大竹勝「ペンブルック・ロッジ(Pembroke Lodge)を訪ねて」
* 出典:『ラッセル;チャーチル』(主婦の友社、1971年。ノーベル賞文学全集・第22巻「月報」)pp.5-6.* 大竹勝は当時、東京経済大学教授
パリからロンドンに入ったのは数回になるが、ニューヨークから来たのは、今度が初めてである。そのせいか、ロンドンが小さく、いささかうすぎたなく見えた。一つには、各国から集まったヒッピシュな旅行者たちのためであるかもしれない。ヒースローの空港から旧市内に入って行くと、五反田から霞ヶ関に出るフリーウェイをドライヴしているような錯覚にとらわれたり、昭和通りをぬけているのではないかと、ふと思ったりする。その色彩の淡泊さと規模の小ささとがぴったり合っているからであろう。
ユーストンのケネディ・ホテルに入る。ユーストンの停車場が7年前に比べて近代化したのにくらべて、周囲の建物や街路は全然変わっていない。しかし、うわさに聞いたニューヨークの夜の怖さ- こんどの旅行ではハーヴァド大学クラブにこもって、グレニッチ・ヴィレジには行かなかった- はここには無さそうである。ロンドンの巡査が子供に親しまれているのは今も変わりがないが、治安を維持するための厳しさには定評がある。それでも、旅行者の多い昨今の「こそ泥」には、お手あげだそうである。
初秋の夜、ピカデリーの裏にある「東京」で、デュッセルドルフから駆けつけたのまで加えて、在京の教え子たち数名に取りまかれて、日本のビールを飲みながら、すきやきを楽しみ、だんらんの一時を持てるのは、けだし学者冥加(みょうが)につきると言えよう。
それにしても、ニューヨークをたった日の午後に見た『おお、カルカッタ』から、その次の夜のロンドンのミランダ・クラブのショー、その次の夜に観劇したポール・レイモンドの『パジャマ・トップス』と3日つづけざまに見せられた全裸の美女たちの妙技に対して、これからの日本の興業界にはどんな対策があるのだろうか。
しかしそんなことばかりを書くのが目的ではない、ダブリンのペン大会に出席する前にロンドンに立ち寄ったのは、リッチモンド・パーク(Richmond Park)にあるペンブルック・ロッジ(Pembroke Lodge)を訪ねるためであった。この館はバートランド・ラッセルが祖母に訓育されたゆかりの地である。自動車を飛ばしても、一周するのに30分はかかるという、鹿や羊のいる、この気の遠くなりそうな公園は、かつての大英帝国の威風を伝えるものであろうが、祖父がヴィクトリア女王に贈られたペンブルック・ロッジはどこにあるのであろうか。一人で歩いて、探していたならば、べそをかきそうなことになったであろう。
地図を持った自転車の少年に教えられて、入口からしぱらくドライブすれば、右手に広い駐車場のある、小柄な白い館であった。入口には、レストランのメニューが掲示してあって、今はアイスクリーム・コーンを持って歩き回っているアメリカやカナダの旅行者たちの憩の場と化していた。
裏庭のさきは急な谷になっていて巨木の森が続いているが、前庭の生け垣は、ラッセルの自伝の第一巻の水彩画の挿絵にあるとおりの、ヴィクトリア風のものであり、花壇は赤いバラが咲いていた。
熱心に写真を撮っていると旅行者たちはもの珍しそうに眺めていたが、ここで偉大な近代の思想家が育ち、冬の日にも冷水浴しか許されなかったという厳しさを偲んでいるものが何人いたであろうか、ラッセルに関する掲示はどこにもなかった。
ロンドンを去る前夜、トラファルガー・スクエアを歩きながら教え子の関端君(ジャパン・エキスプレス支店長)が巨大なライオンの坐像を指して「あれが三越のライオンの親ですね」と言った。髪をふりみだしたラッセルの平和運動の姿を思い浮かべた。そして、リッチモンドの公園を駆け抜けて行く少年のラッセルの姿を……(ダブリン南郊ダン・レアリーにて記す)