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金子光男「バートランド・ラッセル教育思想の日本的課題」

* 出典:『教育新時代』第29号(1970年4月号)pp.7-15.
* 金子光男 氏(1919~?)は
* 『教育新時代』は、世界教育日本協会(=世界新教育学会)
* No.29=「バートランド・ラッセル追悼号」

(1)

 およそ古今東西の教育の歴史を通じて、偉大なる教育者はと問われた時、誰もが一応、西欧ではペスタロッチを、そして日本では吉田松陰をそのなかにあげるだろう。そしてまた私もその例外ではない。しかしそれと同時に、この二人とはちがった意味で、私はバートランド・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell, 1872-1970)をあげたいと思う。ラッセルはもとより純粋な意味での教育学者ではない。しかし彼の多くの著書のなかにみられる教育に関する卓見はすばらしい教育理論であり、しかもあの有名なビーコン・ヒル・スクール(Beacon Hill School) の教育(1)は,彼がいかに子どもを愛したかという貴い証拠であり、立派な教育の実践者であったかということを示すものである。
 そもそも教育とは、人間の内体約・精神的機能を正常で活発なものとして、幸福な生活を送ることのできる能力の育成をめざして営まれる仕事である。そして科学技術が長足に進歩した現代における教育の重要な問題は、多くの弊害をもつこの近代文明に耐えうる人間を育成することである。この点について、ラッセルの教育的発言と行動は、これらの問題に種々の解明を与え、また現代日本の教育の在り方についても多くの示唆を投げかけているのである。

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 現代日本の教育は、戦後二五年間の変遷をへて、種々の学園紛争を媒介としながら、教育全般の体質改善と制度の全面的再検討という重大時期に直面するにいたった。かつて一九二一年に日本を訪問したラッセルは、五〇年も前に日本の教育の今日あることを予言し、その教えこみのすばらしきはあるが、じつにばからしい教育もしていると述懐していた(2)。現在の日本の教育は種々の課題を蔵しているはずである。私はラッセルの教育に関する考え方のなかから、その課題と直結するものをひろってみたいと思う。したがって、ここでは彼の教育思想の全般的展望とかその教育哲学の探究を述べるということではなくて、彼の教育思想における日本的課題という点にしぼって考察してみようと思うのである。

(2)

 まずはじめに、われわれはラッセルの教育に対する基本的立場を明らかにしておこう。彼は、わずか半世紀の間に二回にわたる世界大戦争がありしかも今度は人類が核戦争の脅威の前にひれ伏しているという歴史的動向をするどくとらえ、この「狂った世界」(3)から人間を救うものこそ教育であると確信していた。彼は一九一四年に第一次世界大戦が勃発したときに、当然戦争によって損害を受けるべきイギリス民衆が逆に熱狂的に戦争を謳歌するという現実を目撃し、人間性には調和よりも衝突を愛好する衝動(an impulse to conflict rather than harmony)(4)があるという事実をつきとめ、この民衆心理のなかに教育の誤謬を発見した。彼が教育について開眼を行ったのはこのときからであった。
 ラッセルは、当時の教育制度の弊害や従来の伝統的教育(traditional education) の在り方に疑惑を感じていた。それは伝統主義教育基本的知識の注入だけに終始して知性と情緒の形成を抹殺し、心ゆたかな感受性をはぐくむ人間性の育成に欠けるものがあったからである。彼の立場は どちらかといえば進歩主義の陣営に属するのであったが、その進歩主義教育(progressive education)も系統的知識の啓培や論理的判断の育成を欠いている点があった。彼は現代のように科学技術が進歩し、大衆化現象が浸透した社会にあっては、この深刻な時代を強く生き抜くことのできる「かなり突っ込んだ本質的な教育」(a very considrable dose of sheer intstuction)(6)をしなければその任に堪えることはできないと考えていた。
 ラッセルは、彼自身が二人の子どもの父親となってから、教育問題への理論的な探究が始まり、『教育論』(On Education, especially in early childhood, 1926) の序文で、次のように親としての悩みを語っている。「世間には、著者と同じように幼い子どもをできるだけよく教育しようと思いながら、しかも現存教育制度の種々の弊害に子どもをさらしたくないと考えている親が多数いるに違いない」(6)。しかし世間一般の親たちはいつのまにか教育的良心を放棄して、現状と妥協してしまう。彼によれば、世間の親たちの望むところは、子どもを真の人間たらしめるところの「それ自体においてよい教育」(an education which is good in itself)(7)ではなくて、他人の子どもよりも上級学校へ進出させ、やがては立身出世や栄達をはからせようとすることなのである。彼は子どもを愛するがゆえに、教育における種々の障害の除去にその努力を集中したのである。
 さて日本の教育は、そのほとんどが上級学校への予備校的存在となって、断片的知識の詰込みという受験準備体制を露呈して、その阻害的状況は拍車を加えつつある。最近ようやく教育の正常化が唱えられてきたものの、本来的教育を取戻すのはいつのことであろうか。ラッセルのいう「それ自体においてよい教育」は、子どもに正しい判断力や批判力を育成すべきものであって、ある特定の信条が真理であるというような確信を育成すべきではなく、真理に対する欲求を育成すべきものである。(Education ought to foster the wish for truth)(8) しかも教育は、往々にして政治権力や宗教的迷信や伝統などに操作されやすい。教育がこのようなものに操作されないで.その本来性を維持するためには、真実と虚偽とを判然と弁別することのできる能力を育成しなければならない。ラッセルは、これを「知性」(intelligence)といい、そして「知性の教育」(Education of intelligence)(9)を高くかかげるのである。
 彼によれば、知性とは、一定の形式をもった断片的知識ではなくして、子どもが「独力で獲得しかつ健全な判断を下すことのできる精神的習慣」(mental habits which will enable people to acquire knowledge and form some judgments for themselves)(10)のことである。従来の教育はこの知性を窒息させていたのであって、これからの教育は科学的精神に裏付けられ、合理的疑念(rational doubt)(11)を媒介としたこの知性によってはじめて疎外的状況におかれている子どもたちを、それ自体においよい教育に推進するのであり、それがさらに真実の教育(true education)(12)へと発展してゆくのである。

(3)

 次に、現代日本の教育で考えなければならないことは、科学技術の進歩と倫理の後進性とのアンバランスから生ずる、種々の危機を乗り越えていくことのできる強い意志をもった人間の形成」いうことである。戦後の子どもは進歩主義教育によって、個性や自発性を尊重する教育を受けてきた。しかし真に個人主義に立脚していない日本にあって、それは自己中心的な生活態度を醸成し、自己の欲望のままに勝手に行動するという風潮を起こしてきた。かくして自由は放任となり、創造性は利己的・打算的となって、社会連帯性や責任観念を欠如した人間が形成されるようになった。
 とくに最近はめざましい機械文明の発達によって、人びとは物質的条件に恵まれすぎて精神的独立性を喪失するにいたった。かくてこの多くの弊害をもつ現代文明に対抗しうる人間の身体的・精神的活動をいかにして維持し強化するかということが教育の重要な任務となったのである。そのことは、換言すれば、自己をしっかり確立するという教育をしなければならないということである。ラッセルはたしかに自由主義教育の旗手である。しかし彼のいう自由は、ただ外部的統制の欠如というようなものではなくて、真実の自己へと志向する自由であり、それは「自由と訓練の適度の調和」(a somewhat subtle mixture of freedom and discipline)(13)を意味するものである。真実の自己を確立し、善き習慣を形成するためには、完全な自由や放任は必要ではなくて、子ども自身の「内部からの自己訓練」(an internal self-discipline)(14)が大切である。
 ラッセルは、現代教育において重要な任務(→現代教育の重要な任務)は、たんに知識や技術の量ではなくて、「人間の自己自身に対するたたかい」(the conflicts of man with himself)(15)としての自己形成が必要であると主張する。すなわち、彼ば子どもをあらゆる障害や壁にぶつけさせてそれに対決させ、それを克服させる力を養わなければならないというのである。自己自身とのたたかいを怠った教育は、子どもをたくみに外的なものに適応させ、また、妥協させる人間を形成する。本当の教育は、子どもの物の考え方・感じ方を皮相的にとらえるのではなく、自己との対決を通して奥深い次元へ掘り下げ、またそこから掘り起こして、かれら自身の内部に定着させなければならない。ここに真の意味における「勇気」(1courage)の重要性が存在する。
 ラッセルの教育思想の研究で知られる J・パーク(Joe Park)は、ラッセルの教育思想のなかでとくに「教育と善き人生」(Educatin and the Good Lifez)(16)を論じ、そこで知性の教育(Cultivationa of Intelligence)と勇気(Courage)とをあげ、(続いてい感受性と生命力とをあげているが、これらについては後で論ずる)、勇気とは非合理的な恐れをもたないことといっている)(17)。じつにラッセルのいう勇気とは、一般の世論と自己の所信とが相容れないとき、たとえそのための自己が世間の評判を得られなくとも、自分の見解が重要であると信じたならば、堂々と恐れないでこれを表明することである(18)。彼は現代社会において、いわゆる協力の名のもとに多くの妥協が行なわれているという病弊をするどく批判し、協力が真の協力となるためにはつねに独立の精神と個人の創意とが存在しなければならないことを強調したのである。これからは、とくにこのような勇気ある人間が必要なのではなかろうか。
 われわれの生きているこの時代を、人間的な矜持をもって生き抜くためには、たしかにラッセルのいう勇気と不動の信念(courage and unshakable conviction)(19)とが必要である。そして人間にとってのこの意志の強さと肉体の内部からわきだしてくる活力は、自発的な歓喜を生ずる「感受性」(sensitiveness)(20)につながる。人間社会が殺伐となり味気なくなればなるほど、人間の精神もそれにつれて荒廃し乾燥してしまう。教育は、この損傷された人間的感覚を取り戻し、秩序と調和を求める審美的探究心や創造的喜びを育成するものでなければならない。
 ラッセルは、ビーコン・ヒルースクールの教育実践を体験し、その後教育に関する理論的追究はさらに体系化され、やがて『教育と社会秩序』(Education and the Social Order, 1932)となってまとめられた。これは教育におげる競争と対立の弊害を指摘し、友好と協力の精神を鼓吹したものであるが、このなかで彼は 「近き将来においてもっとも重要なことは、人間としてのいきいきとした感受性を教育によって育成すること」であるといっている。(21) 彼のいう感受性とは、社会的に認承される喜びであり(22)、人びと相互の幸福を促進する好ましい行動への刺激のことであるが、現代社会の悲惨と病弊とはこれらの刺激がもととなって治療されうるであろう。そしてこれは、われわれが不幸に陥ったり災害にあったりすることに対して、たがいに共感(sympathy)しあう能力ともなり、人間の経験を想像的に建設することによって、人生ははるかに高貴なもの、美わしきもの(ママ)であるということを示す成果をあげることになるのである。
 彼の主張する「抽象的な刺激に対する感受性」(sensitiveness to abstract stimuli)(23)の考え方は、心ゆたかないきいきとした感覚を育成し、近代科学に裏切られた現代人を人間性の深みにひそむ諸力に訴えて再興しようとしたのである。ここにわれわれは彼の「感受性の教育」(Education of Sensitiveness)の重要性を理解することができる。おもうに戦後の日本の教育は、健康教育とならんで情操教育がおおいに欠如していたことは否定できない。それが道徳的・芸術的また宗教的な内容であっても、感受性にもとずいた共感の能力こそ、これからの教育の課題となるであろう。まさに彼のいう「愛情に動かされ、理性にみちぴかれて」(Inspired by love, and guided by reason)(24)】ということばのように。

(4)

 きらに現代日本の教育の問題点は、子どもないし青年たちが、このような社会状態のなかで、理想をかかげることも希望を持つこともできないで、ただ無力感や孤独感におし流され、小市民的生活態度に安住しているということである。若い人たちは、そのなかに活動の源泉である多くのエネルギーを成しているのであるが、これが正常の方向に発動するのでなく異常な方向へ浪費されていきやすい。現代の教育はこれらの人びとのエネルギーを正常な方向へ発動させてゆくものでなければならない。いまこそ生きるに値する生活の探究に志向されるペきである。
 教育とは人間を活かす仕事であり、子どもに「生き甲斐のある生活」(the life good to live)をするように教えなければならない。つまり今日の教育は、かれらを強靭な生命力をもった人間に育成する使命を持っているのである。ラッセルは、現代を強く生き抜く人間はいかにあるべきかを追究して、「生命力」(vitality)をあげる(25)。彼のいう生命力とは、身体的健康と精神的正常とを両方同時にその根底において支持している人間の生命力のことである。生命力は、いかなるできごとにも容易に興味を持たせ、これによって精神の正常さにとって本質的な客観性を増進させ、またあらゆる不幸と困難とを乗り越えさせる(26)。今日のように多くの人間が生きる希望を喪って怠惰な絶望に陥っているとき、人間に希望を与えるものは、知性のほかにはこの生命力が必要である。それゆえに、ラッセルは言っている。「われわれの世界に希望を維持するためには、われわれの知性とエネルギーが要求されている」(27)と。じつに人間にとって、くずれ落ちようとする自己の精神を鞭撻して、創造的衝動を発揮させるところに、生き甲斐が存在するのである。
 ラッセルがとくに人間の「生命力の教育」(Education of Vitality)を重視したのは、彼が伝統的・因習的教育のなかに子どもの生命力を抑圧する各種の傾向をみたからであり、教育のあり方如何によって、この貴重な生命力が増進されたり減退されたりすることを痛感したからである(28)。それにしても、現代の日本の若い人たちは、余りにも真の若さを喪失しているのではないだろうか。人間の生命力はただその年齢だけで理解するのは正当ではなく、その新鮮さや情熱的であることや精神がいきいきしていることなどの諸点から考えて観察するのが妥当であ(29)。その点からいって、ラッセルはこの二月まで完璧に近い健康を維持し(松下注:これは言い過ぎ/時々病気になっている。)、九七才という超人的年齢まで壮者を凌ぐ活力でもって、世界平和のための運動に挺身していたことを考えれば、彼にこそ無限のバイタリティが秘められていたということができるであろう。
 私はラッセルの教育思想のなかで、それが日本的課題と直結するものとして、真実をつきとめる知性の教育自己とのたたかいを通じた訓練の教育ゆたかな感受性の教育そして生きるに値する生涯を探究する生命力の教育などを見出してきた。このラッセルのあげた生命力・勇気・感受性および知性の四つは、じつに人間純粋の望ましい状態であり、相集まって理想的性格を形成する特質なのである(30)。すなわち、知性は知識を、感受性は感情を、勇気は意志をあらわして、これらが相合して人間の精神的要素を形成する。そしてこれと並行して、生命力が身体的要素をあらわして、ここにすべてがたがいに提携して一つの総合体を形成する。そしてこれが現代危機を突破するに必要な生活力を創造するのである。換言すれば、彼は心身の調和的発達にもとずいた全体的人間像を確立しようとしたのであった。すなわち、彼は人間性のなかに秘められた能力を調和的に発揮することによって、この危機に直面した人間存在の復興を試みたのである。彼は言っている、「これらを調和的に身につけた人間から成る社会は、かつて存在したいかなる社会よりも幸福なものとなるであろう」(31)@と。
 ところで、ラッセルは、この人間像形成における四つの要素が調和的に統合された状態を「正気」(sanity)と称し、そのような教育「人間を正気にする教育」(Education which makes men sane)(32)と言っている。それは現代の社会があまりにも狂気的な社会であり、その教育があまりにも疎外的な状況を呈していることへの批判である。これからの教育はもとより変革をめざす教育である。しかしながら、その結果として社会の改造を期待する教育でなければならない。ラッせルは、教育開眼にあたって人間性に注目した。そして人間性を探究することによって彼の理想的な人間像形成の理論を展開したのである。その意味で、彼の教育は人間性を回復する教育ということができるであろう。おもうに、日本の教育もまた当然人間を正気にする教育でなければならないし、期待される人間像が問題となったことを考えるとき、ラッセルの人間像形成論には、多大の課題が示唆されているのである。
  

(5)

 ラッセルは、歴史の動きをするどくとらえる知牲と、これから社会をつくっていこうとする子どもたちへの深い愛情とをもって、あらゆる人間性を信頼し、将来に新しい希望を託していた。とくに子どもと青年に対しての期待は枯れることのない泉のごとく暖かい心情にみちあふれていた。われわれは、あのビーコン・ヒル・スクールで、慈父のような笑顔で子どもたちと遊んでいた彼の生活のなかに偉大なる教育の姿をみることができる。
 日本の教育も戦後の教育の功罪をふまえたうえで、ようやく将来的展望が行なわれようとしている。しかし現代社会でただちに教育に新しい生命をふきこむことはむづかしいかも知れない(32)。しかし、それでもなおわれわれは「教師こそ、教育を前進させる力である」(the teacher is far the best of the forces concerned in ecucation)(34)ことを強調しなければならない。教師は、現代の危機から子どもを救い、教育を正常な状態に戻すために、堅固なる決意と不断の努力とを払わなければならない。そして教師がその使命を遂行できるかどうかということば、じつにこれまで考えてきた教育のあり方を教師自身が自分の問題として受け止めて解答するかどうかにかかっているのである。
 そのために、教師はその自由を回復するために、持久的な運動を展開すべきである。それには、教師は現代の当面する問題が、人間が生活の主体者とならないで客体者となっているという兆候であるという時代悪について確実な認識を持たなければならない。そうしてこの時代悪をしっかりと認識し、それに対してただ傍観者としてではなく、対決者として情熱をもって強烈なたたかいを、持久的につづけ得る人間となることが大切なのである。かくしてはじめてラッセルのいう「教育は新世界を拓くカギである」(Education is the key to the new rorld)(35)ということができるであろう。私は、この心をおのが心として、教育に精進したいと思う。そして、そのことが今はなきラッセルに応える唯一の方法であることを信じたいと思う。(当時、東京家政大学教授)


(1) Joe Park: Bertrand Russell on Education, VI: The Beacon Hill School, pp.137-158. Alan Wood: Bertrand Russell, the passionate sceptic, xvii: Beacon Hill School, pp.157-165.
(2) Bertrand Russell: Scepptical Essays, p.159
(3) Bertrand Russell: Education and the Social Order, p.246
(4) Bertrand Russell: Principles of Social Reconstruction, p75
(5) Bertrand Russell: Portraits from Memory and Other Essays, p.14
(6) Bertrand Russell: On Education, especially in early childhood, Introduction, p.9
(7) Bertrand Russell: Sceptical Essays, p.189
(8) Bertrand Russell: Principles of Social Reconstruction, p107
(9) Bertrand Russell: Sceptical Essays, p.158
(10) Bertrand Russell: Sceptical Essays, p.159
(11) Bertrand Russell: Fact and Fiction, p.57
(12) Bertrand Russell: On Education, especially in early childhood, Introduction, p.132
(13) Bertrand Russell: Education and the Social Order, p.40
(14) Bertrand Russell: On Education, especially in early childhood, Introduction, p.73
(15) Bertrand Russell: New Hopes for a Changing World, p.12
(16) Joe Park: Bertrand Russell on Education, V.: Education and the Good Life, pp.97-136.
(17) Joe Park: ibid., p,105
(18) Bertrand Russell: On Education, especially in early childhood, Introduction, p.64
(19) Bertrand Russell: New Hopes for a Changing World, p.184
(20) Bertrand Russell: On Education, especially in early childhood, Introduction, p.56
(21) Bertrand Russell: Education and the Social Order, p.27
(22) Bertrand Russell: On Education, especially in early childhood, Introduction, p.56
(23) Bertrand Russell: ibid., p.57
(24) Bertrand Russell: Alan Wood: Bertrand Russell, the passionate sceptic, p.231
(25) Bertrand Russell: On Education, especially in early childhood, Introduction, p.48
(26) Bertrand Russell: The Conquest of Happiness, p.228
(27) Bertrand Russell: Portraits form Memory and Other Essasys, p.54
(28) Bertrand Russell: On Education, especially in early childhood, Introduction, p.49
(29) A. S. Neill: The Free Child, pp.8-9
(30) Bertrand Russell: On Education, especially in early childhood, Introduction, p.48
(31) Bertrand Russell: On Education, especially in early childhood, Introduction, p.65
(32) Bertrand Russell: Education and the Social Order, p.247
(33) Bertrand Russell: Principles of Social Reconstruction, p155
(34) Bertrand Russell: Scepptical Essays, p.188
(35) Bertrand Russell: On Education, especially in early childhood, Introduction, p.66