(対話)森恭三[対]国弘正雄「A.J.トインビー、バートランド・ラッセル,国家悪」
「トインビー思想と現代をめぐって-これからの反核運動と市民の在り方」
* 出典:『現代とトインビー』n.51(1982.08),pp.3-4(=抜粋)
* 森恭三氏(写真上)は,当時,朝日新聞論説主幹:国弘正雄氏(写真下)は当時,日本テレビ解説委員
* 参考:森恭三コレクション
・・・(前略)
国家悪について
國弘(右下写真)
トインビーさん(松下注:Arnold Joseph Toynbee, 1889-1975:英国の歴史家)は,生前,日本へのメッセージとして,また市民の会(松下注:「トインビー市民の会」)への提言として,日本国憲法の平和条章は,各国が真似なければならないモデルであり,日本人が世界平和の先駆者として護持してほしいと,度々訴えられました。私は,きょうのテーマである,反核運動や核軍縮をお互い市民がどう具体的に考え,ひき継いでいくかという問題について,あえて角の立つようなことを申し上げたいので,お許しをいただきたいと思います。
いわゆる反核運動は当然ですし,異を唱える理由は何もないのですが,ただややもすると,'核兵器'はいけないが,'通常兵器'はいいとか止むを得ないという漠然とした認識があるのではないか,という気がしてならないのです。これは事実としておかしい。通常兵器はよいが,核兵器はいけませんと言ったのでは,核廃絶など行われるべくもないと考えます。
そして通常兵器反対の立場を貫こうと思うと,結局,国家という魔物のような存在にぶち当らざるを得ない。というのは,武装権を持っているのは国家だというのが通念だからで,軍備について論じようとすれば,どうしても国家を考えざるを得ない。私は,「戦中焼け跡派」ですが,戦争の中の銑鉄のような重苦しい国家,国家悪というものを原体験した一人として,まず'国家のもつ魔性'に目を向け,これへの対応の途を探らないと,反核運動も全うし得ないのではないかと思うのです。
国家ないし国家悪とは何ぞやを考えるにあたっては,いろいろな方向があります。たとえば,バクーニンその他のアナキズムもそうでしょうし,国家の終えんを預言したマルキシズムの方向もあります。ただ私個人としては,民族,いやむしろ文明という次元で考えてみたい。民族というとややもすると排他的になりがちで,'民族の栄光'だの'民族精神'だのとまたぞろ言い出さないとも限らない。すでにこの傾向は強まる一方で,やれ教科書改訂だ,靖国だと,下手をすると,'民族への回帰'みたいなものが,条理をこえた形で勢いを得ないとも限らないので,民族という言葉は慎重に使わなければならないと思っています。
トインビーさんの流れに心を寄せてきた者としては,文明という単位で,幅の広い国家を超えた次元でものを捉え,考えるくせをつけることが大切ですし,この次元で,現在の反核運動を進めていかないと,今の地球人類が直面している困難を超えることができないのではないでしょうか。そのためには国家という現実の存在にひとたびは歩を留め,そこから国家を超える道を模索しないと,国家や民族を独り占めにしているかにみえる昨今の,けたたましいまでの軍事力増強論者に対する有効な歯止めたりえないとおそれるのです。
この意味において,文明という長い物差しで発想するというトインビーさんの思想が,新しい装いのもとに若い人たちに徹底されていくべきだと思いますね。
森(右上写真)
あなたが言われることは,全く賛成だ。非常に嬉しい。'国家悪'の追求ということでいいたいことは,バートランド・ラッセルのことです。彼は,一九五〇年代に反核のオルダーマストン行進を指導したりしたが,当時は理解者が少く,'気狂い扱い'されたものです。その後 'ラッセル法廷'(「国際戦争犯罪法廷」)を開き,ヴェトナム戦争におけるアメリカの'国家犯罪'を世界に訴えた。国家というものを初めて市民が弾劾したわけで,その世界史的意義は大きいと思いますよ。ラッセル法廷の元は第二次大戦後,日・独の戦争犯罪を裁いた国際軍事法廷で,そこで国家と,その国家を動かした個人とが断罪されたわけです。これは一面勝利者の(による)裁判であって,政治論としてのみならず法律論的にも確かに変なのだけれども,それにもかかわらず,文明史的には特筆すべき一つの面がある。あそこで浮きぼりにされたひとつの線は,上官の命令でも正しくなければ抵抗すべきだという考え方ですね。逆に言えば,個人の良心をもって国家悪に低抗せよという考えを打ち出しているのですね。この裁判を偏狭なナショナリズムから否定する人があるが,それはいかんと思いますよ。あそこからひとつの歴史的教訓を学ばなければならない。国家は,'秩序維持'というプラスの面もあるが,悪をなすというマイナスの面をもはっきりみて,悪に対しては民衆がコントロールを加えていかなければならないと思うのです。国家のなす最大の悪は戦争です。
・・・(後略)・・・
トインビー市民の会の活動状況(1972年現在)
「トインビー思想と現代をめぐって-これからの反核運動と市民の在り方」
* 出典:『現代とトインビー』n.51(1982.08),pp.3-4(=抜粋)* 森恭三氏(写真上)は,当時,朝日新聞論説主幹:国弘正雄氏(写真下)は当時,日本テレビ解説委員
* 参考:森恭三コレクション
・・・(前略)
国家悪について
國弘(右下写真)トインビーさん(松下注:Arnold Joseph Toynbee, 1889-1975:英国の歴史家)は,生前,日本へのメッセージとして,また市民の会(松下注:「トインビー市民の会」)への提言として,日本国憲法の平和条章は,各国が真似なければならないモデルであり,日本人が世界平和の先駆者として護持してほしいと,度々訴えられました。私は,きょうのテーマである,反核運動や核軍縮をお互い市民がどう具体的に考え,ひき継いでいくかという問題について,あえて角の立つようなことを申し上げたいので,お許しをいただきたいと思います。
いわゆる反核運動は当然ですし,異を唱える理由は何もないのですが,ただややもすると,'核兵器'はいけないが,'通常兵器'はいいとか止むを得ないという漠然とした認識があるのではないか,という気がしてならないのです。これは事実としておかしい。通常兵器はよいが,核兵器はいけませんと言ったのでは,核廃絶など行われるべくもないと考えます。
そして通常兵器反対の立場を貫こうと思うと,結局,国家という魔物のような存在にぶち当らざるを得ない。というのは,武装権を持っているのは国家だというのが通念だからで,軍備について論じようとすれば,どうしても国家を考えざるを得ない。私は,「戦中焼け跡派」ですが,戦争の中の銑鉄のような重苦しい国家,国家悪というものを原体験した一人として,まず'国家のもつ魔性'に目を向け,これへの対応の途を探らないと,反核運動も全うし得ないのではないかと思うのです。
国家ないし国家悪とは何ぞやを考えるにあたっては,いろいろな方向があります。たとえば,バクーニンその他のアナキズムもそうでしょうし,国家の終えんを預言したマルキシズムの方向もあります。ただ私個人としては,民族,いやむしろ文明という次元で考えてみたい。民族というとややもすると排他的になりがちで,'民族の栄光'だの'民族精神'だのとまたぞろ言い出さないとも限らない。すでにこの傾向は強まる一方で,やれ教科書改訂だ,靖国だと,下手をすると,'民族への回帰'みたいなものが,条理をこえた形で勢いを得ないとも限らないので,民族という言葉は慎重に使わなければならないと思っています。
トインビーさんの流れに心を寄せてきた者としては,文明という単位で,幅の広い国家を超えた次元でものを捉え,考えるくせをつけることが大切ですし,この次元で,現在の反核運動を進めていかないと,今の地球人類が直面している困難を超えることができないのではないでしょうか。そのためには国家という現実の存在にひとたびは歩を留め,そこから国家を超える道を模索しないと,国家や民族を独り占めにしているかにみえる昨今の,けたたましいまでの軍事力増強論者に対する有効な歯止めたりえないとおそれるのです。
この意味において,文明という長い物差しで発想するというトインビーさんの思想が,新しい装いのもとに若い人たちに徹底されていくべきだと思いますね。
森(右上写真)
あなたが言われることは,全く賛成だ。非常に嬉しい。'国家悪'の追求ということでいいたいことは,バートランド・ラッセルのことです。彼は,一九五〇年代に反核のオルダーマストン行進を指導したりしたが,当時は理解者が少く,'気狂い扱い'されたものです。その後 'ラッセル法廷'(「国際戦争犯罪法廷」)を開き,ヴェトナム戦争におけるアメリカの'国家犯罪'を世界に訴えた。国家というものを初めて市民が弾劾したわけで,その世界史的意義は大きいと思いますよ。ラッセル法廷の元は第二次大戦後,日・独の戦争犯罪を裁いた国際軍事法廷で,そこで国家と,その国家を動かした個人とが断罪されたわけです。これは一面勝利者の(による)裁判であって,政治論としてのみならず法律論的にも確かに変なのだけれども,それにもかかわらず,文明史的には特筆すべき一つの面がある。あそこで浮きぼりにされたひとつの線は,上官の命令でも正しくなければ抵抗すべきだという考え方ですね。逆に言えば,個人の良心をもって国家悪に低抗せよという考えを打ち出しているのですね。この裁判を偏狭なナショナリズムから否定する人があるが,それはいかんと思いますよ。あそこからひとつの歴史的教訓を学ばなければならない。国家は,'秩序維持'というプラスの面もあるが,悪をなすというマイナスの面をもはっきりみて,悪に対しては民衆がコントロールを加えていかなければならないと思うのです。国家のなす最大の悪は戦争です。
・・・(後略)・・・