野村博「仏教福祉と社会福祉-「自由」を視座にして(私見)
* 『出典:仏教福祉』n.5(1978.11),pp.262-265.* 野村博氏(ノムラ, ヒロシ 1926~ /仏教大学名誉教授)は執筆当時,仏教大学助教授 * ラッセルの New Hopes for a Changing World に関連して。
1.人間の戦い
第2次世界大戦が終結して6年経った1951年,バートランド・ラッセルは,『変わりゆく世界への新しい希望」(New Hopes for a Changing world)を出版した。そのなかで,人間の本性は絶えず何ものかと闘争するものであると考えるラッセルは,人間が今日まで闘争してきた戦いは,1)人間と自然との戦い,2)人間(自分)と人間(他人)との戦い,3)人間(自分)と自分自身との闘い,の3種類であって,自然との戦いは自然科学と科学技術により,人間との戦いは政治と戦争により,それぞれ行なわれてきたし,また,個人の魂の内部で猛威をふるう自分自身との戦いは今までのところ宗教により処理されてきた,と述べている。自然との戦い,人間との戦い,という長い時代にわたる2つの戦いによって形成されてきた人間性は,ラッセルによれば,以前は適切なものであったが,今や時代遅れのものになってしまった。したがって,人間と自分自身との戦いは,人類進化の最後において最高の重要性をもった戦いとなったのであると論じている。
確かに人間は,物理的自然との戦いにおいて,自然の秘密を理解し,自然の法則を発見することによって得られた科学的知識とこの知識に基づいて自然を変革しようとする科学的技術とによって,物理的自然のいわゆる征服ないし支配に成功をおさめてきた。そして,進歩の名のもとに人間生活は着実に文明化されてきたのである。しかし今日(松下注:1978年当時),「公害」で立証されているように,物理的自然の循環過程(サイクル)を断絶させることによってしか人間生活の便益と快適を実現できないような科学的技術は,その所期の意図に反して,生命を破壊する凶器にすらなっているのである。人間は,いくら科学的になっても,全知全能者にはなりえない。いわんや,科学的知識を無視ないし経視する技術万能主義は,人間と物理的自然との戦いにおいて,人間を必然的に敗北者にすることは,自明の理であると言わなければならない。
一方,自然との戦いにおいて協力・協働を必要不可欠とした人間は,共存のために集団を構成して社会生活を営んできたが,集団が大きくなるにつれて,集団内部の人々の間や他の集団との間の抗争が激烈になり,時には武力により,時には政治力により,和解を成立させてきたのである。しかし,人類をはじめ一切の生命を破壊してしまう究極兵器が出現した今日,人間と人間との戦いの原因が,生活様式の相違であれ,人種的反感であれ,信条やイデオロギーの対立であれ,あるいはまた,経済的競争であれ,戦争を絶対に回避することが人類の生存を保持するために喫緊の重要事であることは,論をまたない。人間の英知は,幸いなことに,話し合いと妥協によりあらゆる争点を解決する民主政治を生んできた。民主政治の徹底こそ,人間と人間の戦いを終息させる鍵であると言わなければならない。しかし,民主政治にも,――それがいかなる体制下のものであれ――,行政機構の官僚制化に起因する人間関係の非人格化が随伴するのが現実である。民主政治と官僚制との葛藤が,現代社会の最も大きな困惑の1つであることは,疑う余地がない。
このように考えてくると,人間と人間との戦いを惹起し,人間同士の社会的結合を阻害している根幹は,人間ひとりひとりの魂のなかにあると言わざるをえない。いみじくもラッセルが,人間と自分自身との戦いが人類進化の最後の段階におげる最も重大な戦いであると論じたのは,まことに至言である。
2.人間の自由
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すなわち,人間は自然から自由になるために自然の法則を対象的に認識し,自然を科学的技術によって支配してきた。また,人間から自由になるために,人間や人間が構成する社会についての科学的認識によって,人間行動の法則性を探究し,人間社会の平和的共存を求めてきた。さらに人間は,ほかならぬ自分自身から自由になるために,諸種の宗教によって自分を超越しようとしてきたと考えられるのである。
しかし,すべての人々がすでに認めているように,科学的技術の誇大妄想による自然からの自由という願いは,人間に全面的な自由を与えてきたどころか,生命の危険をさえ警鐘しているし,また,人間からの自由という願望は,恐らくは,今日までの人間に固有の生得的とさえ思われるような憎悪や悪意や残忍を喜ぶ人間の心のために,潜在的な闘争状態を人々の間に温存させてきたのである。さらに自分自身からの自由という願いも,ラッセルの論じているように,人間が自然と人間を自分自身に対抗して存在する対象として措定し,それらとの戦いによっておのづから形成してきた人間性のために,単なる自己否定によって――深層の自己を否定することは勿論できずに,表面的な自己を否定するという外見上の自己否定によって――達成できるものと錯覚に陥っているのである。
それでは,自然・人間・自分自身からの人間の自由という願望は,果たして人類永遠の達成不可能なユートピア――エウトピアではなくウートピア――にすぎないのだろうか。なるほど,自然および人間からの自由という願望は,その否定的な暗い面から眼をはなして眺める時,自然科学や社会科学の成果によって部分的には現実に成就されてきたことは否めない事実であろう。しかし,自分自身からの自由という人間の願いは,きわめて限られた一部少数の者を除いて,今日いまだ達成されているとは考えられないのである。
3.社会福祉
ところで,今日,「仏教福祉」ということが喧伝され力説されている。仏教福祉は,しかし,単なる慈善事業や社会事業でないことは勿論,社会福祉とただちに同一の概念でもないであろう。もともと,憐憫の情けに基づいた施与として始まった慈善事業や社会事業を経て,人権意識に立脚した社会福祉にいたるまで,いわゆる福祉事業が歴史の歩みとともに進展してきたにもかかわらず,社会福祉とは別に,仏教福祉が急務とされるゆえんは,いったいどこにあるのだろうか。そもそも,社会福祉と仏教福祉とは,どのように異なるのだろうか。こんな素朴な問いが,社会福祉(学)や仏教福祉(学)の門外漢である私には,すぐ思い浮かぶのである。
「社会福祉とは,人がその社会生活において健全な社会人として生活していく上に障害となる諸条件を軽減除去することによって,個人を社会的に調整し,併せて全体としての社会の健全なる発展と福祉の増進を助長しようとする社会政策的概念である。」(竹中勝男『社会福祉研究」)
「社会事業(=社会福祉)とは,資本主義制度の構造的必然の所産である社会的問題にむけられた合目的・補充的な公・私の社会的方策施設の総称であって,その本質の現象的表現は,労働者=国民大衆における社会的必要の欠乏(社会的障害)状態に対応する精神的・物質的な救済,保護および福祉の増進を一定の社会的手段を通じて,組織的に行なうところに存する。」(孝橋正一『全訂・社会事業の基本間題』)
「社会福祉とは,国家独占資本主義期において,労働者階級を中核とした国民無産大衆の生活問題に対する「生活権」保障としてあらわれた政策のひとつであり,他の諸政策,とりわけ社会保障(狭義)と関連しながら,個別的にまた対面集団における貨幣・現物・サービスの分配を実施あるいは促進する組織的処置であるといえよう。」(一番ケ瀬康子・真田是編『社会福祉論〔新版〕』)
社会福祉の概念は,社会福祉学の専門家によると,以上のように規定されている。これらの概念規定に見られる細部の点――専門家によると,あるいは本質的な論点なのかも知れないが――についての相違はともかく,社会福祉は,社会的存在である人間が社会的に生活していくための障害を除去し,福祉の増進をはかるために組織的に行なわれる社会政策的な処置である,と言えるのではなかろうか。したがって,生活保護をはじめ老人福祉・心身障害者福祉・医療福祉・児童福祉・母子福祉などが,社会福祉の分野とされているのである。もし,そうだとすれば,社会福祉は,当然のことながら,きわめて社会的なものであり,したがって,さきに述べた人間(自分)と人間(他人)との戦い,あるいは人間(他人)からの人間(自分)の自由,という問題に直接かかわるものと言えるだろう。したがって,あまりにも分析的であるとの非難は免れないが,端的に言えば,社会福祉は,人間(自分)と自分自身との戦い,あるいは,人間の自分自身から自由という願いを,直接当面の課題にしてはいないのである。だからこそ,ここに仏教福祉というものが喧伝・力説される必然的な理由と根拠が存在すると考えられるのである。
4.仏教福祉
『仏教福祉』第4号において私は,社会福祉のための施設・設備が充実整備され,行政施策が次々と実行されていくなかで,しかし,利己的自愛の所有的衝動の方向づげを放棄していくという福祉の原点こそ,人間福祉にとって最も重要である,と述べた。テクノロジーは,人間と自然との戦いにおいて,人間を自然から自由にしながらも公害を随伴させている。デモクラシーは,人間と人間との戦いにおいて,人間を人間から自由にしながらも,官僚制を相伴させている。そして宗教は,人間と自分自身との戦いにおいて,人間を自分自身から自由にすることを悲願しながら,今日までのところ,どこまで成就したのであろうか。宗教の本質は,利己的自愛の所有的衝動の方向づけを放棄していくことによって,人間が自分自身から自由になることに存すると考えられるからである。釈尊の無執着の教えも,イエス・キリストの隣人愛の説教も,ここに本義があると言わなければならない。
(右イラスト:ラッセルの The Good Citizen's Alphabet, 1953 より)
私は決して,社会福祉が不要・無用であるなどと主張する心算は毛頭ない。それどころか,社会福祉のための行政が飛躍的に拡大され,国民大衆の福祉が一段と増進するように,万般の施策を行なうべきであると考えている。しかし,いくら密度の高い社会福祉事業が推進されても,フロムのいわゆる性格学的所有の方向づけに基づく生存様式に生きるかぎり,真の人間福祉は成就されえないと言わざるをえないのである。
つまり,社会福祉は人間福祉にとって必要不可欠の条件であるが,人間が自分自身との戦いにおいて勝利をおさめ,自分自身から自由になることが,真の人間福祉にとって,いわば十分条件なのである。そして,この自分自身との戦いにおいて自分自身から人間が自由になる手だてを講ずるのが,ほかならぬ,仏教福祉である,と私は考える。
したがって,仏教福祉の本質と課題は,ここに明らかであろう。仏教福祉とは,要するに,仏教精神――本来無一物にして,執着とりわけ我愛の滅却を根本義とする釈尊の教説――の体得であり,その必然的発露である施与の実践であると言えるだろう。仏教の素人である私としては,これ以上のことに言及する資格はないが,世の仏教者が名実ともに行道に尊念することこそ,まず何はさておいても,仏教福祉の,したがって人間福祉の,成就にとって,取りあえず至極肝要なことに思われるのである。妄言多罪。(1978年8月30日,脱稿)