加藤尚武「全数学の論理学化(バートランド・ラッセル)」
* 出典:加藤尚武著(宮田千・イラスト)『ジョーク哲学史』(河出書房新社,1983年9月)pp.240-250.* 加藤尚武(KATO, Hisatake, 1937~ )千葉大教授,京大教授,鳥取環境大学学長を経て、現在・東大医学系研究科生命・医療倫理人材養成ユニット特任教授。日本哲学会会長(1999~2003)。
*宮田千(MIYATA, Sen, 1923~ )日本漫画家協会会員。
論理学を軌道にのせたラッセルのパラドクス
ラッセル(Bertrand Arthur W. Russell, 1872-1970)は九十八年の永い生涯に、現代世界のほとんどあらゆる問題に鋭い発言を投げかけ、かつ積極的に行動した。彼の業績は数学、哲学、平和問題、社会主義、家庭問題、宗教論、科学論、教育問題等々と、多岐にわたる。サルトルのような傑作ではないが、小説も書いた。その文章は端正で、明晰で、ユーモラスである。「私は頭のもっともよく働くときに数学をやり、少し悪くなった時に哲学をやり、もっと悪くなって、哲学ができなくなったので、歴史と社会問題に手を出した。」このユーモラスな自己総括は残念ながら、事実ではない。
たとえば、彼は第一次大戦への反戦運動で投獄中に『数理哲学序説』を書き上げている。ただ、彼が数学上の業績をもっとも重く見ていることはたしかであろう。おそらく歴史的な評価も、右の言葉に準ずるであろう。
数学基礎論における論理主義をラッセルは代弁し、確立した。その立場は次の言葉に要約される。
「純粋数学の諸概念はすべて、ごく少数の論理的な基本概念によって定義できる。純粋数学の定理は、すべて、ごく少数の論理的な原理から演繹できる。」(『数学の諸原理』(The Principles of Mathematics,1903 序文)これは、(論理)記号のまったく純粋な機械的操作によって、全ての純粋数学の定理が導き出せるということを意味している。実際に1950年にIBMにいる中国人の数学者ワンは、IBM704という電子計算機を用いて、ラッセル、ホワイトヘッドの『数学原理(Principia Mathematica)』3 vols. のはじめの二百あまりの定理を自動的に証明してみせた。
数学が論理化されるためには、数学の内部に矛盾が入らないようにしなければならない。ラッセルは、集合論を公理化(少数の概念と公理から、定理を論理的・機械的に導き出すこと)すれば、数学全体を公理化できるという見通しを持っていたが、その当の集合論に解決できない矛盾が生ずることに気づいた。「ラッセルのパラドクス」と呼ばれるもので、今日では多くの数学パズルの本に面白く脚色されて載っている。新手の脚色を紹介しよう。
動詞は名詞である(松下注:動詞という「言葉」は名詞である。)。嘘ではない。辞書で verb を引けば、ちゃんと、名詞のしるしに、n. と書いてある。これに対して、名詞は名詞である。形容詞は名詞である(松下注:動詞の場合と同様。)、とも言える。動詞や形容詞は、いわば、「すねもの」で、自分が自分の家に住んでいない。動詞は動詞ではないのだ。名詞は名詞であるから「すなお」である。すべての言葉は、排中律によって、「すなお」か「すねもの(=すなおでない)」かのどちらかである。そこで、「すねもの」という言葉が、どちらに入るかを考える。「すねもの」が、すねものであるとすれば、定義上、「すねもの」はすなおである。「すねもの」が、すなおであるとすれば、定義上、「すねもの」は、すねものである。
ラッセルは、このパラドクスを解決するために、公理体系に「階型(タイプ)」という段階を導入した。つまり、ある言葉の意味の中にその言葉自身が入りこむことがないように、上と下の段階を区別するのである。これは大変わずらわしいことになるので、今日では、集合の要素になるものの資格審査をする方法など、別の解決策が出されている。しかし、ラッセルが自らパラドックスを発見し、その解決法を出したことが、論理主義を軌道に乗せることになった。
クレタ文字の解読
実は、解決すべきパラドクスはほかにもあった。中でも有名なのは「エピメニデスの逆理(パラドクス)」と言われるもので、昔ながらの形ではこうである。「クレタ人のユピメニデスは、すべてのクレタ人が嘘つきである、と言った」
だとすると、このエピメニデスの言葉も嘘なのだから、クレタ人は本当は正直なのかもしれない。この「逆理」は細かく吟味すると問題を残している。ラッセルは「私は嘘をついている」と単純化して見せている。(『私の哲学の発展』第7章)
――考古学上の重要問題のひとつに、クレタ文字と呼ばれる解読不能の文字がある。エピメニデスの発言をもとにして、この文字を解読することの不可能である理由は、論理的に解明できる。
ある晴れた朝、第二のシュリーマンが、この文字を解読する。すると、こう書かれている。
「この文字を解読したと称する人は、すべて嘘つきである」
解読が「正しい」ならば、解読者は嘘つきだから、解読は正しくない、ということになる。
常識でわかることでも論理学ではわからない
数は存在するか。数学者はしばしばこう自問する。われわれ素人は、「数学が存在するか」ときかれたら、「数学者が存在するので、数学が存在するかどうか知らない」と言いたくなる。何事にも過激で非常識な解答を好む点で、ラッセルはヒュームに似ている。「算術は、コロンブスが西インド諸島を発見したのと全く同様の意味で発見されるのでなければならない。コロンブスがインディアンを創ったわけではないのと同じことで、われわれは数を創造することはできない。・・・なんであれ、思考の対象となりうるものは、すでにそこに存在していたのであり、またその存在は思考されることの必須条件でこそあれ結果ではない。」(『マインド』誌、n.10,p.312、1901年)
中世哲学の用語で言えば、普遍の実在を認める実念論である。ただしラッセルでは、数も西インド諸島も同じ実在であるから、近代的な意味での「実在論」でもある。しかし、一角獣、金むくの山、丸い四角、最大の素数が、バートランド・ラッセルや自然数と同じように実在すると信ずるのは、あまり意味がない。実在の中に、実在する実在と、実在しない実在、を分けなくてはならなくなる。問題は、その差異の指標が立てられるかどうかである。ラッセルは立場をやわらげる。
「論理学が一角獣をみとめてはならないのは、動物学の場合と同様である。なぜなら、論理学も動物学と同様、現実の世界を相手にするものであり、ただその、より抽象的で、より一般的な面をあつかう点がちがうだけだからである。」(『数理哲学序説』第16章,1919年)ラッセルは「一角獣が紋章学の中に存在する」などというのは「憐れむべき逃げ口上」だと言う。そこで論理学から一角獣という実在を排除する方法を考えなくてはならない。
たとえば文学史の本に「源氏物語の著者は、枕草子の著者にたいする底意地の悪い観察をその日記にしたためていた」と書かれていたとする。修辞学者ならば、「源氏物語の著者」とは「紫式部」を示す「換楡」(metonymy)と言うところだ。それならば「紫式部は源氏物語の著者である」は、「紫式部は紫式部である」と言うのと同じことか。
ラッセルは微妙な例を持ち出す。「スコットはウェイヴァリの著者である」という例である。「国王ジョージ四世は "スコットがウェイヴァリの著者である" かどうか知ろうと欲したが、しかし「スコットがスコットである」かどうかを知ろうと欲したのではない。」(『私の哲学の発展』七章) この例は「永井荷風は『四畳半襖の下張』の著者である」とか、「フィヒテは『あらゆる啓示の批判』の著者である」というのと同じ含みを持っている。これが「フィヒテはフィヒテである」と言っているのでないことは常識にはすぐ分る。
常識に分ることが論理学には分らない。論理学は「二つの句が同じ対象を指示する場合、その一つを含む命題は、他方を含む命題によって常におきかえられることができ、しかも、はじめの命題が真であれば、後の命題も真であり、はじめの命題が偽であれば、後のも偽である」(同)と定めてなりたっているからである。これを「外延性の公理」と言う。「同じ元からなる二つの集合は互いに相等しい」と言いかえても同じことである。
常識にわかっていることを論理学に教えこむ方法
外延性の公理の上になりたつ論理学に、「スコット」と「ウェイヴァリの著者」の違いを教えこまなくてはならない。「『スコット』は「固有名」であるが、『ウェイヴァリの著者』は記述である。固有名が、その名づける何ものかが存在しなければ、一つの命題において有意義なものになれないのに対し、記述はそういう制限にしばられない。」(同)固有名と記述を区別しないと奇妙なことになる。「現在のフランス国王」が固有名だとする。排中律を用いれば、「現在のフランス国王はハゲである」と「現在のフランス国王はハゲていない」という二つの命題のうち一方だけが真である。世界中のはげ頭と毛頭を二つのグループに分けてみても、現在のフランス国王はどちらのグループにもいない。主語になっている言葉が、まがいものなのである。こう言えばいい。「xのあらゆる値に対して、『xはウェイヴァリを書いた』は、『xはスコットである』と等値である。」(同) 同じようにして「黄金の山」、「現在のフランス国王」、「丸い四角」を書き直す。「『xは金むくであり、かつ山である』という命題函数は、xのあらゆる値に対して偽である。」(同) これが常識に分っていることを論理学に教えこむ方法である。論理的固有名詞以外の名詞的表現はすべて述語に分解されてしまう。ここから「意味」、「指示」、「固有名」、「存在」等々の概念について様々の問題が生じて来て、今日でも多くの哲学者を悩ませている。哲学者を悩ませることは、哲学者の存在理由であると言ってもいい。
ラッセルの悩み
ラッセルが英米の各地で、「良識派」の人々から激しい非難を浴びたのは、彼の政治思想のためであるよりも、結婚観と女性関係のためである。正式の結婚は四回だが、恋人がほかに何人かいた。二度目の結婚をしたドーラと離婚する段になって、その間にドーラの産んだ4人の子供のうち2人がラッセルの血を受けていないことが判明するというスキャンダルもあった。最後の結婚をした時、ラッセルは八十歳だった。相手は大学教授をしたこともあるイーデス・フィンチで、端正な感じの人である。ラッセルがイーデスと恋をしている頃、ヴィトゲンシュタインは癌の病状が悪化して、放浪生活の足を洗ってイギリスに戻って来ていた。
――ラッセルの『偽叙伝』にはこう書かれている。ヴィトゲンシュタインを見舞ったラッセルは、話のついでに、イーデスとの恋を告白し、そして、
「私はもうそろそろ八十歳だが、二十歳ほど若く見せる方法はないだろうか」と老いらくの恋の悩みを打ちあけた。病的なほど潔癖なヴィトゲンシュタインは、その言葉をきくと、怒りに燃えたような目でラッセルを見すえた。ラッセルはパイプをくゆらせている。その手には、深いしわが刻まれている。「ああ、ラッセルも老いた。自分も死の床にある。」 ウィトゲンシュタインの心が少しやわらいだ。そして言った。
「貴方は数学者でしょう。答えはすぐに出せるはずです。八十歳の貴方がイーデスに二十歳若く見られたいなら、「自分は百歳だ」と言えばいいのです。」
経験論の基本テーゼの再確認
経験論者ロックとヒュームも、経験論と同じ前提に立っていたバークリも、数学の確実性と経験の可謬性との間に立って苦慮せざるを得なかった。数学を論理化することは、どうしても可謬的な経験から必然的な数学が生まれるかという問いを不要にした。経験は科学に与えるデータの一種である。「われわれは観察と経験によって何を学びうるか。物理学に関して言えば、感覚の直接的なデータ immediate data of sense すなわち、一定の空間・時間的な関係をともなう、色、音、味、匂い等々の一定の細片 certain patches なしには何も学びえない。」(『神秘主義と論理』第八章) 分子、原子、電子のようなものも「感覚与件との相関関係においてのみ検証されねばならない。」(同) こうしてロックのタブラ・ラサ以来の経験論の基本テーゼが改めて再確認される。当然、ここからはロック流の第一性質と第二性質、カント流の現象と物体(松下注:「物自体」では?)、言葉をかえれば、感覚与件とその原因となる存在を分けることができるかどうか、という問題が生じてくる。
この点でのラッセルの考えは、哲学者としては史上まれに見るほど多くの変遷を重ねている。「感覚与件説は放棄した」と断定したこともあった。(『精神の分析』1921年)心的な出来事としての感覚と物理的なものとしての感覚与件とを区別することができないと考えたためである。夢と現実、私的な感覚と物理的与件、多様な可変的な現われとひとつの恒常的な物、これらの区別と関係を経験論的に説明すべく、ラッセルは様々な工夫を試みる。比較的一貫しているのは、夢と現実の区別はできないという論点ぐらいのものであろう。しかしいずれにせよ、物理学全体が、「感覚与件」、「現在する感覚」、「感覚的な出来事」と言われるような第一次的データに基づくことは否定されていない。この点ではラッセルは経験主義の正統派であることをやめなかった。
内的関係
マルクス、キルケゴール、サルトル、ラッセルはいずれもへーゲル批判をバネとして自分の思想を形づくった。ラッセルが他の三人と決定的に異質であるのは、へーゲル哲学のかくれた前提である「関係の内在性」を否認する点である。関係が関係の項と存在の結びつきを持つことを否定する。それゆえ、ラッセルでは原子論が可能になるが、マルクス、サルトルでは原子論はなりたたない。キルケゴールが単独者と言った時にも、単独者は神との内在的関係を持つ。ラッセルの自由主義には原子論的あるいはモナド論的個人主義という背景がある。ラッセルの一見奔放な愛情生活も、個人主義の発露であろう。彼は自分の配偶者が自分以外の相手と交渉をもっても「嫉妬といういやしい感情」をつべきではなく、もたないことができると信じた。内的関係の否認というテーゼは、ラッセルの学問、生活、意見の全てに一貫する唯一のものである。――彼は内的関係の不在に悩むことはなかった。世間からのいかなる非難にも超然としていられたし、最初の妻アリスとは九年の結婚生活において、性関係を持たなかった。(松下注:そうではなくて、1901年に愛情がもてなくなったことをアリスに告白してからは殆ど性交渉がなくなり、1911年に別居。)その間は他の女性とも交渉を持たなかった。しかし、1918年の投獄中に、女友達の一人コレットに恋人ができたと知った時には、「嫉妬で三日三晩、獄中で眠れなかった。」(『自伝』) ボーボワールの絶えることのない情事に嫉妬を「抑えるべきだ」と自分に言いきかせていたサルトルと似ている。この時、はじめて――『偽叙伝』によれば――ラッセルは己れの原理を呪った。
「私の学問と思想の全てをすててもいい。コレットとの内的関係が得られるなら」(松下注:もちろんこれはジョークです。)