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高橋里美「バートランド・ラッセルのベルグソン哲学批評」

* 出典:『法華』1915年(大正4)所収
* 再録:三宅剛一(他編)高橋里美全集第7巻「小品・随想・その他」(福村出版)pp.14-21.
* 高橋里美(1886~1964):第一高等学校,東京帝国大学文科大学哲学科卒業後,大学院に進む。第六高等学校のドイツ語講師となり,後教授となる。新潟高等学校教授の後,東北帝大の助教授となり,ドイツ留学後法文学部教授となる。/ドイツに留学してリッケルト,フッサールに学ぶ。ヘーゲルの弁証法や,西田,田辺哲学の批判的検討を通して,「包越の論理」にもとづく独自の観念論的哲学体系を樹立/昭和24年から32年までは東北大学学長
* 山形大学所蔵「高橋文庫」目録データベース

 ベルグソンの哲学に対するラッセル(Hon. B. Russell)の批評は一度一九一二年七月の『モニスト』(The Monist)紙上で公にされた。それを翌年の四月にウィルドン・カー(H. Wildon Carr)が『ケンブリッジ・マガジン』(Cambridge Magazine)で批評し,それにまたラッセルが同月の同紙上で答えている。昨年それらの批評が『ベルグソンの哲学』という標題の一つの小冊子になって出版された。ここに紹介するのは,ラッセルの批評の後半(前半は主として紹介)である。ラッセルは人も知る如く,輓近(ばんきん)あらわれた新理知論,新実在論の代表的主張者であって,ベルグソンの如く深い思想家ではなかろうが,その鋭く切り込んでくる批評はなかなかあなどりがたいものがある。それに対するウィルドン・カーの反駁は余り取るにたらぬように思う。

 もしベルグソンの哲学が単なる空想や詩以上に確かな拠り所をもつものとするならば,その基礎は彼の空間説にほかならぬ。彼の空間説は悟性(知性)を罪するに必要なるものであって,もし彼にして悟性を罪するに失敗するならば,彼は却って悟性に罪されるであろう。また彼の時間説は自由の擁護,万法流転の説および彼の物心関係論と離すべからざるものである。それでもし彼の時空説が正しかったら,他の些細な誤りや矛盾などは別に意に介するに足らない。けれどももしその時空説が間違っているならば,彼の哲学は空想的叙事詩たるにすぎぬであろう。先ず比較的簡単な空間説から考察する。
 ベルグソンの空間説はその著『時間と自由意志』によって明細に知ることができる。その第一章において,彼は大は小を包含するということから,大小の観念は空間を含むと主張している。彼は別にその理由は示さないで,ただこれを明々白々たることのように主張するのである。第二章ではこの同じ考えをに関して主張している。曰く,我々は心に数を描こうとする時はいつも我々は延長的形像によらねばならぬ,数の明瞭な観念はつねに空間における視覚形像を含むとこの言はすでにベルグソンがの何ものなるかをしらないことを証して余りあるものであるが,このことは,彼がを単位の集合,一と多との綜合と定義しているのを見ても明らかである。
 けれども我々は次の三つのものを混同してはならぬ。一,種々の特殊的な数に適用しうる一般的概念としての数,二,種々の特殊的な数,三,種々の特殊的な数が適用せらるべき種々の集合体ベルグソンが単位の集合という時の数はこの第三の数である。十二の使徒,十二の月等はみな単位の集合体ではあるが,いずれも十二という数ではない。ましてそれを数そのものと同一視することができぬ。十二という数はこれらの集合体が共通にもっているところのものではあるが,十一の蟋蟀(こおろぎ)というような集合体には共通ではない。ここをもってみれば,十二という数は十二の項の集合体でもなければ,すべての集合体が共通に有するところのものでもない。数一般は,十二であれ十一であれ,いかなる数ももっている性質であるが,十二項または十一項よりなる集合体の性質ではない。
 それでベルグソンの言葉に従って延長的形像に訴えて,例えば双六(すごろく)で六の目を一つ出してえられるような十二の点を表象するとする。しかしそれではまだ十二という数の具体的表象はえられない。十二という数はいかなる具体的表象よりも抽象的である。十二という数を理解したといいうる前には,十二項の種々の集合体に共通なるところのものを知らねばならぬ。しかもこれは抽象的なものであるから具体的に表象することができぬ。特殊な集合体をその項の数と,この数を更に数一般と混同するとき,始めてそこにベルグソンの数の説が成立するのである。
 この混同は若い人を青年期と,青年期を「人生の時期」という一般概念と混同したのである。そして若い人が二本の足をもっているから,青年期にも二本の足があり,一般概念の人生の時期にも二本の足があると論ずるようなものである。この混同が明らかになるときは,ベルグソンの数の説のみならず,すべての抽象概念やすべての論理学が空間から導かれたものであるという彼の一般的な説の根拠が失われる。すべての十二の共通性質なる抽象的の十二は,明らかに理解はできるが,しかも明らかに空間中に具体的に表象することは不可能であるからである。
 数の問題はともかくとして,'分立的の単位の複数'は空間を含有するというベルグソンの主張はゆるさるべきであるかどうか。例えば継起的音響の如きはこの見方に反するように思われる。もっとも彼は,人の通る足音を聞く場合にはこれを空間的位置に引き直し,べルの打鳴を聞く時にはこれを想念的空間にならべて考えているというのであるが,これは彼の如き視覚型の人の個人的経験に基づいた議論にすぎぬ。時計の打鳴を想念的空間に並べるということは決して論理的に必然なことではない。けれどもベルグソンはこれを自明の理と仮定し,更にそのままこれを時間の場合に適用して,我々が多くの時間を相分立して存在するように思う場合には,時間を空間中に拡がっているものとして想像しているのであるが,記憶に現われる真正の時間においては多くの時間は互いに貫徹融合してそれを数えることができぬと論じている。
 彼はすべての分立は空間を含むという思想から出立して,明らかに分立的な抽象概念は空間を含み,従って抽象概念を用いる論理学は幾何学の一部門であり,悟性全体は事物を空間中に並置する習慣に基づくと論じている。この帰結によって彼は悟性を非難するのであるが,これ全く自分だけに特別な性質を思惟の必然と思い誤っているのである。もしベルグソンが正しければ,我々は到底いわゆる抽象的観念に到達しえぬはずである。けれども我々が個々の具体的事物と対立する抽象的観念を理解することができるという事実は,悟性が空間を含むという彼の説の誤謬を証するものではないか。
 ベルグソンの哲学のような反理知哲学の悪結果は,一寸した一時の困難を不可解の謎の如く呑み込み,くだらない誤謬を捕えて悟性の破産と直観の勝利を示すものの如くに論じ立てることである。彼はしばしば数学や科学に'関説'(ママ)しているが,生物学生理学の議論はともかくとして,その数学上の説は普通の哲学者の数学観に一歩を進めてはいない。一八世紀および一九世紀の初葉における微分法は種々の迷誤混同をその基礎にもっていた。へーゲルやその学徒は,これらの迷誤混同を攻撃し,かくてすべての数学の自家撞着なることを証明しようと試み,多くの哲学者もこの例に倣った。しかも数学はその後,大なる進境を示しているのである。哲学がへーゲルの「理性」やベルグソンの「直観」などの名のもとに無知者の僻見を尊崇する間は,骨の折れた数学者の事業をいつまでも知ることができぬであろう。
 すでに論じた数の問題のほかに,ベルグソンはいわゆる悟性の「活動写真的」解釈を難じている。数学は変化(連続的変化すら)を状態の系列から成立するものと考える。これに反してベルグソンは,状態の系列は決して変化を成すものでなく,変化する事物は決して何らの状態にも存するものではないと主張する。状態の系列から変化ができるという見方は活動写真的な見方で,悟性には極めて自然的ではあるが,根本的に間違った見方である。真の変化は盲の持続によって説明せらるべきものであって,静止的状態の数学的継起ではない。ベルグソンはこの真の見方を「静的」見方に対して「動的」見方と呼んでいる。
 ベルグソンの論旨はゼノンの「飛矢不動の論」に関して説明することができる。ゼノンは論じていう。飛んでる矢はその瞬間にその矢の存在するところにある,だから飛んでいる矢は常に静止しているのである,と。勿論,矢は一つ(瞬間には,その存在する一点にあるには相違ないが,しかしその次の瞬間には他の点にあるので,これがすなわち運動を構成するのである。もっとも運動の連続ということはむずかしい問題である。けれども無数のフィルムから成っている活動写真,従ってまた次とよばるべきフィルムがない活動写真は,完全に連続運動を表わすものである。しからばゼノンの議論の強い所がどこにあるか。
 そもそもエレア派の目的は一切の変化を否定し尽くすにある。しかし我々は実際変化を認めずにはいられない。ここにおいて二つのパラドックスが生まれる。エレア派は事物は存在するが変化は存在せぬという。ヘラクレイトスとベルグソンは変化は存在するが事物は存在せぬという。「静止」派はいう,矢がないというのは実に滑稽でないか。「活動」派はいう,矢が飛ばぬとは実に滑稽でないか。両派の間に立って矢もあり,その矢が飛びもすると考える不幸なる普通人は,両方から矢と飛動と二つながら否定するものだと非難されるのである。けれどもゼノンの議論の強いところはまだそこにはない。
 ゼノンは暗黙の間にベルグソンの変化説を仮定しているのである。すなわち,事物が連続的変化を行なう場合には,たとえそれがただに位置の変化であるにせよ,その事物のうちに或る変化の内的状態がなければならぬことを彼は仮定しているのである。変化する事物はそれがその瞬間において変化せぬと仮定した時のその事物と内的に相違しなければならぬ。次に彼は論ずる。それぞれの瞬間において矢はその存在するところにある。あたかも静止している時と同様である。だから運動の状態というようなものはない。故に運動の状態が運動の本質であるという説をとれば,運動というものがなく,矢はいつも静止していると彼は論ずるのである。
 ゼノンの議論は変化の数学的説明には触れてはいないが,ベルグソンの主張するような変化説を弁破するに足るものである。それに反してベルグソンはいう,なるほど矢がその過程の一点に存在するならば,ゼノンのいうところは道理であるが,矢は決してその過程の一点に存在するのではない,と。ベルグソンの見方が可能であるかどうかは彼の持続説の批判によって決定せられる問題である。その見解に対する議論としては,変化の数学的見方は「運動が多くの不動から成立するという不合理な命題を含む」と論じているだけである。けれども運動は関係を含むことに気がつけば,必ずしもそれが不合理でないことが分かるであろう。例えば友情は友人から成立する。友情から成立するのではない。血統は多くの人から成立するので,多くの血統から成立するのではない。同様に運動は運動する事物から成立するので,多くの運動から成立するのではない。運動は,或る事物がそれぞれ違った時間にそれぞれ違った場所に存在し,それらの時間がいかほど接近していても場所はやはり違っているということを意味するのである。それで運動の数学的見解に対するベルグソンの非難は結局'言語の上の戯れ'にすぎない
 次にベルグソンの持続説はその記憶説と離すべからざる関係をもつ。彼の記憶説によれば,過去は記憶の中に蘇り現在と相貫徹融合する。存在を形成するものは動作である。数学的時間は何事も行なわない。従って何ものでもない。過去もはや作用せぬものであり,現在は作用しつつあるものである。けれども彼が過去はもはや作用せぬものというが,その「もはや」という言葉はすでに過去を意味する言葉ではないか。彼は現在を作用しつつあるものというがその「ある」という言葉は,これから定義しようと思う現在の観念をすでに取り入れているものではないか。かく彼の過去現在の定義は循環定義であって,彼の排斥する数学的時間を仮定しているものである。彼またいう,知覚の現実性はその活動性に存する,過去は単に観念であり,現在は観念運動的である,と。これによってみれば,ベルグソンのいう過去は過去そのものではなく,過去に関する我々の現在の記憶であることが分かる。過去も過去の時にあっては,現在が今活動的であると同じく活動的であったのである。過去の知覚もかつては現在の知覚とその現実性において変わりがなかったのである。過去は当時決して単なる観念ではなく,活発々地(ママ)なる現在であったのである。この真正の過去は現在と混和することがない。過去に関する記憶は現在の一部であるから現在と混和するのは当然であるが,それは真の過去とは全く別物である要するに,ベルグソンの持続や時間の説は記憶の現在における現象と記憶せられている過去の現象そのものとの混同の上に立つものである。彼は知覚と記憶――共に現在の事実――との区別を説明して,それで自らは過去と現在との区別を説明しえたと信じている。しかしこの混同を意識する時は彼の時間説は全く時間を除外した時間説であることが分かるであろう。
 けれどもこの現在における記憶と過去の事件との混同は,更に一般的な混同,すなわち知る作用と知られる物との混同の一例にすぎぬ。記憶の場合には,知る作用は現在にあるが,知られるものは過去にある。これを混同するが故に現在と過去の区別が不明になってしまう。知覚の場合に知る作用は精神的であるが,知られるものは物理的・物質的の事物である。二者を混同するとき物心の別が不明になってしまう。かくてベルグソンは知覚は物質の部分であるといいうることになる。
 彼の著『物質と記憶』には到るところこの混同がある。彼はこの混同を形像たる語の中に隠蔽している。彼のいわゆる形像は唯心論者のいわゆる表象よりも実質的のものであって,実在論者の事物よりは非実質的のもの,すなわち表象と事物の中間に位するものである。宇宙間のすべてのものは形像から出来ている。物質は形像の集積であり,この同じ形像が身体という一つの特殊な形像の可能的動作に関係して見られたときは物質の知覚となるのである。思うに,ベルグソンの考えているのは事物そのものとその事物のあらわれる姿との区別であって,主観と客観,思惟し想像しまた記憶する心と,思惟せられ想像せられまた記憶せられる事物との間の区別は,全然彼の哲学に欠けている。この主客の区別の欠けているのは彼が結局唯心論者であるからである。それで形像というにしても,始めはこれを精神と物質との中間物のように見,次には表象することのできぬ脳髄まで形像にしてしまい,更に物質と物質の知覚を同一物と説き,やがてすべての実在は意識に関係があると論じているのである。
 すべてこれらの混同は,そのもとをただせばみな主客の混同から来ているのである。主観は思想にせよ,形像にせよ,記憶にせよ,我の中に存する現在の事実である。これに反して客観は例えば引力の法則である。例えば友だちのジョーンである。主観は心的のもので今現にここにあるものであるから,もし主客同体というならば,客観も心的で今ここにあらねばならぬ。友だちのジョーンは南米で独立に存在すると思われるのに,実際は私の頭脳内にあって,私が考えてやるから存在することができるというようなことになる。これはベルグソンの時空の説をもじったのではなく,その説の具体的の意味を示したのである。主観客観の混同は時にベルグソンに限ったわけではなく多くの唯心論者や唯物論者もこれを冒(オカ)している。唯心論者はいう,客観も実際は主観である。唯物論者はいう,主観も実際は客観である,と。ベルグソンはともかくも主客を同一視する点においてむしろ公平と評すべきであろう。しかし一度この主客同一観を論破するときは彼の全哲学が崩潰する。先ず彼の時空の説,次には真の偶然性に対する彼の信念,次に悟性の非難,次に彼の物心関係論,最後に宇宙は元来無一物で,無より無に至る動作,運動,変化あるのみであるという彼の見解は倒れざるをえない。
 もとよりベルグソン哲学で最も人気ある部分は議論に立脚しているものでないから,議論によって覆える恐れもない。その想像的な世界観を一篇の詩と見れば,証明することも論破することも不可能であろう。彼の尊重するところは動作のための動作である。彼はすべての純なる冥想を夢想と呼び,静的とかプラトニックとか数学的とか論理的とか理知的とかという形容詞をもって難じている。我々が欲望の目的を予見したいといえば,彼は予見されるような目的は新しいものでないと答える。で,我々は本能の奴隷となるのほかはない。禽獣の世界に堕せねばならぬ。盲目なる活動に満足するものはベルグソンの世界観を喜ぶであろう。けれども価値ある理想に対して精進せんとするもの,活動の基礎を冥想に置くものは,彼(ベルグソン)の哲学においてその要求するものを発見することができぬであろう。また彼の哲学を真理と考える理由なきを悲しまぬであろう。