牧野力(著)『ラッセル思想と現代』(研究社,1975年2月刊 281pp.)への「まえがき」
バートランド・ラッセルは、1970年2月2日午後8時、北ウェールズのプラス・ペンリンの山荘で、その波瀾に富んだ生涯を閉じた。97歳であった。(右写真:プラス・ペンリン山荘の玄関前/(故)牧野力氏撮影、1972年)しかし、その当日も、彼は、平和のために、アラブ・イスラエル問題に関する声明文の執筆を終え、彼の好きな夕陽に染まるポート・マドックの入江の眺望を2階から見下ろし、平素と変わらず、床についたのであった。翌日、内外の新聞が彼の死に驚き、心から哀悼の意を表した。戦後の日本人にとって、ラッセルの名は、主として、ラッセル=アインシュタイン宣言、ノーベル賞授賞、核禁平和運動、ラッセル国際戦犯法廷活動などの新聞報道と結びついていた。しかし、それは、ある意味で氷山の一角を見るに似ている。
60余冊の彼の著書は、彼がイギリスのアリストテレス学会の会長を勤めるだけあって、関連する領域が広くかつ深い。(松下注:Aristotelian Society は、諸学の祖アリストテレスを研究する学会だろうと早のみこみする人が時々いるが、そうではなく、諸学の始祖であるアリストテレスの名前を冠した「哲学の体系的研究のためのアリストテレス協会」のこと)それらは一見相反的にみなされ易い2つの領域にまたがっている。一方は、数学基礎論、記号論理学、認識論であり、他方は人生論や社会科学の領域である。日本には、巻末の著作年譜の中で示すように、ラッセルの著書の訳書は少なくない。そしてそれぞれに立派な紹介と解説がついている。
しかし、より全体的に、ラッセルを知りたいと望む時、彼の生き方や考え方について、著書を通じての、ある共通項なり一貫性なりを示唆するものを求めたくなるが、それを満たしてくれるものは、研究家の今後の労作をまつ外ないであろう。
この実情にはしかし、深い現実的、あるいは資質的な理由がある。それは、上述の2つの領域に、均等な、あるいは均質に近い関心や理解力を持つという事柄に期待をかけることそれ自体、現実にははなはだ稀有に近いからである。しかし、困難とか不可能に近いという事情に関連なく、願望の湧くのが人の心の常ではあるまいか。
異常な、あるいは、非凡な「生の拡充」の軌跡を残した1人の人間ラッセルに、何らかの共通項の一貫した解明を求めることの是非は、しばらくおくとしても、かかる心情を抱くのは、ラッセルの生き方と考え方との体質に由来するある誘いがあるからかも知れない。彼の著書の読者にとって、この誘いは、彼の著述内容にこめられている特質とも呼べるものである。
それは、3つ挙げられよう。
一、立論の手堅さ
二、徹底したヒューマニズム
三、知的誠実さ
などである。
立論の手堅さ
分析哲学の雄である彼には、問題の核心を洗い出す巧みさと問題の総合的位置づけを忘れない深慮とがある。これは立論の手堅さとなり、先見性に富む所説となって現われる。
たとえば、「ラッセルの背理(paradox)」はその一例ではあるまいか。
ラッセルが法則に関する領域の問題において示したこのような考え方の特色は、また、一般読者に親しまれている人生論、宗教論、教育論、政治論その他の価値や欲望に関する領域を扱った通俗的著書において述べられている考え方についてもあてはまると思う(数学・論理学・哲学を論ずるラッセルと人間・人生・社会・平和を論ずるラッセルとの2面性に関する問題は、序論の「2人のラッセル」論を参照されたい)。「われわれは、〈実数概念の無矛盾性の証明〉という目標の下に、ここまで分析を重ねてきたのであった。ここに、あるいは、かようなことを数学者の閑事業にすぎないことと評される向きもあるかと察せられる。しかし、これは数学にかける最も重大な問題の1つなのであって、大げさに言えば、ここに数学の浮沈がかけられているのである。これを説明するためには、歴史的に見出された〈集合論の矛盾〉に言及するのが捷径であろう。(中略)
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この背理はいったいどこが間違っているのであろうか。実を言うと、現在のところでは、まだこれは非常な難問として残されているのである。これはラッセルによって見出されたものであって、その故に、彼の名を冠して、「ラッセルの背理(パラドクス)」と称せられている。まさしく、集合概念が少し自由に過ぎ、そのままでは、矛盾を含んだものであることを如実に示すものであろう。(中略)
この背理は数学の基礎に関して、激しい危機感をかもし出したものである。上に述べたように、本質的な困難は今日もなお解決されていない、と言ってよいであろう」(吉田洋一・赤摂也(共著)『数学序説』改訂版、培風館、1963年?)
約半世紀前に彼が行なった発言内容が今日の世界の事情に符合する例も少なくない。たとえば、ソ連のチェコ侵犯以来、社会主義が改めて問い直され、「人間の顔をした社会主義」論も出ている。1920年におけるラッセルの訪ソの所産である『ボルシェヴィズムの実際と理論』(1920年)の中で彼は、ソ連観と共に社会主義論を述べた。出た当初は悪評を浴びたが、第2次大戦後、地上に現出した14の社会主義国の直面している問題点を調査分析し、5つの型にまとめた『5つの共産主義』(G.マルチネ著.熊田亨訳、岩波新書、1972年)が指摘するところは、ラッセルの1920年の訪ソにおける問題意識に通ずるところがある。つまり、権力のあり方と利潤の分配法についての、先進国と開発途上国との社会主義化についての核心となる問題意識である。
また、1920年におけるラッセルが訪中した成果である『中国の問題』(1922年)の中で、若き中国(young China)に向かって、中国自立論を提言している。その具体的な提案事項は、毛沢東政権樹立の時点における現実と符合し、彼の的確な先見性を保持しえたことで有名である。彼が社会主義中国を期待する背景として述べた中国人論や東西文明比較論は、中ソ論争や文化大革命の必然的背景と解される論旨を明記している。(右写真:『ラッセル思想と現代』p.168より)
もちろん、ラッセルの予見や結論に、常にまったく誤りがない、というわけではない。誤算もあった。ヘルベルト・ゴットシャルクは、『ラッセル伝』(Herbert Gottshcalk: Bertrand Russell; a life(Unwin Books, 1967)の中でその原因として、3点を指摘している。
- 現実政治に関する情報不足にもかかわらず、ヒューマニズムの主張や平和を熱心に願う余り、強調が過ぎてしまうこと。
- 英国左派の心情に共感する余り、党派の誤りを指摘するのに控え目であり過ぎたこと。
- (3)専門家の発言内容の信憑性を敢えて検討せずに、これに依拠し過ぎたこと。
徹底したヒューマニズム
彼の生涯は理論と実践との両面でヒューマニズムに貫かれている。平和・反戦の面からだけではない。政治、教育、宗教、その他に関する著述の発想の根源において、人間に即しその心情を少しも崩さない。たとえば、自己の教育観の実験検討の気持もあって、1927年以来、自費で学校を経営し、莫大な赤字を不断の執筆と講演とで埋め合せていた。しかし、正しい習慣づけの問題と対接するために、彼みずから、3歳の幼児の臀りの世話(松下注:下の世話)をいとわず、その母親と連絡を欠かさなかった人間であった。1918年と1961年との2回、彼が投獄されたこと自体が、ヒューマニストたる彼の面目を如実に物語っているのである(巻末年譜参照)(日高一輝氏撮影写真出典:『ラッセル思想と現代』p.227)
知的誠実さ
ラッセルは、幼くして孤児となり、孤独と対決し、確かなるものに憧れた。生体の論理である。その結果、真理探求・真実追求に専念した。そして生涯、知的誠実さを貫いた。
たとえば、自己の学説の誤りに気付けば、面目にこだわらず、率直にそれを認めた。絶対視したり、教条主義に走ったりせず、むしろ科学的懐疑精神を尊重した。彼が選挙に出馬した時であった。主教から「あなたは教会へ通いますか。神を信仰しますか」と質問された。主教の喜ぶ返答は、ラッセルに当選を保証した筈であった。しかし、彼はウソがつけなかった。清濁あわせ呑む肌合いではなかった。彼は回想している。
「私がケンブリッジ大学で得た真に価値ある考え方の習慣といえば、唯1つ、それは知的正直さであった。」人間社会における真実を求め、彼は、個人・社会・世界、というそれぞれの次元で、迷信・偏見とたたかい、虚妄の壁を破り、人間個人の幸福と精神の自由とのために、みずから、茨の道を選んだ。人間個人・社会・世界、というそれぞれの次元で、人間をとりまくいろいろの問題の領域において、彼はどう考えて、われわれに語りかけてきたかを、それらの脈絡のもつ相関性の中で、改めて見直してみたい。
バートランド・ラッセルの研究は、質的にも量的にも、尋常のわざではない。浅学非才の筆者の、もちろんよくする所ではない。ただ、この本が、若い人々のラッセルとの何らかの出会いになれば、という願いからあえて筆を執った次第である。
筆者の誤解や曲解がないとは言えない。ラッセルについて述べた本書の内容に、共感を抱く方も、また異論のある方も、共に、必ず改めて、原典か訳書かをひもといて頂きたい。その意味をさらに検討する方のために、巻末に年譜および著書目録、その他をあげておいた。また各章の終わりに、関連著書の数字を列記した。巻末の原著作一覧、年譜を参照されたい。ただし、それらは必ずしも本文引用の出所ではない。
なお、ラッセル研究の先達である方々のいろいろの労作に、ここに列挙しないが、お世話になったことを明記し、謹んで深い感謝の意を表したい。
この本は、1972年ラッセル生誕百年祭の行事のあった年に出す予定であったが、筆者の多忙と遅筆とのために、今までのびにのびてしまった。今日、日の目を浴びることのできたのは、一重に、研究社編集部・浜松義昭氏のお蔭である。お礼を申し上げる。
1974年9月 著 者