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宮本盛太郎(著)『来日したイギリス人 -ウェッブ夫妻、L.ディキンスン、B.ラッセル』(木鐸社、1989年3月、210 pp.)


はしがき(本書の目的と文献の紹介)

 この本は、大正デモクラシー期に来日したウェッブ夫妻、ロウズ・ディキンスン、バートランド・ラッセルという進歩的なイギリス人たちの来日時の体験や、彼らの日本観をみようとするものである

の画像  ウェッブ夫妻は、1911(明治44)年8月に来日し、10月に離日した。フェビアン協会の中心人物であり、「漸進的社会主義の理論の開拓・普及に努力し、イギリス労働党の発展に貢献すると同時に、その漸進的社会主義の見地から重要視される諸制度についての歴史的、実証的な調査研究を実施して、注目に値する業績を残した」(『現代マルクス・レーニン主義事典』上〈社会思想杜、1980年〉p.140)ウェッブ夫妻の名は、日本でもかなり知られており、関嘉彦『英国社会主義労働党の理論家たち』(弘文堂、1952年)の中に、「楽天的現実主義者ウェッブ夫妻」(pp.9-85)という、同夫妻の人と思想を紹介した文章もある。森戸辰男監修の社会思想新書の1冊に、山村喬『フェビアン主義』(鱒書房、1947年)があり、ウェッブ夫妻の思想が紹介されている(ただし、山村氏が校正段階でみたと思われる部分では、すべて「フェイビアン」と表記されている)。また、最近では、中村宏『福祉国家と社会主義』(法律文化杜、1985年)と、名古忠行『フェビアン協会の研究――イギリスの政治文化と社会主義』(法律文化社、1987年)が、ウェッブ夫妻について、すぐれた議論を展開している。同夫妻の共著の翻訳も複数入手できる。たとえば、この本を出版して下さった木鐸社からも、岡本秀昭氏の訳で、ウェッブ夫妻の『大英社会主義社会の構成』(1979年)が出ている。さらに、主として、ウェッブ夫人(結婚する前は、ビアトリス・ポッター)について論じた本であるが、マーガレット・コール(著)、久保まち子訳『ウェブ夫人の生涯』(誠文新光社、1982年)という訳書があり、ウェッブ夫妻とフェビアン協会との関係については、N. & J.マッケンジー(著)、土屋宏之・太田玲子・佐川勇二訳『フェビアン協会物語』(ありえす書房、1984年)という訳書がある。
 マーガレット・コールの本は、夫妻の来日について簡単に触れており、「夫妻はカナダを経て日本へ行ったが、日本人に関して2人は……全く熱中した。彼らが見た日本人は知的で有能で礼儀正しく清潔であった。特にビアトリスは日本の貧民窟が悪臭を放っていないことに注目している。日本から中国へ渡ったが、中国を徹底的に嫌っている」(前掲訳書、p.161)と述べている。英文で、ウェッブ夫妻について論じた最近の本として、Lisanne Radice, Beatrice and Sidney Webb- Fabian Socialists(Macmillan Press, 1984)があり、来日についての数ページの記述がある。来日時の夫妻の行動と日本観を知るための夫妻側の根本史料は、ウェッブ夫人の日記であり、マーガレット・コールは、ウェッブ夫人が不眠症にかかったために、私たちは60年間にわたる日記をもつことができた、と書いている。つまり、なかなか眠れないので、詳細な日記を残しているわけである。この日記は今日では刊行されており、複数の刊本があるようであるが、筆者のみたのは、Norman and Jeanne Mackenzie ed., The Diary of Beatrice Webb, v.3(1905-1924)(The Belknap Press of Harvard University Press, 1984)である。ところが、この刊本は、原文の完全な復刻版ではないので、ウェッブ夫人の日記については、原文のマイクロ・フィッシュ版に拠った(マイクロ・フィッシュ版の入手について、中村宏氏のお世話になった)。夫シドニー・ウェッブは、1859(安政6)年7月に生れ、妻ビアトリス・ウェッブはその前年の1月に生れた。来日した時、シドニーは52歳、ビアトリスは53歳だった。なお、最近、『UP』(東京大学出版会)1987年5月号に載った、木畑洋一氏の「イギリス・日本・『帝国意識』」が、ウェッブ夫妻の来日について言及している。また、ウェッブ夫妻の日本論「日本の社会的危機」の翻訳が、『政治経済史学』257号(1987年9月号)に載っている(服部平治・宮本盛太郎訳)。

 ロウズ・ディキンスンは、1913(大正2)年に来日した。夏に来日し、夏の終りか秋に、日本を去ったようである。彼は、1862(文久2)年8月6日の生れであるから、少くとも、来日中に51歳になったはずである。後に言及する、バートランド・ラッセルは、ケンブリッジ大学時代に、ディキンスンと友人になった。ラッセルは、ディキンスンが「性温順でそれにどことなく哀れさを感じさせるところがあって、それで人に愛情をいだかせる人間であった」(ラッセル、日高一輝訳『ラッセル自叙伝』第1巻〈理想杜、1968年〉p.72)と述べている(次の訳書も参照されたい。リチャード・ディーコン『ケンブリッジのエリートたち』〈晶文社、1988年〉)。日本では、ディキンスンというと、アメリカの女流詩人(Emily Dickinson)の方が知られている。ロウズ・ディキンスンは、本来の専門はギリシャの政治哲学のようであるが、今日では文明批評家、国際平和を追求したインターナショナリストとして知られている。彼についての本格的な伝記は日本語では読むことができない。
 ただ、戦後、村岡勇氏によって、彼の2つの著書が訳された。訳書では2つの作品を1冊に収めている。『モダン・シンポウジアム-中国人の手紙』(南雲堂、1959年)がそれであるが、その末尾の「あとがき」に村岡氏によるディキンスンの紹介がある。この紹介は、後に本文で引用する。もう1冊、『G.K.チェスタトン著作集』第5巻(春秋杜、1975年)に、チェスタトンの立場から、ディキンスンの異教観の問題性を衝いた文章が収められている。ディキンスンについての英文の研究書では、E. M. Forster, Goldsworthy Lowes Dickinson and related writings(Edward Arnold, 1973, 1st ed. 1934)がもっとも有名である。ディキンスン本人が日本への旅行について書いたものに、Appearances--Being Notes of Travel(J. M. Dent and SOns Ltd., 1914)と An Essay on the Civlizations of India, China and Japan(J. M. Dent and Sons Ltd., 1914)という2冊の本がある。以下、前者を旅行記I、後者を旅行記IIと略称する。ただ、後者については、初版を入手できなかったので、他の出版杜から出た第3版に拠る。とくに内容にちがいはないようである。


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 バートランド・ラッセルは、ここで取り扱う3人の内、日本でもっともよく知られている人物であり、文献的にも多くの文献がある。翻訳も多い。数学者、哲学者、評論家、平和運動家、ノーベル賞受賞者であり、大学入試にもしばしば彼の文章から出題されるから、高校生でも彼の文章を読んでいるようである。彼についての文献を紹介するだけで、1冊の本ができるであろう。彼は、1872(明治5)年5月の生れで、来日したのは1921(大正10)年8月(注:7月の誤記)であるから、来日した時、49歳だった。ここで論じる3人のイギリス人は相互に知り合いであるが、偶然のことながら来日した時の年齢もほぼ同じ位である。ちなみに、筆者の最初の予定では、1907(明治40)年に来日したケア・ハーディーについても論じる予定だったのであるが、彼についての英文の文献を1点しか入手できなかったので(日本側の文献はかなりあるので、将来英文文献の入手がさらになされれば、ハーディーの来日についても論じてみたい)、今回は断念したのであるが、彼は来日した時51歳だった。
 ラッセルの来日について、ラッセル本人が語っているものとしては、日高一輝訳の『ラッセル自叙伝』第2巻(理想社、1971年)と牧野力訳の『中国の問題』(理想杜、1970年)がある。後者には、新島淳良氏の「バートランド・ラッセルと中国」という論文が収められている。日本人がラッセルの来日について触れたものに、『日本バートランド・ラッセル協会会報』2号(1965年9月15日)収載の横関愛造「日本に来たラッセル卿」と、日高一輝『人間バートランド・ラッセル』(講談社、1970年)の第6章「ラッセルと日本―日本嫌いと日本への期待」(これは、主として日高氏自身の体験と横関氏の論稿とラッセルの自叙伝とによって、書かれている)と、1982年3月に発行された『二松学舎大学論集〔1981年度〕』収載の内野末雄「ソ連・中国・日本―ラッセルの分析によせて」(日本についての部分は『中国の問題』によって書かれている)がある。ラッセル本人については、あまりにも文献が多すぎるので、大部分省略するが、参考までに、日本人の書いたラッセルについての著書を2冊と訳書1冊ならびに最近みたラッセル論を1つだけ紹介しておく。碧海純一『ラッセル』(勁草書房、1961年)、アラン・ウッド、碧海純一訳『バートランド.ラッセル―情熱の懐疑家一』(木鐸社、1978年)、市井三郎『ラッセル』(講談杜、1980年)、ロイドン・ハリソン、越村勲訳「バートランド・ラッセル―自由主義から社会主義へ―」(都築忠七編『イギリス社会主義思想史』〈三省堂、1986年〉収載)。