(座右の書) 中村哲「バートランド・ラッセル」
* 出典:『??新聞』(197?.??.??)掲載* どの新聞にいつ頃掲載されたものか不詳。(故)牧野力教授新聞切抜より
* 中村哲(なかむら・あきら)氏(1912~2003年8月10日):政治学者。中村哲氏は、執筆当時、法政大学総長(1968年-1983)。1983年から参議院議員を務める。
同時代の文筆家たちが、年齢のせいで、自然に道元や親鸞を語ることが多くなってきた。私は日本人の生死観を民俗学的に知りたいと思って、『柳田国男の思想』という一巻をまとめてみたことがある。とかく宗教に傾きがちな気持ちを、宇宙のなかの人間という自然科学的な観察に徹することが良いと考えるようになっている。宇宙と私-それはギリシア的な構想にかえることであって、ラッセルの『西洋哲学史』にはその問題意識が脈打っている。
近頃(松下注:このエッセイは1970年代の学生運動はなやかなりし時に執筆されたものと思われる。)学生の激しい思想行動と直接に対決させられるので、戦後の世代の社会的公憤が、感情的で独断的で、論理を欠いていることを痛感させられる。それではこちらの論理は果たして正しいのかと襟(えり)を正したい気持ちがあって、アリストテレス以来の論理学者であるラッセルの数理的論理学をひらき、時折りためしたい気持ちになってくる。
道元に「学道、世間の人に、知者もの知りと知られては無用なり」という言葉がある。しかし、私はむしろ、一つの思想をきわめる場合にも、別の立場の多くの主張にも耳を傾けてこそ、自分の思想を検証し、深め、豊かなものにしていくことができると信じている。私はラッセルの立論に常に賛成するものではない。彼の得意とする人生論などは、カントの「人間学」ほど迫ってくるものを感じさせない。しかし、日本人の日常生活は英国の理知主義の伝統や、その教養の生まれてきた歴史的環境を知って、これを鏡としてかえりみなければならないことがまだたくさんある。それで彼の『自伝的回想』(原著:Portraits from Memories and Other Essays, 1956)という短篇は、大冊の『自叙伝』(The Autobiography of B. Russell, 3 vols., 1967-1969)よりも、簡潔につづられて、ほぼ一世紀に近い彼自身の人生経験や人物論が語られており、英国の社会史の実態も迫ってくるので、すてがたいものと感じている。