミラー夫人に深い敬意を表したい。また原稿の段階で私の編集を校閲して頂いたことについても両者に感謝したい。さいごに私はとくにラッセル文庫の主任ケネス・ブラックウェルならびに、シュワィツァーの文庫の主任アリー・シルヴァーに感謝したい。そして私自身で明らかにできなかった質問に答え、すすんでいろいろな情報を補って下さったクララ・アーカット夫人に感謝したい。