バートランド・ラッセルのポータルサイト

「国家理性のゆくえ」

* 出典:『朝日ジャーナル』1975年9月19日号、p.3(=コラム「風速計」欄)
* 「パグウオッシュ京都会議開く、完全核軍縮求めて科学者ら36人が参加」


ラッセル関係電子書籍一覧
 第25回パグウォッシュ・シンポジゥム(京都)が終わった夜、湯川・朝永両博士は特に声明を発表し、人類が一つの岐路に立っていることを訴えた。
 ラッセル=アインシュタイン宣言は、1955年。それからの年月は決して短かったとはいえぬ。にもかかわらず、両博士の声明を必要としたのだ。それほどに核兵器廃絶への歩みは遅々としている。今年のシンポジゥムの成果は、核抑止論が妥当性を失ったことを認めた点にある。抑止論こそが核軍備の拡大と拡散を推進していた。核抑止論から核軍縮へ、同会議の基調が変わった意義は大きい。
 これまでのパグウォッシュ会議が、米ソ両国のコミュニケーションの場として有意義だったことは認められる。だが米ソは軍備管理の名のもとに、実際には軍縮とは逆の方向に動いてきたのだった。
 がんらい米ソの核競争は東西冷戦の産物だ。ところがキューバ危機を転機として、両国間には核戦争回避の機運が動きはじめた。世界中がホッとした。人類絶滅の危険性が遠のくのはよいが、それにつれて核兵器廃絶の初心が忘れられがちとなる。ところが専門家まかせにしていると、核兵器は拡大・拡散してゆく
 もはや東西問題の視点だけでは足りない。核兵器の生産と貯蔵に要する資材と費用を、南北の不均衡是正に使用してはじめて、世界に真の平和を期待できる。
 もし国家に理性があるなら、軍縮と南北の問題が、これからの国際関係の中心テーマとなってゆくのが本当だ。それは世界連邦運動へと発展してゆく。
 だが実際の国際関係では、小さな現実主義が幅をきかせ、核をめぐる矛盾といった大きな現実は、見失われがちだ。小さな現実主義の一例を、京都会議と相前後して結ばれた中東和平にみる。そこでは米国は、イスラエル、エジプト両国に巨額の援助を与えることになっているが、兵器の提供が援助の中心だ。この金で買われた和平と勢力均衡は、核抑止の論理と相通ずるものがありはせぬか。
 国家理性を信ずることはできない。それは監視を必要とする。監視の中心となるのは庶民と、その側に立つ科学者だ。パグウォッシュ会議が今後、そういう任務を果たしてくれるよう期待する。