ジョン・ルイス(著),中尾隆司(訳)『バートランド・ラッセル- 哲学者とヒューマニスト』(ミネルヴァ書房、1971年9月. 5,176,2p. 19cm.)
* 原著:Bertrand Russell; philosopher and humanist, by John Lewis, 1968.訳者あとがき
本書は John Lewis: Bertrand Russell - Philosopher and Humanist(Lawrence and Wishart; London, 1968) の全訳である。
著者の J.ルイス(1889~1976)は、『マルクス主義と偏見なき精神』(真下・竹内・藤野訳、岩波現代叢書)や『哲学史入門』上・下(相原文夫訳、三一新書)等によって、かなりわが国でも知られたイギリスの指導的なマルクス主義哲学者であり、近く『カール・マルクスの生涯と学説』も翻訳される由聞いている。その他、『マルキシズムと非合理主義』『科学、信仰、懐疑』『人間と進化』等多数の著書がある。かれは、ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジで科学の学位をとって、へーゲリアンのマクタガート(右写真参照/出典:A. Wood's B. Russell, the passionate sceptic, 1957)の学生としてケンブリッジヘ行き、Moral Sciences Club のメンバーとなり、ここで始めて、ラッセルやムーアと出会ったのである。「哲学における近代非合理主義の諸傾向」というテーマで哲学の学位を取っている。長年、オックスフォード大学やケンブリッジ大学での大学公開講座で哲学を講じ、現在は、ロンドンのモーリー・カレッジで哲学の講義を行なっている。このルイスの『バートランド・ラッセル』は、英国でもっとも影響力のあるこの哲学者の生涯と著作についての一般的でしかも深く掘りさげられたユニークな研究書である。おそらくラッセルの批判的な解説書としては、安易なものの多い中で随一ではないかと思われる。
ルイスは、ラッセルの難解な数学的哲学とかれのヒューマニズムの信念との間の緊張をあとづけ、そして同時に、かれの抽象的な論理学的分析と、現代の社会のかれの見方の両方に、するどい批判を加えている。『プリンキピア・マテマティカ』(全3巻、1910年~1913年、A.N.ホワイトヘッドと共著)に集約されたラッセルの数学・論理学への関心と、かれの簡潔・明快でしかも機智と風刺にとんだ文体で書かれた社会・政治理論への関心とが、全く関連なく「2人のバートランド・ラッセル」としてこれまで描かれてきたが、この矛盾を如何に考えるべきであるかという問題を提出したのが本書である。そして、「この矛盾を研究し、現実生活から奇妙に遊離した哲学を、綿密に吟味することが、ラッセル哲学とかれの社会的理論の両面を理解するためには本質的なこと」であり、しかも、「一般の読者が読んでもわかる範囲でそれを行なうこと」は、「けっして、ラッセルの思考の本質的なものが少しも失われないように願うのである」と、ルイスはのべている。だから二者択一の議論をすることが本書の意図ではなく、「論理学的分析を超えて、あるいは対立して、哲学の発展をみることは、重要であろう。だが、それは分離してべつにとりあつかうべき問題」であるとされる。ラッセル哲学で特に、われわれにとって重要なものは、「科学的な諸問題の研究において成功したことの明らかな主要な諸原理を哲学的な諸問題に適用する」というかれの決定であり、このことは、およそどんな哲学でも全体としての宇宙についてわれわれに教えることができる、という錯覚からわれわれを解放することになるであろう。「哲学はあらゆるものについて包括的な悟性を要求するという希望的な想定によって堕落してきた。この想定はやはりたいていの形而上学的体系の無意識の前提となっている。」この想定をこわすため、ラッセルは「余計なものを1つずつとりのぞく仕事を良心的にせっせと追求した」のであり、「最後的な残余」の分析に到達するまで世界の表面の複雑性をとりさっていくのである。哲学の最初の仕事は「疑いを解放する領域にけっして進んだことのない人々に対して、かれらのごうまんな独断論を取除くこと」であり、ラッセルの「哲学はその歴史を通じて言語の魔術の特殊な本拠であった」という指摘はわれわれへの正しい警告である。ヴィットゲンシュタインのいうように、「言語による知性の魔力」にすぎない哲学に気をつけねばならない。このようにのべるラッセルが道徳的な確信については疑われてはならないし疑うことはできないとし、道徳的確信の前では理性は沈黙を命ぜられ(松下注:ラッセルはこのようなことは主張していない)、道徳的確信が常に絶対で高貴で権威あるものというこの2元論、つまり、「人間存在が忠実に従っている理想と自然の世界との間の調和できない対立というかれの信念」、ラッセル哲学の拘束的参与(commitment)、ラッセル哲学の弱点(some loose stones)等々の指摘とともに『神秘主義と論理』へのすじみちが本書で描かれている。
ルイスは、『哲学史入門』の「バートランド・ラッセル」の項で、ラッセルの哲学の特色を次の3つに要約している。
(2) ラッセルは多元論者である。自然の世界の組織的な本性を否定していることは、真理に達する唯一の道が観察したたんなる事実から論理的に何がきずきあげられるかをしらべることである、とヒュームとともに信じている哲学者の経験論である。かれの世界は、かれの哲学と同じように原子論的であり、それは最大限の個人的自由を要求し、何かの社会的な型または強制に順応することを極度にきらう、ばらばらの諸個人からなる。
(3) ラッセルの究極の実在は、意識、感覚または、感覚与件の諸原子から成立する。――つまり外界は、感覚与件のいくつかの系列と結合からなるにすぎないと解釈さるべきであって、客観的な恒久的な物質的な事物と過程は「排除」されることになる。
こうみてくるとラッセルは、自然の体系をしりぞける多元論者であり、実在を独立した諸事実――これらの事実は感覚であることが判明したのだが――に還元する原子論者である、とわれわれにわかるのである。なお、かれが人生と政治にたいする意見を全く哲学の分野からとりのけていることもわかる(『哲学史入門』下、相原文夫訳、pp.414-417参照)。
「科学は仮設(仮説の誤記)・要求・カテゴリーの諸体系によって進んで行く。そして仮説がそれにつづく観察と実験によって検証される限り、それらの仮設(仮説)はだんだん確実性の水準に、いいかえれば、事実の水準にのぼって行く」(同書、p.423)。この仮設(仮説)の検証によってさらに多くの認識をつみ重ねることこそ学問の目的である。仮設(仮説)的認識と仮設(仮説)検証は終ることのない過程であり、一切の認識は永遠に仮設(仮説)的真理たるにとどまる。しかし、いつまでも知的検証の立場にたちつづけることはできない。知的検証は行為のための前提である。「論理学が自らをたんに形式的な学問にするのは、哲学的なデカダンスの時期に限られる。ほんとうの論理学は現実の本性について考えることによって発見される。――現実を解釈するためではなくて、それを変更するために」(本書、p.155)。そうでなければ「世界の意味・計画・目的にかんする信条は哲学の関心ではなくなってしまう。」「科学と道徳とのかたくなな2元論は、科学が進歩を信ずるための土台をふくんでいないという見方をすることと、生活の目的にかんするわれわれの見解を解明する点で科学に発言をゆるさないことのもとになっている」(「哲学史入門」p.430)。
ラッセルは、『哲学の諸問題』(1912年)および、ひきつづいて発表した『外界についてのわれわれの知識』(1913年)(松下注:1914年のまちがい)によって単なる『プリンキピア・マテマティカ』の哲学者ではない哲学者として高く評価されるようになったのだが、かれの論理的原子論は、ヴィットゲンシュタインによってさらに推進され、後の論理実証主義に大きな影響を与えることになったが、しかし、ラッセルは、多元論者としては徹底せず、またたんなる論理実証主義にも満足しなかった。事実と価値、科学と社会、倫理と自然的秩序の救いようのない2元論。これはラッセルにとってそうであるだけではなくて、終りのない論理的遡行の道だけを追求している言語分析にとってもそうである(本書、p.147)。
ラッセルは、ロック、ベンタム、ミルなどのイギリス経験論の伝統をうけつぐ哲学者であり、「民主主義を理論的に正当化することができる唯一の哲学、そして心のもち方において民主主義と一致する唯一の哲学は、経験主義の哲学である。近代世界に関する限り、経験主義の創始者とみなされるロックは、経験主義がかれの自由と寛容に関する見解ならびに、絶対君主制に対するかれの反対といかに密接にむすびついているかということをあきらかにする。かれは、われわれの知識の大部分が不確実であることを倦むことなく強調する。しかもそれは、ヒュームのような懐疑的意図をもってするのではなく、人々をして自分たちはまちがっているかもしれないということ、さらに自分たちとは意見を異にする人々とつきあうにあたっては、この自分たちのまちがいの可能性を計算にいれておかなければならないということに気づかせる意図をもってするのである。かれは、諸々の宗派の人々の「熱狂」と、国王は神聖な権利をもつという教義との両方によってなされた諸々の悪をちゃんとみていたのだ。この両方に対して、かれは断片をよせ集めた形で政治理論をたてたのだが、これは実践上で成功を収めるかどうかによってそれぞれの真の吟味をうけなければならないものである」と、ロックにおける経験論と政治論の問題について、ラッセル自身が「哲学と政治」(『人類の将来』、山田・市井訳、理想杜、pp.28-29)でのべている。ラッセルの処女作は、『ドイツ社会民主主義論』(1896年)であり、かれの社会、政治への関心は数理哲学の余技であるどころか、すでに青年時代にさかのぼるものである。この書物でラッセルはマルクスの人道主義的な義憤とするどい現実分析に対して大いに同意を示しながらも、「大体においてマルクスの哲学の中でへーゲルに由来する部分はすべて非科学的である」とし、終末観的歴史観とそれにむすびついた弁証法の観念に対し、きびしい批判を加えている。1895年のドイツ訪問によってよびさまされたこうした政治への関心は、『プリンキピア・マテマティカ』執筆中もかわることなくかれの念頭よりはなれなかったのである。つまりラッセルは、この具体的・現実的な問題と抽象的なものとは外観上非常に異なっているが、両者を一貫した分析的方法で処理したといえる。与えられた対象をその究極的要素にまで分解し、これを結合する法則を見出し、ついにもとの対象を理論的に再構成してみることである。碧海純一著『ラッセル』(勁草書房)では、ラッセルの哲学と社会思想との間に緊密、直接な関連を見出すことはかれ自身の述懐に徴してもまた、客観的にみても困難である。しかし両者の間に存するいわば気質的な共通の特徴をわれわれはみのがすことができないとして、この種の特徴のうちで、「率直さ、経験主義、合理主義」の3つをあげている(pp.117-118)。ラッセル自身の『自伝的同想」(中村秀吉訳、みすず書房、p.15-17)は、かれの哲学をみるのに最適のものであるが、「明断な思考と思いやりのある感情」の必要性を力説しているにとどまる。ルイスはこの書で、ラッセルは、「一方では論理的・数学的形而上学と、他方では道徳的な定言命法の2分法」の2元論に堕し、「そこではかれはすべてのより進んだ哲学的探究をあきらめ、最後の20年間を殆ど全く社会的政治的宣伝に捧げたということをこの2元論に感ずる」といっている。ラッセルの分析的方法が古い形而上学的体系を実質的に取りかたづけ、このような経験的思考が定着して、より古い思弁的哲学が色あせたことを大いに力説してはいるのだが……。
「全体的な解釈、つまり人間への運命の問題への形而上学的な答の探究は、現代の哲学によってみすてられてきたのである」と。われわれはラッセルに大きな負債を負うているが、道徳的社会的啓蒙に関してはかれから転じて「より大きな力と実体の何かを探し求めねばならない」のである。
このあとがきを終えるについて、われわれはもう一度、『自叙伝』のまえがきにある「私は何のために生きてきたか」を思い出してみよう。「私の人生を支配してきたのは単純ではあるが、圧倒的に強い3つの情熱である――愛へのあこがれ、知識の探究、それから人類の苦悩へのやみがたい同情である……」と。
ラッセルは、1970年2月2日、北ウェールズのプラスペンリン丘で1世紀にもおよぶ波乱の生涯をとじた。われわれ日本人にも「ベトナム裁判」等多くの感銘を与えているが、私は、特に1961年2月18日の、核装備に対するプロテストとして、ロンドンのトラファルガー広場での坐りこみをしているラッセルの写真にいつまでも強く印象づけられている。このルイスの『ラッセル』(原著)の表紙もこの坐りこみの写真で始まっている。
この訳書が刊行されるについて、岐阜大学の玉井茂教授の暖かいご援助を忘れることができない。1968年から1969年にかけて、ハイデルベルク大学で哲学を研究する機会を与えられ、ちょうど、1968年はウィーンでの国際哲学会の年にあたっていた。9月2日、このウィーンでの国際哲学会開会式が、オペラハウスで行なわれたが、たまたま同じボックスになったのが玉井先生であった。以来約10日間、「マルクスと現代の哲学」のシンポジウムを中心に先生と行をともにし、ウィーンのシュヴァルツバルトを始め、見学やら買物にもお供をし、いろいろとご教示を頂いたのであった。この偶然の幸運がなければ本書は生まれなかったであろう。玉井先生は、ロンドンでルイスを訪問され、その際この『バートランド・ラッセル』を先生に紹介され、誰か日本語にと依頼されたことを話されたのである。以来、帰国後もなにかと暖かいはげましのことばを頂き、原著者ルイス教授への質問の労さえお取り頂き、ルイス教授のご教示を訳註として加えることができた。また、玉井教授は日本語訳への序文をルイス教授に依頼して下さったが、出版までに間にあわなかったのは誠に残念でならない。さらに小生の誤り多き訳文に目を通して下さり、このような形で出版できたのはひとえに玉井先生のおかげである。厚く先生にお礼申し上げる次第である。しかし、誤りはすべて小生の責である。大方の叱正を賜わらば幸甚である
また、ハイデルベルク留学の機会を与えて頂き、いつも小生の研究を暖かく見守って頂いている勝本鼎一学長に、あらためて御礼の言葉を申し上げたいと思います。そのほか、この訳書が出るに際して、実に多くの先生方にご教示頂いたことに厚く感謝している。また、ミネルヴァ書房の後藤郁夫氏、荒川洋子さんにはなにかとお世話をかけ、出版の運びにして頂いた。
最後に、この訳書も、いつも物心両面で面倒をかけ通しの山田貫、みちの両親に感謝の気持ちをこめて贈る。
1971年3月 六麓荘にて 訳者