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谷川徹三「人間を見つめた科学者、湯川秀樹さんを悼む - 月より自分の世界を、平和な生活優先を説く」

* 出典:『読売新聞』1981年9月9日付夕刊
* 谷川徹三:哲学者、美学者、第2代日本バートランド・ラッセル協会会長
* 左上写真:大隈講堂控室にて松下撮影/学生団体の早稲田大学世界連邦研究会で講演をお願いした時)

 湯川さんと私との対談の書『宇宙と心の世界』が、「読売選書」として出たのは、昭和四十四年(1969)のことであるが、その中で湯川さんの言っている言葉に次のような一節がある。
「・・・。人間というものは・・・自然認識においては、非常に遠いところ、非常に大きなスケールのものまで行ける。また小さいほうならば、素粒子のような非常に小さいところまで行ける。つまりそういう自然認識が非常に進んできたということが、人間の達成としてはまず誇るべきことだと思うんです。
 実際に月まで行くということは、たいへん大きなことに違いないけれども、人間の人間たるゆえんを考えると、月まで行けるということよりも、自分の生きている世界が何であるかを知るということのほうが、人間としてははるかに貴重な能力であり、また重要な達成であると、私は思うわけです。」
 それに対して私(谷川)が、
「地上の生活というものは、これはあらがいようのない大きな意味をもっているんで、人間がつぎつぎに得てきた知識によって、その地上の生活はよくなってきましたけれど、そこに問題がないかというと、そういうわけにはいかない。知識の増大が何でもかでも地上の生活をよくしているとはいえないし、その増大が人間を悪くしたり不幸にしているという面もある。」
 と受けているのに賛成して、さらに(湯川博士は)
「もしも宇宙時代というような'合言葉'に・・・幻惑されて、なにも人間は地球に拘束されているわけではない、もっと広い世界で生きる場が与えられたんだというふうに錯覚をおこしますとですね、これは明らかに錯覚ですがね。」
 と言い、さらに
「…それによって、地球上の人類がいかにすれば幸福に平和に暮らしていけるかという問題が、ちょっとでも軽んじられるようになったら、大変に困ったことだと思いますね。」
 とつけ加えている。


 湯川さんがパグウォッシュ会議に出席したり、それにならって日本でも「科学者京都会議」の主唱者の一人となったり、世界連邦を目指すWAWF(世界連邦主義者世界協会)の会長を務め、現にその命終まで名誉会長であったのは、そういう信念に基づいてものであった。

 私が湯川さんを知ったのは、昭和二十四年、湯川さんがノーベル物理学賞を受賞して間もない年、名古屋工業大学開学五十周年記念講演会に湯川さんと共に招かれて話をし、会後、学長の招宴に臨んだあと、二人でラジオ対談をした時である。テレビはまだなかったころである。
 その後、昭和三十七年、湯川、朝永、坂田(昌一)という日本における原子物理学を代表する三博士の呼びかけによって成った「科学者京都会議」の第一回に、三日間同席して、私自身も報告者の一人になったり、「世界連邦主義者世界協会」の大会が日本で行われたた際には、当時朝日新聞の論説主幹であった笠信太郎(松下注:初代ラッセル協会会長)と三人で「東京宣言」をまとめたり、湯川さん夫妻と私共夫妻とが、講演と遊覧とを兼ねて、高知県内を三、四日一諸に旅したりして親交を深め、昭和四十三年、湯川博士還暦記念文集『つきあい』が出された際には、私も一文を徴された。
 その一文では私は、湯川さんが傑出した科学者であると共に、風雅の世界に遊ぶ人でもあり、直観とイメージの人でもあることを言い、梅棹忠夫氏との対談の書『人間にとって科学とはなにか』における湯川さんの発言から、その幾つかを引用している。
「私の経験でも、夜眠られなくて、ものを考えてます。このへんで考えるのをやめようと思っても、なんやかや出てくるんです、頭の中に。非常に困る。・・・。考えるのをやめて、早う寝てしまいたいけれども、あとからあとからいくらでも出てくる。それをフロイド的に見たら、やはり無意識の段階で選択作用があるだろうけれども、私自身の意識的経験としては・・・かってに出てくる。・・・。一方で寝ようと思うけれども寝られんという、そういう緊張関係がある。
 まさにそれはイメージ・シンボルです。本質的に、論理であるよりイメージなのであって、それを種にして論理を組み立てようとするから、寝られなくなる……」

「ほんとうに納得がゆくというのは、つじつまが合うているのとは違います。全体像が一瞬にして明らかになる、細部も含めて--。これは直観的といってもいいんですが、人にはいわないで、'自分が納得するとき'には、それをしているわけですね。その段階を踏まずに先へ進むと危なっかしく思う。自分で満足できん。・・・」

「・・・専門の物理学でも、ある法則なり理論体系なりをよろしいと納得するときは、そこにはなにか'美しいもの'感じてるわけです。口ではいえんけれども、そういう感じをともなっている。そこで科学では好きもきらいもないとはいうけれども、実は心の奥の方では好ききらいにつながっている。ある種の美意識や好悪感がある。そもそも、そういうものを強くもっている人間が、理論物理学とうような学問をやるわけですね。