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望月重信(解題)_ バートランド・ラッセル(著),『教育と社会体制』(Education and the Social Order, 1932)

* 出典:長尾十三二・原野広太郎(編)『教育学の世界-学際的教育科学への道 名著100選』(学陽書房、1980年6月刊)pp.182-184.
* 望月重信( - )は、明治学院大学名誉教授。

(注:評者によるラッセル紹介文は省略)

[ Education and the Social Order, 1932 ](邦訳は、鈴木祥蔵(訳)「世界教育学選集(第八巻)」、明治図書出版、一九六〇、初版、一九七九、一五版刊)がある。)


 本書が書かれた背景はほぼ、「教育論」(の出版) → ビーコン・ヒル・スクールでの教育実践 → 「教育と社会体制」(の出版) という脈絡でとらえることができよう。彼の取り組みには自由主義を教育精神としながら、他方で指導(訓練)の必要性を認めるという二律背反の教育方針があった。つまり、子どもの自由を抑えてはいけない、しかし子どもの自由を全部は容認できないというものであった。

 本書は以下の一六章から成る。第一章「個人と市民」、第二章「教育の消極説」、第三章「教育と遺伝」、第四章「感情としつけ」、第五章「家庭と学校」、第六章「貴族主義者・民主主義者・官僚主義者」、第七章「教育における集団」、第八章「教育におげる宗教」、第九章「教育におげる性」、第一〇章「教育における愛国心」、第一一章「教育における階級感情」、第一二章「教育における競争」、第一三章「共産主義下の教育」、第一四章「教育と経済」、第一五章「教育における宣伝」、第一六章「個人性と市民性の調和」。

 本書は教育という仕事をたんに人間を社会に順応せしめるための機能とはせず、社会の不断の改造という価値志向のもとで、冷徹なまでに人間の自己改革の必要性を説いたものと考えることができる。ラッセルが常に国家、宗教(教会)、教師、父兄などいわば従来、教育の権威とみたされてきた地位や立場をことごとく批判するという徹底的な批判精神をもっていた点を忘れてはならない。

 第一章終章とともに読めるものである。まず「最も完全な個人の発展が必要な最小限度の社会的な一致をもちうるかどうか」(邦訳一八九頁)という問題である。これは個人性と市民性の論争であるが個人は「自己自身にたよるもの」、市民はかれの近隣に「とりまかれたもの」とし、私たちが実際に市民であることは否定しがたい事実であって教育はこれを無視し得ない。かといって事大主義に陥っては個人としての「潜在的能力」が看過される。要は「個人の啓発と市民の訓練とは違うことだということを否定するのは困難」(邦訳一〇頁)ということであり、ゆえに意志により力を働かすという営為が「協力」という関係のもとで成就されることを願うのである。自分にたよる個人と、とりかこまれた市民。この二者間の調和が問題であり、そのための要件として重要なのは迷信の払拭だという。そこに画一性に陥ることのない理性と科学する精神が価値づけられるのである。

 「教育の消極説」(第二章)では教育における自由とその限定性をわきまえることが主張される。「学習を強制された子どもたちは知識に対し嫌悪の情をどうしても感じてしまうものである」、「過度に文字や絵や音楽について、自己表現よりも正確さという点からのみ教え込まれた子どもたちは次第に人生の美的な側面に興味を覚えなくなってくる」(邦訳二八頁)。これらは今日の教育熱心な親にじっくりと考えてもらいたい警告である。感情教育においては消極性は正当化されうるのであり、知的技術的な訓練ではもっと積極的な何かが要請されるという二面をとらえているのは特微的である。

 第五章「家庭と学校」では理想的な学校は「より多くの光線と空気を与え、より多くの活動の自由をそしてより多くの同じ年項の仲間をもつことを許してくれる」(邦訳五七頁)善さをもつものであるが、現実は必ずしもそうでないと悟す。家庭と学校との関連についても「家庭は学校の人為的な単純化を是正してくれる」上で有益なのであり、家庭の長所たる、子どもへの愛情経験を与える場個人間の違いを大切に保持する家庭を価値としてみなす。

 第七章「教育における集団」では集団を活かすも殺すも大人たち(教師も含めて)の模範次第だという。それによって「集団本能が協力的に働いて息苦しく排他的にならない遊戯のような集団活動に相当な興昧をもたせることも可能」(邦訳八〇頁)であるし、もし集団における不幸があれば人はその中で屈服し、かれの性格の中にある最もすぐれたものをも失うと警告する。

 第八章「教育における宗教」では「それがいかなるものであろうとも、われわれのよい科学的な信念が従わねばならない知的吟味にたえ得ないものとみなされるならば、どんな信条も教育にとっては危険なものでありうるといわねばならない」(邦訳九一頁)と宗教教育の悪い影響を戒める。

 そしてラッセルが「歴史は世界のすべての国で同じに教えられなければならない。歴史の教科書は・・・国際連盟によって書きあげられるべき、・・・国家の歴史でなく、世界の歴史でなければならない」(邦訳一一五頁)と主張するのは、国家主義の害毒を止揚して平和主義に代え、世界政府の創設という理想を基盤としたものである。歴史教育という人類に普遍な問題にかかわる教育課程編成のこの含意は夢想の絵空事と一笑に付すべきものであろうか。競争社会と化した学校と今日の子どもたちの不幸、競争崇拝を教育してきたために青年から想像力を奪い、生活世界を敵意と残忍さの感情で満たしているのが教育の現在の状況なのである。

 過去を想い、時代の将来を見定めて現在に全一的に賭けるべき教育の営為が時代錯誤に陥っているのが現状である。本書からわれわれが学び得ることは、教育は体制のいかんにかかわらず、ときの政治権力と深く結びついたものであるがゆえに、われわれが教育によって特定の信念(ドグマ)の注入をするかそれとも子どもの人間としての知性や自由をのびのびと伸ばすことができるか、これが人類の未来を決める鍵になるということである。(望月重信)