小田実「ヨダレと微笑-バートランド・ラッセル」
* 出典:『文藝春秋』1967年5月号,p.124-126.* 小田実(1932年6月2日~2007.07.30=本日死亡):作家、平和運動家、ベ平連創設者
* ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)1967年
* 市井三郎「ラッセルと日本」(小田実・編集発行『週刊アンポ』n.8:1970.02.23発行
* 小田実「人間みなチョボチョボや」
バートランド・ラッセル氏に会いに行こうとする人は、イギリス国鉄の不便をウンザリするほど味わわなくてはならない。ラッセル氏の住んでいるのはウェールズの片田舎で、そこは日本で言うなら東北地方(松下注:1967年当時の状況)に旅して行くようなもので、イギリス国鉄の非近代性も極限のすがたであらわれて来る。
夕方七時ごろロンドンを発って、途中二度乗り換えて、やっとのことで、そのむやみと長い駅名の駅に到着する。
そこからラッセル家もしくはラッセル財団の半ばおかかえみたいなタクシーともハイヤーとも白タクともつかぬ車でとばす。運チャンは初老の男でラッセル氏の心酔者で、途中、昔の地主の邸宅のまえを通りかかると、イギリスにも昔はこんなのがあった、日本はどうか、今でもこんなヤツがいばっているのか、と訊ねる。彼は英語とウェールズ語の双方を話すよし。
ラッセル氏の家は丘の上にあった。下は視界がずっと開けて、内海になった海が見える。夏には避暑客でかなりにぎわうところで、近くの村にはちょっとしゃれたホテルもある。しかし、ラッセル氏の家は丘の上で俗塵をはなれた感じ。こうしたところにおちついて、世界の平和の問題を考えるのもわるくないな思った。
それにしてもさして大きくもない家で、小金をえいえいとためこんだサラリーマン重役が軽井沢は高いから何とか高原で我慢して、そこの分譲地を格安に買い込んで、なんとか家をつくり上げたというような家であり,そのまわりであった。避暑地と言っても、日本では名前もきいたこともない土地だった。
ラッセル氏は扉口(右写真はプラスペンリン山荘の玄関近く。(故)牧野力教授のアルバム(1972年撮影)から)まで私をむかえに出て来た。いや、車がついたときには、彼はもうそこへまるで散歩にでも出かけるようにひょっこり出て来て、運チャンのほうが、あわてて、日本語で言うなら、先生もう出て来てるよ、とでもいうようなことを叫んだ。
白髪の小柄な老人で、私と握手すると、先に立って客間へ私を招じ入れた。
いつもは秘書もいっしょにいるらしいが、その日は、夫人と二人きりだった。上品な白髪の老婦人が出て来て、彼女もいっしょに客間に坐ったと思ったら、それがもちろん夫人だった。
私はベトナム戦争反対運動のことでラッセル氏を訪れたのだった。彼の哲学のことでインタビューに行ったわけではない。だからすぐ私たちは本題の反対運動の話に入り、入るとすぐ、彼はまず「日本人の努力に感謝する」と言って、机の上におかれた紙の堆積を指した。正確には記憶していないが、たしかそれは神戸の人が集めたベトナム戦争反対の署名で、全部で五千人分ほどの署名がそこにあった。
はるばるとウェールズまで来て、ラッセル氏のもとにおかれたその日本字の署名を見て、私はふしぎな感慨にうたれた。署名もまた、私と同様に日本からウェールズまではるばると旅して来たにちがいない。署名をまえにして坐るラッセル氏はどこかさびしげで、ときどきヨダレをたらして、まるで無力でたよりなげな老人に見えた。私には彼に話すべき用事があった。運動の国際的な連帯の可能性について、その一つの企てとしてこれから開こうとする日本市民会議のことについて(この計画は私がラッセル氏と会って半年後、去年八月に実現した)--私は早口にまくしたてた。
ヨーロッパの運動、アメリカの運動からの伝言もあった。いや、私にはイギリスの運動からの声も伝えねばならなかった。
ふしぎなことに、どこにでもよくあることだが平和運動のセクショナリズムはイギリスでもことのほか強くて、ラッセル氏はとりまきによってなんとなく孤立させられてしまった感じで、イギリスの運動は、私がラッセル氏に会いに行くのだと告げたら、これこれのことを伝えてくれと、外国人の私にたのんだ。会おうと思っても会わせてくれないのだ、と息まく人もいた。
三分ほどたって、ラッセル氏は夫人にむかって、おまえはこの若者の言うことがきこえるか、とおっしゃる。夫人もきこえぬと言う。仕方がない、さつきからかなり大声で話しているつもりだったのにさらに大声をはり上げてやりなおし。
今度は、きこえますか、というと、聞こえる、とうなずく。おちくぼんだ眼が私をみつめている。話すことが多くて、私一人がまくしたてる。
最後近くになって、「日本へ来てくれませんか、その会議のとき」と私が強く言うと、ラッセル氏(注:当時95歳)は、「行ってもいいが・・・というようなことを答える。あわてて、夫人が「体が・・・」とおっしゃる。
私がさらに「かつてあなたが見た日本と現在の日本とはちがう。あなたは現在の日本を見て、日本観、アジア観を変える必要があると思う」とたたみかけると、「まあ、そのことは考えてみよう」ということになった。(それは実現しなかった〉
話は四十分ほどかかった。今度は彼が話した。主としてジョンソン(大統領)らを裁く人民の「戦争裁判」(注:ラッセル法廷)について協力して欲しい、と彼は言い、私は、協力しましょう、と答えた。「一つ、質問を許していただきたい」と私は言った。ラッセル氏は「何かね」と私を見る。「あなたの努力にかかわらず世界に平和は来ず、戦争はつづいている。あなたはご自分のおやりになっていることを無意味だとお思いになりませんか。」
彼は皮肉に微笑した。
「ほかに何をやったらよかったというのかね。この私に。」
それはさっきのヨダレをたらしていた無力な老人のことばではなかった。もちろん、そうした人のことばではなかった。
私は奇妙に感動した。