美濃口武雄「ラッセル、ケインズの確率論」
* 出典:美濃口著『経済学史-近代経済学の生成と発展』(有斐閣、1979年1月刊)pp.311-313* 「ラッセル、ケインズの確率論」は、美濃口武雄著『経済学史-近代経済学の生成と発展』の第2章「『(ケインズ)一般理論』の思想的源泉」(=pp.307-313)のなかの1節。
* 美濃口武雄氏(1937年7月26日~2021年8月28日)は、一橋大学(経済学部)名誉教授、現・関東学園大学教授。
2-2 ラッセル、ホワイトヘッドの『確率論』
つぎに(ケインズの)『確率論』におけるラッセル、ホワイトヘッド、W.E.ジョンソンのケインズに与えた影響を検討してみよう。ハロッド(Roy Harrod, 1900-1978: 英国の経済学者でケインズの高弟。オックスフォード大学教授)も指摘しているように、ケインズの『確率論』は、純粋な数学的確率論ではない。むしろそれは一種の記号論理学であったし、哲学でさえあった。『確率論』が『一般理論』(The General Theory of Employment, Interest, and Money, 1936)とどのようなかかわりをもつかについてのケインズ自身の説明が、この点を見事に論証している。「しかし最近の著者たちもその先輩に似て、いまだに雇用された要素の量は与えられており、かつその他の関係ある諸事実も多かれ少なかれ既知である体系を取扱っている。このことはかならずしも変化ということを排除した体系を取扱っていることを意味しない。いな、期待外れをすらも排除しているとはいえない。しかし一定の時においてはつねに事実と期待は一定のかつ予測しうる形で与えられていると仮定された。そして危険-これに対してはあまり注意が払われなかったことは認められているが-は、正確な保険統計的計算の可能なものと仮定されている。確率の計算法-それ自身の論述は背後にかくされてはいるが-は、『確実性』を計算しうるのと同じ状態にまで『不確実性』を減ずることができるかのごとく想定されている。このことはちょうどべンサム哲学において一般的な倫理的行為に影響を及ぼすものと仮定されている苦痛と快楽、利益と不利益が計算されるばあいと同じようなものである。」『(ケインズ)一般理論』の形成と古典派批判においてこのように重要な意味をもった確率論は、ラッセル、ホワィトヘッド、W.R.ジョンソンの影響をうけている。ハロッドはつぎのようにのべている。「ケインズはすぐさま確率論の勉強にとりかかった。彼はW.E.ジョンソンの批判と示唆の恩恵を受けていた。ホワイトヘッドもまた完全に共鳴しない点についての説明を彼に書き送った。夏の間、確率論についてのラッセルおよびムーアの共同討論が行なわれた。」ただしケインズが『確率論』を出版した際、ラッセルとホワイトヘッドは称讃の言葉を送ったけれども、専門の保険数学者からの評判は悪かった。なぜなら、この書物はむしろ哲学ないし記号論理学をとりあっていたからである。
「しかしながら、実際にはわれわれはがいして行為の結果については、そのもっとも直接のもの以外は非常に漠然とした観念しかもっていない。たとえ偶然の機会によってわれわれの行為が多くの遠い諸結果をもたらしたとしても、われわれはそれらにはあまり関心をもたぬばあいもある。そうかと思うと、ばあいによっては直接の結果よりもはるかに強い関心を示すこともある。この遠い結果への関心によって影響を受ける人間活動のうちでもっとも重要なものの一つは、たまたま性格において経済的なもの、すなわち富である。富の蓄積の全目的は、比較的あるいは無期限に遠い日時における諸結果、あるいは潜在的諸結果を作ることである。このように未来にかんするわれわれの知識は動揺する、漠然とした不確実なものであるということが、古典派経済理論の方法の対象としては特別に不適当な問題を富に付与したのである。」
「わたくしにいわせれば、『不確実な知識』とは、たんなる『蓋然』のうちから『確実な』ものとして知られているものを区別するということではない。この意味においてルーレットの勝負は『不確実性』の問題には属さないし、富くじ、戦時公債にたいする見込もまた同様である。あるいは、寿命にたいする期待もまたほとんど『不確実な』ものではない。そして天候さえもやや『不確実な』ものであるにすぎない。わたくしが使っているこの言葉の意味は、ヨーロッパ戦争の見込みとか、20年後の銅貨の価格や利子率とか、ある新発明の廃棄とか、1970年の社会組織内における個人的富の所有者の地位とかが『不確実』であるということである。これらのことがらにかんしては、なんらかの確率を形成することができるという科学的な基礎はなにもない。たんにわれわれが知らないだけである(→単にわれわれは知らない)。それにもかかわらず、行動と決意の必要は、実際人としてこの具合の悪い事実を見逃すことに最善を尽くさしめ、そして、あたかもわれわれが予想上における一連の利益と不利益- それは、それぞれ適当な蓋然率を乗ぜられ、その上で合計されるのを待機しているわけであるが-とにかんするベンサム流の都合のよい計算を背後に持合せているかのように正確に行動することを強いるのである。」
「読者はおそらく、人間の行為にかんするこの一般哲学的問題は現在論議している経済理論から若干離れているように感ずるであろう。しかしわたくしはそうは思わない。これはわれわれが市場においてどのように振舞うかということであるが、この研究においてわれわれが考案する理論は、市場の偶像に服すべきではない。古典派経済理論が未来のことはほとんどわからないという事実を捨象し去ることによって現在を取扱おうとする綺麗な上品な技術の一種であることこそわたくしがこれを批難する理由である」
(Keynes,"General Theory," In: Quaterly Journal of Economics, 1937、『新しい経済学』I、東洋経済新社)。