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丸山真男「バートランド・ラッセル『西洋哲学史』v.3-1(近世)を読む」

* 出典:『思想の科学』v.1,n.3(1946年12月)掲載
* 再録:丸山真男(著)『戦中と戦後の間、1936-1957』(みすず書房、1976年刊)pp.251-267.
* 丸山真男(まるやま・まさお:1914~1996):政治学者。1940年、26歳で東大法学部助教授、1950年、36歳で東大法学部教授。1971年退官。1975-1976年、プリンストン高等研究所員



 これから君の担当する近世の部について色々に伺うわけだが、抑も(そもそも)君の受持は時代的にはどの辺からどの辺までで、哲学者でいうと大体どういう顔触れが出て来るんだ。

B 僕が指定されたのは、第十二章の「哲学的自由主義」から第二十六章の「功利主義者」までだ。だから十七世紀から十九世紀にかけて、イギリスの経験論、フランス啓蒙哲学、浪曼主義、ドイツ観念論、ショーペンハウエルとニーチェを経て、ベンサム、ミル等のいわゆる Philosophical Radicals の登場までが扱われている。社会的背景としては、いうまでもなく新興市民階級が漸次成熟してヘゲモニーを握る時期に相当する。ラッセルはこれを大体自由主義思想の発生と発展という基本的な線の上に立って叙述している。

 まず、方法論的なことから伺うが、ラッセルはそういう思想と社会的地盤との関係をどの程度に重視しているんだろう。

 これはこの本の全般について論ずべきことだが、普通の哲学史の教科書としては、政治史や社会史的な叙述にかなりの頁が割かれているのが目立つね。とくに、この時期は、哲学思想が近代社会の形成と密接に結びついて生長しているので、誰が書いたって、その関連を度外視するわけには行かないせいもあるが…。例えば十七世紀の英国の Civil War の背景なしにはロックの思想はまるで理解出来ないし、ニ一チェや功利主義哲学にしても、産業革命の結果に対する対決として捉えてはじめて正当に位置づけられるわけだ。本書もそういう態度をとっている。

 しかし問題は、ただ漠然と政治的社会的経済的な背景を述べるというだけでなしに、そうした歴史的背景の動態的な構造にまでつき進み、それと哲学なり思想なりとの内面的牽連(けんれん)を探りあてることが、思想史や哲学史のいちばん困難な点なのたが、その点、ラッセルはどこまで掘り下げているんだ。

 さあ、そこまでの分析となると、すこぶる心細いね。まあ名誉革命の動力を 'a combination of aristocracy and big business'(p.603) と見ている程度だ。しかしそういう分析をラッセルに求めても無理だろう。

 じゃあ一体ラッセルはイデオロギーの発展の原動力をどう見ているのかしら。
 その問題を恰度、哲学的由由主義の章の冒頭で取扱っている。ラッセルによれば、実際の仕事よりは書物ばかり見ている人は、ともすれば思想の生活に対する影響を過大視しがちになる。ところがこういう見方の反動として、思想家をばその環境、とくに、物質的技術的原因によって専ら決定されたものとして、単なる環境の受動的繁栄と見る立場が起って来た。しかし自分は真理はこの両極の中間にあると思う。観念と実際生活との間には相互作用があって、そのどっちが原因で、どっちが結果かを尋ねるのは、めんどりと卵の問題と同様無益なことだ、――といっているよ(p.596-597)。
 なんだい、それじゃあちっとも答えにならないじやないか。真理は中間にありなんておよそ平凡だね。
 つまりラッセルはそんな問題を抽象的に議論するのは時間の浪費で、具体的な場合場合を歴史的にしらべて行けばいいというわけさ。大体、ラッセルという人は断片的な表現や、思考の過程では随分ラディカルな点があるが、全体として落着く結論は大抵常識的で「穏健中正」だよ。

 やっぱり英国紳士だね。さて、方法論はこの位にして、さきほど、自由主義の発展を中核としながらこの時期が叙述されているという話だったが、大づかみの思想的脈絡をどういう風につけているかを聞かせてもらいたい。

 それはね、まずもって、ロック以後の哲学の系列を二分して、両者の方法論、形而上学、倫理、政治の上でのコントラストを浮き立たせている。一つは、ロック――バークレー――ヒューム――フランス啓蒙哲学者(ルソーを除く)――ベンサム及びミル――マルクスという系列で、もう一つは、デカルト――ライプニッツ――カント――フィヒテ――へーゲルという流れだ。もっとも、最後のマルクスは両者の'折衷'で、どちら側にも片づけられないと言っている。大体、英国の経験論系統と大陸の理性(主観)論系統とに分つ通説を踏襲しているわけだが、普通カントは両系統を綜合したと考えられているのに、ラッセルは之を明白に否定し、カントはヒューム以前(pre-Hume)で、Hume の提出した問題に答えていないと言っているのが一寸特異な点だ。この両系統の相異としては、まず、方法論上では、ロック系統は出来るだけ広く事実を観察し、そこから上に向ってピラミッドを築いて行くのに対し、デカルト・ライプニッツ系統は最高原理としての頂点から演繹によって、ピラミッドが下に向って延びて行く。従って、前者はむしろ非体系的で piecemeal だが、それだけ地盤が安定しているのに比べて、後者は、恐ろしく整合的な割に、一個所が動くと忽ち全体系が崩れ落ちるという危険性がある。また倫理学では、ロック系統は大体に於て快楽や幸福を善と同視するに反して、理性派とくにカント系統はいわゆる 'noble' な倫理を説き、幸福を蔑視する。これと大体対応して、政治的見解の上でも、ロック系統は独断的決定をきらって、すべて問題を自由討議に委ね、社会改革も漸進的態度をとり、哲学と同様に試行錯誤を尊重するが、反経験派は、例外はあるが概して、'物事を一挙にうちくだいて、之を気の向くままにこね合せようとする。' だから、革命派であれ、権力派であれ、目的達成のためには暴力行使を躊躇しない。――ラッセルはあらましこんな風に対照させている。

 で、ラッセルはどっちかといえば、ロック系統に好感を持っているんだろうね。

 むろんそうだ。とくに、倫理の問題では、いわゆる'高尚な'反快楽説を痛烈にやっつけている。寸引用して見るとこうだ、
noble といわれる種類の倫理は、世界を改善する企図との結びつきという点では、むしろ、各人は須らく人々を幸福にすべしという俗っぽい倫理に比べて劣っている。これは驚くにはあたらない。幸福を軽蔑するということは、それが自分の幸福でなく、他人の幸福である場合には、いとも容易なことである。ふつう、幸福の代用物はなんらかの形でのヒロイズムだ。これは権力への衝動に無意識のはけ口を与え、いくらでも残忍行為の逃げ口上となる。…人間の幸福を増進するのに最も貢献した人々は、幸福に重きを置いた人々であって、なにかもっと、高尚なものをもち出して幸福を軽蔑した人々ではなかった'(p.645)。」
 まあこんな具合さ。

 やたらに道義をふりまわす手合に聞かせてやりたいね。ところで、上の系列では、ルソーとかニーチェとかは入ってないじやないか。

 それは浪漫主義の系統で、十九世紀以後の新運動として全く別に論じているのだ。それにはまず、自由主義の属性としての個人主義の発展を見なければならない。ラッセルは個人主義の発生をアレキサンダー以後、ギリシャに於ける政治的自由の喪失と共に現われた Cynics と Stoics のうちに見出している(p.598)。
 これはラッセルの根本的見地を知る上に看過してならないポイントだと思う。近代的自由主義の'決定的特徴'たる個人主義の系譜を、こうしたギリシャ末期の非政治的な個人主義に求めていること、これが、ラッセルのルソーやへーゲルの政治思想に対する評価を根本的に規定しているのだ。しかしその事はもっと後に述べるとして、ともかく、宗教改革によって、カトリック教会の客観的権威が疑われると共に、真理の決定が個人の問題となり、これ以後個人主義は十七、八世紀にわたって宗教、哲学、政治、経済の各領域に漸次浸潤して来た。こういう近世初期の個人主義は他面主知主義をともなっていた。ところが、十九世紀初めから、個人主義が知性の領域から更に感性の領域に延長される様になった。これがルソーにはじまる浪漫主義だというわけさ。カーライル、バイロン、ニーチェ、ショーペンハウエルをこの系列に入れている。このへんはべつに特異な見解でもなかろう。

 しかし個人主義が自由主義の'決定的特徴'とすれば、浪漫主義の系列と自由主義との関係はどうなるんだい。

 それはね、ラッセルはこう考えるのだ。ルソーとカント以後、自由主義が二つに分化した。一は hard-headed liberalism で、この糸統はベンサム――リカード――マルクスを経てスターリンに至っている、他は soft-headed liberalism でフィヒテ――バイロン――カーライル――ニーチェと発展してヒットラーに及んでいる。つまり理知的傾向と主情的傾向というところだろう。

 スターリンとヒットラーまで登場するのは驚いたね。だけどまさかこの御両人もリベラリズムだというんじやあるまいね。

 むろんそんな馬鹿なことは言ってない。ただ思想的系列の脈絡をたどっただけなのだろう。現に、別の個所で浪漫浪主義にはじまる感性的個人主義は漸次自由主義の反対物に転化したと明言しているからね(p.600)。
 しかしそれにしてもあまり突飛で、さすがのラッセルも気がさしたのか、この分類はあまりに schematic だが地図代りに掲げたまでだ、と弁解している(p.642)。

 いずれにしてもルソーが、反主知主義への転回点に立たせられているわけだね。では、その、'自由主義の反対物への転化'はどこからはじまるというのだい。

 それもルソーなんだよ、ラッセルはルソーの『民約論』(『社会契約論』)の内容を紹介して、結局それは'デモクラシーヘの lip service をしているが、むしろ全体主義国家の justification に傾いている'(p.694)と言い切っている。そうしてロック的民主主義とルソー的民主主義とを区別して、'ローズヴェルト(=ルーズベルト)とチャーチルはロックの子孫であり、ヒットラーはルソーの子孫である'(p.695)というのだ。

 今度はスターリンは出て来ないのか。

 出て来ないが、ラッセルの考え方からすれば当然ルソーの子孫としてヒットラーと並ぶところだろう。戦争中の同盟国だから遠慮したのかも知れない。

 しかし民主主義の聖典といわれる「民約論」を lip service で片付けたのはいくら何でも暴論じやないかね

 僕もラッセルの見方は間違っていると思うが、そういう議論は昔からかなりあるんだ。例えば、第一次大戦のときにもドイツの軍国主義と国家至上主義の思想的淵源を尋ねた英仏の学者は、トライチュケからへーゲルに遡り、へ一ゲルからルソーに行きついて、ラッセルと同じ様な結論をしている。ホッブハウスやラスキ、デュギー(Duguit)などみなそうだ。結局この問題は民主主義というものの把握の仕方に帰する。そうして、それを更に突込んで行くと、近代国家と自由の関係というたいへんな問題にぶつかってしまう。

 どうもよく分らないから、その点もう少し説明してほしい。

 僕もそう簡単に説明出来る自信はないが、さき程、ラッセルが自由主義の思想系譜をキニック(キニク派)やストア(派)に求めたと言ったね。あれがここに関係があるのだ。こんどは君に伺うが、君はディオゲネスの様に樽の中で悠々自適している様な'自由'と、近代的な'自由'とどこか違うところがある様に思わないかね。
 それあ違うだろう。ああいう我不関焉式の'自由'なら東洋の昔からあるからね。'帝王我に於て何かあらんや'と詠った支那の詩人はその意味では百パーセントの自由主義者だという事になる。

 そこだよ問題は。近代的な自由意識というものはああした無規定的な単なる遠心的・非社会的自由ではなくて、本質的に政治的自由なのだ。それは内にひきこもる消極的精神ではなく、逆に外に働きかける能動的な精神であり、政治的秩序から逃避する精神ではなくて、逆に政治的秩序に絶えず立ち向おうとする精神にほかならない。
 いわゆる'国家からの自由'として表象される初期の自由主義も、決して竹林の七賢人式の消極的自由を求めたのではなく、既存の国家秩序との闘争に於て自由権の獲得を志向していたのだ。(松下注:政治学者などは、政治的自由は積極的自由であり、七賢人が求めた自由は消極的自由である、といった説明をよくする。しかし、七賢人や樽のなかの哲学者の自由は、消極的なものばかりではないのではないか。むしろ、政治的自由は、人間らしく生きていくために必要な最低限の条件(いわば消極的自由)であり、政治的な自由のある社会においても、さらなる積極的自由(現代版の七賢人)というものも考える必要があるのではないだろうか。/ラッセル著『自由とは何か』を参照)

 つまり君は、近代的自由が、国家秩序と内面的なつながりがあることを言いたいのだろう。

 その通りだ。近代国家は御承知の様に、中世の位階的秩序の否定体であり、教会とかギルドとか、荘園とかのいわゆる仲介的勢力(pouvoirs intermediaires)を一方、唯一最高の国家主権、他方、自由平等な個人という両極に解消する過程として現われる。だから、この両極がいかに関係し合うかということが、近代政治思想の一貫した課題になっているわけだ。

 するとルソーの社会契約説もその課題への解答というわけだね。

 ルソーだってロックだってホッブスだってへーゲルだって、皆その問題と取り組んだんだ。国家主権と主体的個人の両極が隔っている限り、自由権の範囲に応じて主権が制限されるわけだが、個人が'公民'として主権に一体化した極限状況を予想すると、そこでは個人的自由と主権の完全性とが全く一致する。これが国民主権に基づく民主主義国家の理念型だ。ルソーの有名な普遍意志(volonte generale)の理論は、こういう近代国家の発展の極限状況を図式化したものと見るのが正しい。国民が主権を完全に掌握している限り、国家主権の万能は理論的には、なんら国民的自由の制限にならない筈だ(松下注:「国民が主権を完全に掌握」などというのは実際には不可能なことである。「国家主権の万能」で何を示しているのか不明。他国との戦争、いわゆる「交戦権」も国家主権の1つと考えられてきたが、。その行使は、「国民的自由の制限」になるのは目に見えている。)。もし之をラッセルの様に全体主義と呼ぶならば、フランス革命憲法、とくにジャコバン憲法はまさしく全体主義の典型といわねばなるまい。だからラッセルやデュギーや多元的国家論者たちのルソー的理論への反情は結局、民主主義のもたらす多数の'圧制'に対する個人主義者の本能的恐怖に根ざしていると言える。へーゲルに対する反対には、又ルソーとちがった動機――アンチ・プロシアという様な――も加わって来るが……。

 しかしラッセルにして見れば、ロックの系列をどこまでも正統的民主主義としたいんだろう。

 それはそうさ。だがロックの checks and balances の理論は自由主義にこそ妥当するが、近代の民主主義の現実には妥当しない筈だ。だからラッセルも立法部と執行部の関係の歴史的変遷を述べて、執行部の優越した最近の英国政治の段階を以て、ロックの原則に背反したものと言っている(p.639)。しかしこの論法を以てすれば'民選のカイゼル'といわれるローズヴェルト(ルーズベルト)大統領をロック系統に入れることもかなり疑問になって来る筈だ。結局最近の mass democracy への傾向に対する不信が根底にあるんだね。これがラッセル得意の自由と組織の問題につながって行くわけだ。

 近代的自由の意味は一応分ったが、ラッセルだって、近代的自由を竹林の七賢人的自由と一しょくたにしているわけでもあるまい。

 むろんそこはちゃんと弁別している筈なんだが、どうもラッセルに限らず、英米系統の学者は近代的自由が民族国家そのものの構成原理であるという点の把握が足らない様に思えるね。(松下注:現在においても、'近代的'自由を国民の大部分が重要と考えていない「民族国家」は少なからず存在している。また、過去の歴史において「近代的自由が民族国家そのものの構成原理」であったとしても、現代において、近代的自由ということで国家主権(の重要性)を強調することは、民族国家そのものの存立さえもあやうくする危険がある。)

 おかしいな。近代的自由の本家本元なのに。

 いや、本家本元だから、かえってその点の理論的反省がないんじやないか。英国の自由主義だってむろん国民的一体性の背景の上に主張されているんだが、その一体性が早くから確保され、海上権の優越によって強固に保証されていたために、その前提が強く意識にのぼらず、専ら国家からの自由という世界市民的遠心的傾向を表面に出して来たんだと思う。その点になるとフランスやドイツの様に、外的圧迫からの国民的独立に苦しんだところでは、近代的自由の持っている構成的積極的契機は一層鋭く自覚せられざるをえない。こうして、'自由'の立ち遅れているところにかえって'自由'の理論的掘り下げが行われる事になるのだ。例えばナショナリズムという観念にしたって、ドイツやフランスではナショナリズムがリベラリズムの双生児であることは国民的常識であり、フランス革命や解放戦争の歴史的事実によって、明々白々に証示せられている。ところが、英米ではナショナリズムという言葉にははじめっから何か暗く重苦しい連想がつきまとっている様だ。ラッセルが浪漫主義と共に発生したナショナリズムをのべる際など徹底したもので、それのもつ進歩的意義にはほとんど全く触れず、自由の名に於て戦争の栄光を讃美し、情熱を解放することによって英雄の独裁を準備するという様な悪い面ばかりとりあげている。ナショナリズムに対する反感を吐露することは随意だが、歴史的叙述としては偏面的の譏(そしり)を免れる事は出来ない。

 その調子だとへーゲルなどには大分手厳しいだろうね。
 御推察の通りだ。へーゲルだけでなく、ドイツ観念論に対する評価は実に低いね。例えば最も表面的な事から拳げて行っても、この大著に於て、カントに充てられた長さが十八頁足らず。フィヒテは何と半頁。へーゲルでさえ十七頁にすぎない。是をロックだけに四十頁を割いているのと比較すると、ラッセルの好悪があまりハッキ出ていて却って痛快な感じすらするよ。ラッセルの主な悪口をひろって行くと、カントについては例えば、'ヒュームはその因果律の批判によって自分を独断の眠りから覚ましてくれた――と少くもカント自身そう言っている。しかし覚めたのはほんの一時的であって、彼は間もなく一種の睡眠剤をこしらえて、その力で再び眠ってしまった'(p.704) フィヒテでは、'フィヒテは物自体を放棄して、主観主義を殆んど一種の気狂いに近いところまで押し進めた'(p.718)。へーゲルとなると、'よしんばへーゲルの学説がほとんど全部間違っている――私自身はそう思うのだが――にせよ、彼は依然として重要である'(p.730)、まあこんな具合だ。

 なるほど相当の毒舌だね。戦争の影響もあるかな。

 それはどうか知らないが、とにかくフィヒテは全文僅か十数行のうちに、その全哲学を 'nationalistic totaitarianisum' として片付けられているし、へーゲルの国家哲学も'もし之が承認されれば凡そ想像しうる限りのあらゆる対内的暴政とあらゆる対外的侵略をジャスティファイすることになる'(p.742)ときめつけられている。

 それじや、ドイツ観念論は本質的には自由の哲学的基礎づけだという君らの考えと丸っきり正反対じやないか。之は一言なかる可からずというところだね。

 いや、僕だってドイツ観念論を盲信しているわけでもなし、第一盲信するほど勉強もしていないんだから、格別柳眉を逆立てる義理もないんだが、ラッセルの批判はどう考えても曲解だよ。極端にいうと、一体本気で原著を精読したかどうかを疑うね(松下注:ラッセルは本書を書くにあたって、できるだけ原著の全集をそろえるよう努力している。また、ラッセルは独語、仏語、イタリア語を読み書き・話すことができ、ラテン語、ギリシア語も読むことができた。外国語の能力は、いかなる思想家よりもすぐれていたと思われる。)

 例えばどんな点だ。

 カントの認識論やへーゲルの論理学の叙述のし方が果して正確かどうかという様なことは僕はあまり論ずる資格はないが、例えばへーゲルの弁証法の説明なんか、図式的じやないかな。矛盾と運動の契機がすこしも前面に押し出されずに、もっぱら全体と部分との関係、いわゆる具体的普遍という考え方――から説かれている点など、問題だと思う。
 しかし僕がここでとくに取上げたいのは、ドイツ観念論の国家観だ。ラッセルにどの程度原著を読んだかと言いたいのはここだよ。むろんドイツ観念論をいわゆる'フランス革命のドイツ的理論'(マルクス)と理解する者だって、ラッセルが述べた様な国家至上主義への堕落のモメントがそこにないとは決していわない。しかし問題はいづれが本質的で、いづれが付属的かだ。そうして、そのことは表面的な片言隻句で判定さるべきではなく、全体系の必然的な意味内容からして慎重に考慮されねばならぬ。然るにだね、「ヨーロッパ諸侯に対する思想の自由の奪回要求」('Zuruckforderung der Denkfreiheit von den Fursten Europas')や「フランス革命に関する公衆の判断を是正す」('Beitrage zur Berichitigung der Urteile des Publikums uber die Franzosische Revolution')の著者としてのフィヒテ、無神論者として大学を追われたフィヒテ、個人の原本権(Urrecht)の上に立って権威信仰(Autoritatsglaube)を拒否したフィヒテ――に対するいささかの顧慮なく、彼の「知識学」一行の解明もなく、この哲学者に'国粋的全体主義'の烙印を押す事は果して許さるるだろうか。それはフィヒテ哲学からどうにかして国粋社会主義を導き出さうとして遂に成功しなかったナチ・ドイツの誤謬をいとも簡単に踏襲しているにすぎなではないか。

 フィヒテはともかくとして、へーゲル哲学がナチの基礎づけになったとかいう話はよく聞くがね。

 そういう事は方々で言われたし、又実際ヘーゲリアンでそうした試みをした者もあったが、結局やはり失敗し、むしろへーゲルはナチ正統派から異端視されていたのだ。へ一ゲル哲学を以て権力国家万能主義に通ずるという解釈は、上に述べた様に、前大戦の時にもかなり台頭したが、やはり結局誤解か曲解に帰する。むろん何度もいう様に、そういう誤解を発生させるモメントは多分にあったのだが、へーゲル国家哲学の本質的な課題は、'主体性の原理と実体的統一との綜合'といわれる様に、まさに、上に述べた近代国家に於ける自由の基礎づけにあり、その意味で、ルソーの発展なのだ。ただその行きついた所はプロシア的な立憲君主制の讃美ではあったが、へーゲルが最も反動化した時代に於ても、'主体性の原理'すなわち、個人の主体的自由は決して見失われていない。へーゲルと同時代の、'国家学の復興'の著者、ハラーとをはっきり分つ一線がここにあるのだ。
 ラッセルは'彼(へーゲル)にとっては法律なくして自由はない、そこまでは我々も同意出来るが、彼はこの事を転換して、法律がありさえすれば、自由があると論ずる傾きがある。かくして彼にとって自由とは法に従う権利にすぎなくなる'(p.737)(右イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953.)と言っているが、へーゲルは未だ嘗てどこにも法律がありさえすれば自由があるなどと述べたことはない。でなければ彼が'歴史哲学'のなかで、東洋的世界では、法と道徳が専制君主のうちに一体化されている結果、主体的自由の存在する余地がないという事を口をすっぱくして説く筈はないのだ。一七九五年シェリング宛の書簡で、'私は人間性がそれ自体としてかくも高貴なものとして考えられていることは、何よりもよい時代の徴候だと思う、これこそ、抑圧者達と地上の神々の頭から後光の蔭が消え去ることの証拠である'と書き、'ドイツ憲法論'で、国家が'ただ一つのバネからすべての他の歯車への運動が伝達される機械'のごときものであってはならぬと説き、'哲学予備学'で、'法は私が他人を一つの自由な本質として遇することに於て成立つ。人間が人格としてではなく、事物として取扱われることを許す諸法規・・・は理性或は絶対的法に反するものである'事を唱え、晩年の'法哲学'に於ても、フランス革命をば壮大な日の出として称えることを忘れなかったへーゲルの哲学が一体何故'凡そ想像しうる限りのあらゆる対内的暴政'を合理化する哲学だということになるのだろうか。

 そういわれれば、成程、ラッセルの断定は sweeping (おおざっぱ)だね。まあ、あのへーゲルの難解な文章と用語法は凡そラッセルの肌に合わないので、結局'気質の対立'だろうね。

 大分ラッセルをやっつけたが、むろん、日本の様に訳も分らず、ドイツ哲学の'深遠'さを有難がる哲学的善男善女の多い国では、ラッセルの批判などは解毒剤として大いに意味があると思う。弁証法の説明の例など、図式的ではあるが他面、俗流弁証法のおまじない的な神秘性を小気味よくぶちこわす役割は果すだろう。

 さて、ドイツ観念論はその位にして、あと、まだ残った哲学者もあるが、もうとくに紙数は尽きたから、最後にラッセルの叙述のスタイルについてなにか感想があったら聞かせてくれ給え。

 そうだね、とにかく文章が実に平易で明快だね。哲学史をこれだけくだいて書くのは、容易ならぬ才能だよ。そうして時折、人の意表に出る様な警句をズバリと入れているのが面白い。例えば、'先進国では実践が理論を inspire し、後進国では逆に理論が実践を inspire する'(p.601)とか、'ある程度まで文明は社会的不正義によって促進される'(p.637)とかいう類だ。それから一つカントの項で茶目ッ気を出している。Encyclopaedia Britannica のなかに、'彼(カントのこと)は生涯結婚しなかったので、青年時代の精励の習慣を老年までもち続けた'とあるのを引用して、'一体この項の筆者は独り者なのかしら、それとも結婚した男なのかどっちだろう'と付け加えている。

 そいつは傑作だね。しかしこういう天衣無縫の繁致は一寸真似しようとしても出来ないね。下手に模倣すると鼻もちならぬものが出来上るから。結局これだけの大著をものしながら、いつも筆にゆとりを持っている証拠だ。

 なんとかかんとかケチをつけたが、やっぱ相当のものだよ。こういうあく抜けした、へんにアカデミックでなくしかも調子高い哲学史が日本で出る様になるのは何時だろう。(『思想の科学』第1巻第3号、昭和21年12月、先駆社)