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梅原猛「ペシミズムを秘めた天才-湯川秀樹博士を悼む」

* 出典:『朝日新聞?』1981年9月9日付夕刊「学芸欄」第5面
* 梅原猛(1925~ 2019):梅原氏は1981年当時、京都市立芸術大学教授
* 湯川秀樹博士訃報 * 湯川秀樹「戦争のない一つの世界-世界連邦世界大会を迎えて(1963年8月)」


平和運動にも悲しみ/物理学のロマンチック時代、暴風下、中間子理論を生む

 東京へ出張中、湯川博士の訃報を聞いた。湯川先生とは、もう一年ほどおあいをしていないが、最近、ご病状も快方に向かったとのことで、喜んでいたのに、突然の訃報。帰りの新幹線の中で、先生と旅行したことなどを思い出して、涙が出て仕方がなかった。
 湯川先生は、言葉のもっともきびしい意味において、真の天才であったと思う。今の日本には天才という人間は甚だしく乏しいし、また、学界、芸術界すべて天才を育成しうる環境ではない。とすれば、われわれは、一世紀に一人、あるいは何世紀に一人という天才を失ったことになる。

 もう数十年前であろうか、湯川先生とじっくり話をする機会をもった。話が先生の少年時代のことに及んで、先生は次のようなことをいわれた。
私は少年時代から、心に暗いものをもっていたのです。何をしても面白くなかったし、自分は全くの無能力な人間であるという劣等感に悩まされたこともあります。そして、そのようなペシミズムは、ずっと私を離れなかった。私が中間子の発見をしたのも、何か大きな仕事をしないと、この心の奥底にあるペシミズムとバランスがとれないからです。」

 この言葉を語られた時の先生の話し方や表情を、今でもありありと思い起こすのは、この言葉がよほど私の心におどろきを与えたからであろう。私はそれまで先生を、あまりにも幸福な学者であると思いこんでいた。京大教授・小川琢治氏を父とし、京都府立一中、三高、京大という秀才コースを進み、二十七歳にして中間子理論を発見し、三十六歳にして文化勲章をさずけられ、四十二歳にして日本人として最初のノーベル賞受賞者となるという栄誉に輝いた湯川先生は、天才にちがいないが、この上もない幸福な学者であると思っていた。その湯川先生の心に、このような暗い心が隠れているとは。

 湯川先生のこのようなペシミズムは何が原因なのかよく分からないが、一つには先生のご兄弟があまりにも秀才ぞろいだったことによるのかもしれない。幼にして英才をあらわした兄上たちに比べて、どちらかといえば目立たなかった湯川先生は、父上は、一人ぐらいは商人にするかと、京都商業へ入学させようとされたらしい。しかし、担任の先生が、湯川先生のはなはだ独創的な才能に気づかれて、父・琢治先生の家をおとずれ、一中に進ませることを進言して、その結果、一中に行かれたという。商人としての先生はちょっと考えられないが、考えようによっては、この担任の先生がノーベル賞学者湯川秀樹をつくったともいえる。昔は、えらい先生がいたものである。


 もう一つ、先生から聞いた話で忘れられないのは、中間子理論を発見した時のことである。ちょうど、奥さんがお産のために里へ帰られた時のことである。先生は一人で家におられたが、一晩中暴風が吹き荒れて、この暴風がやんだ時であった。突如として先生の頭に新しい着想がひらめいた。その着想を急いで書き留め、それを数式にした。その時の、先生の澄んだはりつめた緊張感が、聞いている私にもはっきりと伝わってきたが、何かデカルトの方法叙説の話をデカルト自らに聞くよう感じがした。
 先生はいつもいわれた。
「学問というものは、偏見を増すことである。一つの知識がふえれば、それだけ偏見がふえる。しかし、新しい発見をするには、その偏見から自由にならねばならない。だから、創造的天才というものは、一方で知識の量をふやしながら、一方で偏見から自由になるという、相矛盾するごとが出来た人なのです。」
 あるいは、この時、暴風が、学問の名における一切の偏見から先生を解き放ち、先生の頭に中間子理論という、全く独創的な思想をひらめかせたのかもしれない。
 先生の物理学上の仕事について、もとより私は、正確に判定することは出来ない。あるとき、私の同世代のすぐれた物理学者にあい、先生の理論が物理学の発展の上で甚だ大きな役割を果たし、同じノーベル賞といっても、先生のは超一級のノーベル賞で、とてもわれわれの時代には思いもよれない、と語ったのを聞いた。先生にその話をしたら、先生は
「いや、あのころは、いわば物理学のロマンチックな時代です。学問は、ロマンチックな時代とアカデミックな時代があり、今はアカデミックな時代です。今、君のやっている日本学は、ちょうどロマンチックな時代です。大いにがんばりなさい。」
といって、私をはけまして下さった。

 先生は、平和運動にご熱心であり、世界連邦世界協会会長をしておられた。それは先生の物理学者としての良心のあらわれであるが、私は、先生の心には深いペシミズムがあり、今の世界の人間は傲慢(ごうまん)になっているので、世界は滅びるより仕方がないが、この滅びを出来るだけ遅らせようという念願があったのではないか、と思う。先生の平和運動には、何か悲しみのようなものがあったと私は思う。
 六年前、ご病気になられて以来、先生は固く門をとざされて、容易に人を近づかせられず、もっぱら静養につとめられた。私たちは、もっと人前に出られた方が先生のご健康にもよいのではないかと、再三ご忠告申し上げたが、先生はいつも笑っていられるだけであった。私たちは、このもっとも大きな栄光につつまれている天才の晩年の孤独をどうしようもなかった。
 おそらく、先生は晩年、再び少年の日のペシミズムにもどってゆかれたのであろう。しかし、後の人間に残された先生の念願があるとすれば、それは二つ --一つは、創造的な人間が日本に出現してほしいこと、もう一つは、世界の平和が出来るだけ長く保たれてほしいこと-- この二つの先生の念願が空しくなる時が来るのを予感しながら、先生は旅立たれたのかもしれない。
 先生の死という悲しい事実に関して、われわれは自らの心に鞭を打たねばならないのではないかと思う。