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バートランド・ラッセル平和財団/日本協力委員会委員-吉野源三郎氏にきく

* 出典:『毎日新聞』1965年7月15日付(木曜日・夕刊)第2版・第6面:<学芸欄> 平和運動の「市民の広場」

 委員会としては実践活動をしない 各自のそれぞれの責任にまかす
[代表] 大内兵衛,上代たの,谷川徹三,朝永振一郎,南原繁,湯川秀樹
[委員] 碧海純一,阿部知二,磯野富士子,上村環,茅誠司,久野収,坂田昌一,武田清子,田島英三,恒藤恭,都留重人,豊田利幸,中野好夫,日高六郎,広津和郎,丸山眞男,三宅泰雄,吉野源三郎 (敬称略)

 なお,ニューズレター購読希望者は,東京都練馬区南田中町1065 同委員会編集部に申し込むこと,一部四十円
「ラッセル平和財団日本協力委員会」がこのほど,月刊の機関誌「ニューズ・レター」を創刊した。この委員会は,平和運動の世界的指導者バートランド・ラッセル卿の呼びかけに答え,平和への正しい世論をつくるため,湯川秀樹,南原繁氏ら,学者・文化人が中心になって,去る(1965年)三月発足したもの。平和運動のゆきづまりが痛感される今日,この新しい平和運動の芽生えは特に注目される。「ニューズ・レター」の発刊を機に,委員会の実行委員・吉野源三郎氏に,「市民の広場」をめざすこの運動について,語ってもらった。

-吉野さんたちが,ラッセル平和財団日本協力委員会の事業に着手された裏には,今日の平和運動に対する危機意識があったろうと思うのです。まず,この点から・・・。

 現状打破へ

 吉野 原水爆禁止運動は,日本が世界に誇ることのできる,平和運動のシンボルでした。ところが運動は中ソ論争などを背景に分裂状態におちいり,平和を願う市民たちに大きな失望を与えました。日本の平和運動は,戦後最大の危機に当面したといわねばなりません。
 私たちは,なんとかして現状を打開し,運動を軌道に戻さねばと考えました。たまたまこの時,ラッセル平和財団から,日本もラッセル卿の理想を実現に協力してほしい,という呼びかけがありました。
 ラッセル卿は,十数年前,有名な「ラッセル・アインシュタイン声明」で,核戦争の防止を世界に訴えて以来,一貫して中立主義の立場を守りながら,世界平和の実現に一身をささげて努力しておられる。このラッセル卿の精神を生かし,ともに手をたずさせて世界平和に寄与しようというのが,平和財団の呼びかけの趣旨でした。
 中ソ対立の影響による平和運動の分裂,大衆組織や運動に対する市民の不信感--。これらを乗り越える道は,ラッセル卿の精神そって,いまいちど,平和運動の原理を根本から考え,思想的に立て直すほかはない。
 そう考えて,この提案を受けとめ,湯川秀樹,南原繁さんらを代表として委員会が発足したわけです。

--委員会の事業の一つとして,ニューズ・レターが発刊されました。この小雑誌の目標は?

 自由な言論を展開

 吉野 私たちはこのささやかな小雑誌を,平和運動のための「市民の広場」にしたいと考えています。したがって,委員会の趣旨に賛成の人たちに,どしどし投稿してもらい,自由な言論を展開してゆきたい。
 代表の大内さん,南原さんたちの論文と並んで,家庭の主婦や労働者の投稿が載る。そういった市民の意思の交流し合う雑誌でありたいと思います。
 最近の平和運動における発言は,すべて組織の中で,組織を通じて行われていました。これでは,市民ひとりひとりの願いや訴えが,真に生かされるかどうかは疑問です。
 大家も無名の者も,すべて一人の市民として,対等の位置でノビノビと発言することが,平和運動の達成のために不可欠のことでしょう。

--ニューズ・レターの第一号を読むと,委員会は実践運動や組織づくりに立ち入らぬことを非常に強調しています。しかし,委員会が範と仰ぐラッセル卿は,何よりも「実践の人」であり,あの高齢で常に陣頭に立ってきました。この点に,大きな矛盾が感じられるのですが・・・。

 実践は自主独立で

 吉野 平和運動は,世界平和の実現,人類の文明の向上を目ざすものですから,きわめてインタナショナルな本質をそなえています。
 しかし,実践活動はあくまでもナショナルなもので,対外的な働きかけに動かされず,自主独立であるべきだと考えます。
 ロンドンの平和財団も,基本的にはこれと同じ考えで,実践活動に入る場合は,各国の国民がそれぞれイニシアティブをとり,自発的に行うことを願っています。つまり,平和財団が組織者になって,ロンドンの本部の指導のもとに実践活動を行うというようなことは正しくない,という考えです。
 私たちは,ラッセル卿の精神,平和実現への実行力を高く評価し,これに共鳴して委員会を結成しました。しかし,彼の個々の政治行動に対しては,自由に批判できる余地を残したいと思うのです。
 平和財団の日本支部という名称を避け,日本協力委員会としたのも,実は以上の理由からです。
 委員会として組織的な実践活動をしませんが,もちろん各自がそれぞれの責任で活動するのをさまたげるわけではありません。
 たとえば,委員の中野好夫さんや日高六郎さんは,六月九日の「国民共同行動の日」の呼びかけ人として,ベトナム戦争反戦集会の先頭に立ったし,久野収さんはべ平連(ベトナム平和連合)の市民デモに加わるといったあんばいです。
 一人ひとりをとれば,それぞれに,平和達成の実践にたずさわっている人間が,ラッセル卿の精神に学び,現在の平和運動の再建を願ってできたのが,この委員会と思っていただけばよいでしょう。

--現在の平和問題といえば,ベトナム危機をどう回避するかが最大の焦点です。ニューズ・レターは今後この問題をどう追及していきますか。

 地味でも粘り強く

 吉野 第一号にもラッセル卿の緊急声明,ニューヨーク・タイムズへの投書などを掲載しました。ラッセル卿は,痛烈な口調で,米政府を批判していますが,その底には米中戦争の危機,核戦争の危機を未然に防ぎたいという願いがあります。
 このような意見を国際世論にまで高め,米政府に政策転換をうながす以外に,危機回避の道はないでしょう。
 そこで,ニューズ・レターも,単なる反米を主張するのではなくて,米国民の理性を目ざめさせるための国際世論の一翼をになえたらと念じます。
 もちろん,ささやかで地味な仕事かもしれませんが,ねばり強く,途中でへこたれずに続けることが一番大切なことでしょう。
 戦後の市民運動は,はじめははなばなしく,いつかはしりすぼにになるといったケースが多いようです。
 私たちの平和運動,ベトナム問題に対する態度なども,この轍を踏んではならないと自戒しています。
 地味でもいい,息長くこの運動を進めてゆき,平和運動の「市民の広場」をつくるよう,皆さんの協力を得たいと思います。