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「ラッセル卿との対話、斉藤雅子さんに聞く」

* 出典:『朝日ジャーナル』1966.03.13号,p.129(=羽田通信)

 (問)風景を見てまわるのが観光旅行なら、あなたはさしずめインタビュー旅行
 ええ、ずいぶん大ぜいの人に会ってきました。イスラエル、イタリア、フランス、オランダ、イギリス、アイルランド、デンマーク、スイス、ギリシヤ、アメリカとまわりまして、作家、評論家、劇作家、作曲家、画家、映画監督、俳優など、著名な方々にお会いしました。それから心あたたかい無名の市民の人たちとも・・・。

 (問)それも社用出張ではなく、個人の費用で・・・。

 はじめスポンサーの話があったのですが、途中で話が変ってしまって。もう紹介していただいたり、打合せずみの方もあったので、思い切って借金して出かけました。そのため、パリのホテルにしても朝食つきで一六フラン。四流、五流というところです。タクシーなどにはほとんど乗らず、バスや地下鉄ばかりです。そのほうがかえってよかったようです。思わぬ友人ができたりして。

 (問)ヨーロッパの男性は女性に親切でしょう。

 女だからというのではなく、遠い日本からきたひとりの旅人として、いたわられたのでしょう。町角で立ちどまっていると、かならずだれかが寄ってきて、「なにかお役に立つことがありますか」と聞いてくれます。イスラエル観光省のお役人も、デンマークのおばあさんもそうでした。日本へいらした外国の方にも親切にしなければと思いました。

 (問)インタビューされたなかで、一番深い印象を受けられたのは?

 バートランド・ラッセル卿ですね。わたし小学生のころに、家の本棚にラッセル卿の『哲学の諸問題』の翻訳があったのをおぼえています。学者として、平和運動家として、もっとも尊敬している方のひとりです。ロンドンから汽車で七時問ほどゆられ、(北ウェールズの)ポートマドックのご自宅を訪問しました。雪のつもった丘の中腹にある、小ぢんまりした木造の家(右写真1972年撮影:故・牧野力教授のアルバムより)でした。応接間でごあいさつしたとき、真っ赤な室内ばきを召していらっしゃるのが、目にしみました。九三歳とはみえぬお元気さで、写真でみるようなきびしい風貌ではなく、もっとユーモアあふれる感じでした。秘書からもバティ(松下注:Bertie:バーティー)という愛称でよばれています。一時間半あまりお話をうかがいました。

 (問)やはりベトナム(戦争)問題がでたでしょうね。

 現在のままでは、アメリカの軍事行動によって中国が硬化するばかりだ。アメリカを説得するほかに道はない、とおっしゃるのです。「その可能性はありますか」とたずねると、「まあ二〇年はかかるね」と気の長いお返事です。平和については楽観も悲観もしていない。平和の可能性を現実にするために行動しなければならない、というご意見でした。

 (問)とくに日本についてのご発言は?

 日本とかイギリスとかいった特殊な立場よりも、人間としてなすべきことをなすべきだ、と強調されました。


 (問)同じくノーベル文学賞を受けたパール・バック女史にもお会いになったのですね。

 パール・バック協会事務所が住宅兼用になっています。おうかがいすると先客のジョシュア・ローガン(映画)監督と歓談中でした。七一歳におなりですが、赤い口紅、黒い中国服、金の腕輪、若々しい声。まったく圧倒されそうでした。アメリカ人はベトナム人を理解していない、ベトナム人もアメリカ人を理解していないとして、アメリカ民主主義と憲法の高い理想をとうとうと語られました。いまはインドを背景とする作品を書いておられるそうです。黒人と日本人との混血児を養子にしておられますが「日本は何度も行ってよい印象をもっている。日本の皆さまによろしく」とのご伝言でした。