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[書評] ラッセル「宗教は必要か」* 原著:Why I am not a Christian, and Other Essays on Religion and Related Subjects, 1957. * (参考)『宗教は必要か』訳者あとがき 野田又夫「ラッセル(著),東宮隆(訳)『宗教は必要か』ラッセルの宗教批判はもちろん主としてキリスト教に向けられている。この本のはじめの三つの論文「なぜ私はキリスト教徒でないか」「宗教は文明に有益な貢献をしたか」「私は何を信ずるか」が単純に率直にラッセルの論旨を示している。この主なものをひろってみよう。 このようにラッセルはみずから厳格な意味で「キリスト教徒でない」といい、宗教は文明の味方であるよりも敵であったと判定するが、それでは彼みずからの信ずるところは何であるか。 「善い生活とは、愛に力づけられ、知識によって導かれた生活のことてある(The good life is one inspired by love and guided by knowledge)」というのが、彼のモットーである。愛をヒューマニズムといいかえ、知識をもっぱら科学とすると、科学的ヒューマニズムということになるであろう。 しかしラッセルは、科学を技術化して人間の幸福に役立てるという、現在すでに常識化し、かついろいろに批判される考えをぼんやり採っているのではない。科学や技術が人間の幸福のために使われるとは限らないことはいうまでもない。そこへ愛を、しかもラッセルのキリスト教批判から考えて、全く憎しみを含まぬ純粋な愛を結びつけることは、どうしてできるのか。 この本の訳者は、ラッセルが一九〇三年に発表した有名な文章「自由人の信仰」をラッセルの他の本からとってきて付け加えた。この文章の中に、上の疑問に答える点が含まれていると思われる。(松下注:英国版と米国版とでは少し収録されている論文に違いがある。米国版には「自由人の信仰」が含まれており、結果的に、米国版に似通ったものになっている。) 簡単にいえば、ラッセルは、科学的宇宙論がわれわれに示すところのこの世界、すなわち、人間の習性や理想に対して無縁な、「永遠に沈黙している宇宙」(パスカル)に面して、人間のおかれた状況が、まさに悲劇的なものであることを痛切に認め、そこから、同じ悲劇の訳者としての同胞の人間に対して、純粋な愛がわき出ると考えているのである。これは、歴史的にいえば、デカルトやパスカルが近世的宇宙論に対してもった状況の再現であって、いわゆる啓蒙主義のオプティミズムではない。このような生の悲劇感から、憎みを含まぬ愛、罪や地獄の信仰と不寛容とを脱却した愛が生まれることを、ラッセル自身は「一種の宗教的関心」に似た経験によって信ずるに至ったといっている(Russell, Portraits from Memory, )。この信念は、ラッセルをして「私はキリスト教徒でない」といわせたものであるとともに、「私は共産主義者でない」といわせるものなのであり、原子兵器(核兵器)に反対して強い警告を世の権力者に与えしめているものなのである。 キリスト教および宗教一般についてのラッセルの批評に対しては、彼の批評が金面的否定を表明しているだけに、かえってたやすく反駁できると感ずる人が多いかもしれない。例えばイエスは「敵を愛せよ」といったではないか。また教会が文明の、例えば中世の文明の'敵'であったなどということは、むしろ奇説と感ぜられるであろう。しかしながらここで法廷弁論めいたことをくりかえしてもはじまらないという感じがする。私自身の感じではラッセルは彼の無遠慮なユーモアと皮肉とにかかわらず大抵の宗門人よりも、宗教をはるかに真剣にとっており、その意味では宗教的であると思われる。もっとも私もこの言葉に大してこだわるつもりはないが。 |