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(批判と反省) 家永三郎「「関特演」の違法性」

* 出典:『歴史学研究』n.317(1966年7月?)pp.50-55
* 家永三郎氏(1913~2002.11.29,享年89歳)は当時、東京教育大学(現筑波大学)教授、歴史学者。(本人の遺志により、2002.12.01、家族だけで密葬)

 本年(1966年)6月8日付の朝日新聞夕刊は,バートランド・ラッセルが,「過去12年間,べトナムでの毒ガスおよび薬品の使用,拷問,ナパーム弾投下,ベトナム人民に対する爆撃および野蛮な行為」に対して,アメリカ大統領ジョンソン,国防長官マクナマラ,国務長官ラスク,大使ロッジらの欠席裁判を開く準備を進め,世界の著名な法律家や文学者に対し,この裁判(松下注:国際戦争犯罪法廷、いわゆるラッセル法廷)に参加するよう招請状を送ったことを報道した。(松下注:「欠席裁判」といっても、もちろん、出席などするわけはないとしても、ジョンソン大統領らに対し、召喚状を送ってはいる。) 『経営と経済』第104号に掲載された長崎大学経済学部の岩松繁俊氏の論文「バートランド・ラッセルの平知思想と反帝国主義」は,ラッセルの今回の決意が,彼の長年月にわたる反戦思想の帰結として導き出されたものであり,決して一朝一夕の思いつきでないこと,裁判は100ないし200人の証人をヴェトナムから招いて3か月にわたり継続せられ,周到な証拠がためを行ない,その記録映画,審問のレコードの作成,全証拠書類の出版を行なう予定であることを詳しく紹介している。
 私はこの報道に接し,電撃を受けたようなはげしい衝撃を身に感じた。それは,このような着想が日本人には考え及ばないところだったからである。日本人にとって裁判とは,「お上のなさるしごと」であって、林健太郎氏(松下注:後に=1973年4月~1977年3月の間、東京大学第20代総長)の言葉を借りると,「法律上の係争問題については最終的には裁判所の判決に従う」という消極的・受動的な思考方法から過去においてもかつて脱却できなかったし,現在なお脱却できないでいるのである。日本人の惰性的な思考方法からすれば,公権力を有しない一哲学者が,世界最大の強国の元首をはじめとする権力者たちの犯罪に対する「裁判」を行なうなどということは思いもよらぬ発想であった。しかしラッセルは,現実にそのような計画の実行に着手しているのである.私たちはこれを単に反帝(=反帝国主義)とかヴェトナム戦争反対運動とかの政治的な次元において理解するだけでなく,歴史・法・正義といった哲学と科学との根本的範疇にかかわる学問的次元において受けとめ,ひとり私たちの社会的実践の様式に対してのみならず,学問的思考様式に対する深刻な反省のための教訓をそこから汲み出すだけの用意が必要なのではないだろうか。
 日本でも,敗戦直後に民間において戦争犯罪人の指名が行われた例がないわけではなかった。しかしその場合それは「戦事犯罪」についての法的根拠に関する十分な研究に立脚していたものであったかどうか疑問であったし,またその指名の範囲や選択の基準にも多くの問題があり,その上,そうした発想をその後も継続的に発展させ,戦争犯罪に対するうむことを知らぬ責任追及をつづけることのなされないまま,いつのまにか立ち消えとなってしまったのである。占領軍による戦犯裁判が開始されると,日本人の目はすべてそこだけに奪われてしまい,日本における戦争犯罪の問題は,単に占領軍の軍事裁判の問題の範囲だけに限定されてしまった観がある。横田喜三郎氏(松下注:1960.10.25~1966.08.05の間、最高裁判所第3代目長官)らは軍事裁判を全面的に支持し,清瀬一郎氏らは弁護人としてこれに全面的に抵抗した。そしてその後今日にいたるまで,日本における戦争犯罪の問題は,軍事裁判の当不当・適法違法という形でしか論ぜられてこなかった。「大東亜戦争肯定論」と称する主張が出現し,これをめぐって論争が行なわれ,「(大東亜戦争)肯定論」の側では極東軍事裁判所判決のパール少数(反対)意見をかつぎ上げたりしているけれど,日本人自身の自発的・主体的責任において15年戦争(太平洋戦争には,満州事変・日中戦争と区別された教義の意味に用いられる場合と,満州事変までをふくめた広義の意味に用いられる場合との広狭二通りの用法があるので,ここでは混同をさけるために15年戦争という名称を使用)の法的評価を積極的に行なおうとする発想は,今日までほとんど全く生じていない。昭和和30年9月17日付の朝日新聞に掲載された酒井特派員の「ユーゴ紀行」は,「他圏の人に裁判してもらってそれで終ったことにしているのは少しのんきすぎるように思いますが……」という,日本の戦犯裁判についてのあるユーゴ人の感想を報道しているが,戦争犯罪人の裁判を「人民の名において」自ら行なったユーゴ人としてそのような感想をいだいたのは当然であったろう。


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 ユーゴばかりではない。ドイツでも占領軍による戦犯裁判のほかにドイツ人自らの手による戦犯裁判が行なわれた。しかし日本人は日本人自らの手による戦犯裁判をついに行なわなかったし,行なおうともしなかったのである。もっとも現実に特定個人の刑事責任に対し公権力による裁判を行なうことは,日本の現実の歴史的状況の中では,たとい実行しようと思っても,おそらくむつかしかったにちがいない。しかし私が戦後の日本の社会を構成していた一人としての自己批判をもふくめてふりかえってみるとき,いっそう重要なのは,たとい公権力による刑事裁判の実行が不可能であったにしても,思想や学問の領域において,戦争犯罪ないし戦争をめぐる日本国家ならびに国家機関構成員の行為に対する法的評価を,厳密な論理と実証とに基づいて徹底的に遂行しようとする試みが全く企てられなかったところにあるのではあるまいか。15年戦争についての諸種の記録・体験談・歴史的研究・文芸作品・政治的または感情的論議の類は無数に公にされた。しかしその全体または個々の事実に対する学問的方法に基づいた法的評価は管見に属するかぎり皆無にちかいように思われる。たとい公権力による戦争裁判が実行されなくても、学問的次元においての法的責任の究明は可能であったしまた当然なされねばならないはずであったにもかかわらず,法律学界にも,歴史学界にも,哲学界にも、そのような問題意識さえ提起されることなしに今日にいたったのではなかろうか。私がラッセルの企図のニュースに接し、はげしい衝撃を受けたのは、それがまさに右のような日本の思想界・学界の盲点をつくものであったからである。ラッセルが世界の文化人を集めて米国大統領を「裁判」してみたところで,彼らに刑罰を加える方法のありえないことははじめから知れている。しかし思想・学問の次元で考えるならば,そのような「裁判」でもそれを実行することにはきわめて重大な意義があるのである。ラッセルのように公権力をもたない人でさえ,やろうと思えば「裁判」を行なうこともできるのである。まして学問の領域で法的責任の究明を行なうことくらいいつでも自由にできたのに,日本ではそれさえもなされなかった。私たち日本の思想家・学者の怠惰は免れがたいと思う(その原因について論ずることは,現代日本思想史の根本問題にふれることともなり,到底ここで簡単に論じ尽せる性質のものでないが,その一つとして,日本の思想界には,歴史を力対力の関係としてとらえる思考様式が優勢で,正義の観点から物事を見る思考様式の発達していないという事情を数えることができるのではなかろうか)

 占領軍による軍事裁判には,さまざまの問題がふくまれている。しかし日本人自身の自主的な立場からの法的評価,特に国内法の観点からする法的責任の究明および持定個人を実際に処罰する目的を放棄した学問的・思想的次元での論議ということに問題を切りかえるならば,軍事裁判の場合に提起された法律上の難問はほとんど全部解消してしまい,きわめてすっきりした形での法律的判断がなし得られたはずであったのである。
 事実に即して15年戦争をふりかえってみるならば,それは犯罪行為・不法行為の連続であったといっても言いすぎではない。極東軍事裁判所条例に定められたごとき問題の多い法律上の基準をまつまでもなく,国内法だけに照しても,日本の国家機関またはその構成員の行動が違法性にみちみちていたことは,何人の目にも明瞭である。むしろ私たちはそれがあまりにも自明の事実であるが故にかえってその一つ一つに具体的に擬律(注:裁判所が判決において法規を具体的な事件に適用すること)を行なうのがばかばかしいような気持になり,その結果いつのまにかそれらの法的責任を解除してしまったかのごときムードをつくり出すという正反対の効果を生み出してしまった,というのが実情なのではなかろうか。15年戦争は,満州事変からの一連の戦争であり,満州事変は柳条溝事件なしには起らなかったのである。そして柳条溝事件が幾人かの日本軍人および民間人の共同謀議による計画的行為であったことは,今日一点の疑を容れる余地はない。当時の実定法であった陸軍刑法第35条には「司令官外国二対シ故ナク戦闘ヲ開始シタルトキハ死刑二処ス」,刑法第93条には「外国二対シ私ニ戦闘ヲ為ス目的ヲ以テ其予備又ハ陰謀ヲ為シタル者ハ3月以上5年以内ノ禁錮ニ処ス但自首シタル者ハ其刑ヲ免除ス」とあり,柳条溝事件はまさしく右の規定に該当する刑法上の犯罪行為であったし,関東軍内部の犯人と共謀してこれを援助するために増援部隊を独断派遣し,交戦に参加せしめた朝鮮軍司令官の行為も,陸軍刑法第35条のほかに同第37条の「司令官権外ノ軍ニ於テ巳ムコトヲ得サル理由ナクシテ擅ニ(せんに・ほしいままに)軍隊ヲ進退シタルトキハ死刑又ハ無期若ハ7年以上ノ禁錮ニ処ス」という規定に該当する犯罪行為であったというべきである。しかもこの犯罪行為に対し,当時の日本の国家権力は捜査も処分も全然行なわなかったのみか,これに加工する行為を次々と加重して行き,ついに中国との全面戦争からさらに米・英をはじめとする多数の国々との戦争にまで進んで行ったのであった。したがって15年戦争は,9箇国条約・不戦条約その他の国際法違反を論ずるまでもなく,国内法的観点のみからいっても犯罪行為を起点としてその連続線上に展開した一連の行為であるという意味において,総体的に明白な違法性を具えていたといわなければならぬ。その戦争遂行過程において,国内・外地にわたり,例えば刑法第2編第2章の内乱罪,陸軍刑法第2編第1章の叛乱罪のそれぞれの未遂または予備・陰謀行為とか,刑法第193条以下の職権濫用罪とか,陸軍刑法第86条の戦地・占領地における略奪・強姦の罪とか,その他刑法の定める殺人・障害・暴行・放火・強盗・強姦・収賄の罪とか,国際法違反の他にも数え切れないくらいのおびただしい犯罪行為が,権力者の手により,日本人および敵国ないし被占領地住民に対し加えられてきたことはいわば公知の事実と言ってよいが,それらをすべてひっくるめて,15年戦争における違法行為に対する学問的検討が,戦後20年の今日にいたるまで,公然と論議せられる機会を全然有しなかったということは,実践的観点からばかりでなく,学問的・思想的観点からしても大きな手落ちであったと言うほかないであろう。15年戦争に対する無責任な弁護論・肯定論を横行させるにいたったのも,右のような法的評価の試みの欠如がその重要な一因をなしていることに改めて注意をはらわなければなるまい1)

 昭和16年の「関特演」をめぐる見解の対立のごときも,このような観点から厳密な法律的検討を加えておく必要のあることが痛感される。「関特演」は,『独ソ戦争ノ推移帝国ノ為メ有利ニ進展セハ武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決シ北辺ノ安定ヲ確保ス」という昭和16年7月2日の御前会議決定に基づき,「独ソ戦争ノ推移」が「有利ニ進展」した際にソ連に対し「武力ヲ行使」する目的を以てなされた大規模な軍事行動であって,ソ連領に進入しその一部を占領した場合の計画さえそなえていたが2),「独ソ戦争ノ推移」が「有利ニ進展」しなかったので中止となったのである。このような行為が,御前会議決定のわずかに2月半前に締結せられた日ソ中立条約第1条の「両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ且相互二他方締約国ノ領土及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス」の内,「友好ノ関係ヲ維持」するという約束に反する違法性を有する行為であることは一点の疑を容れない3)。ただそれが実際にソ連領土への侵略を実行する以前に中止せられた事実に徴し,「他方締約国ノ領土及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス」という規定に反するか否かについては,少しく複雑な理論的検討を必要とするであろう。
 一般に国際法は国内法と異なり,その違反に対する制裁規定を欠くのを常とするから,国際法上適法であるか違法であるかを条約の文面だけから簡単に決定できない場合が多い。したがって国際法の解釈には文理解釈のみでなく,類推その他の論理解釈を必要とする。1920年の常設国際司法裁判所規定は,その第38条第1項において,同裁判所が適用する法源の一つとして,「文明諸国によって認められた法の一般原則」(Les principes generaux de droit reconnus par les nations civilisees を挙げている。すなわち文明諸国に一般に認められている国内法上の諸原則が国際司法裁判にも適用せられるとしているのである。重大な犯罪について,既遂だけでなく未遂ならびに予備陰謀をも犯罪として取り扱うことは,文明諸国によって認められた法の一般原則である。例えば,日本が昭和16年当時「外国ニ対シ私ニ戦闘ヲ為ス目的ヲ以テ其予備又ハ陰謀ヲ為ス」ことを犯罪と定めていたことは前述のとおりである。「関特演」は,日ソ中立条約第1条の「友好関係維持」規定に違反した既遂行為であるばかりでなく,「領土及不可侵尊重」規定違反を目的とする予備・陰謀行為でもあった。ただし未遂と予備・陰謀とのいずれに該当するかは刑法適用上しばしば事実認定をめぐり見解の分れるところの微妙な問題であるけれど,いずれにしても侵略戦争という最大の国際犯罪行為の法的評価に当って,予備・陰謀にも犯罪性を認めることは文明諸国によって認められた法の一般原則に照して明らかであろうから,たとい未遂にいたらない予備・陰謀の段階にとどまるものであるにしても,それが違法性を有することは異論を容れる余地のないところと認められる。林健太郎氏は私に対し,「エクセントリック」という罵詈(罵詈雑言)を加え,その理由の一つとして私が「関特演」の違法性を説いた事実を挙げ,次には「関特濱」という「実際に行なわれた行為」をあたかも「心の中で考えたこと」にすぎないかのごとき詭弁を弄し,私がくり返し主張した未遂や予備の行為にもまた法が適用されるという法理論に対しては,最後まで一言も反論を加えることができなかった。林氏が本誌314号に投じた私に対する反論は,「関特演」をめぐる最大の論点である未遂・予備行為の違法性について一言も反論できないことを示している点で,「関特演」論争としては全くナンセンスであるばかりでなく,その前に長々と述べられている読売新聞の公正性についての弁解にいたっては,一体どこが私の主張に対する反論としての意味をもっているのか全くわからない無意味な文章の羅列にすざない4)。しかも,あいかわらず私の言いもしないことをまるで言ったかのように述ぺる5),林氏得意の手口がくり返し用いられており,氏の人物をますます明瞭に露呈させている。本誌309号の拙稿において,私はたしかに林氏に対しかなり強い言葉を用いて道徳的・人格的非難を加えた。しかしもともとこの種の人格的攻撃は,林氏のほうからさきに私に向い加えられたのであるという事実を忘れないでほしい。私は正当防衛のために,私の意に反して最小必要限度の反撃に出ることを余儀なくされたにすぎないのである。私は単に自分と異なる学説を有する研究者に対し,「エクセントリック」とか「異常」とかいう罵詈(罵詈雑言)を加えたり,相手が発表したこともない説を「発表した」など、言って中傷したり,相手が言いもしなかったことを言ったかのように攻撃して相手を陥れるといったやり方の議論までをも「言論の自由」として容認することはでぎないので,林氏が私に対して加えてきた右のごとき加害行為に対しては,福田恒存氏が私に対してなした加害行為とあわせ,その道徳的・法律的責任を徹底的に追及してやまない覚悟を有することを,この機会に宣言しておこう6)学問的にあまり生産的でないこのような論争に時間とと精力とをついやすことは実のところもうウンザリしており,一度はやめる気にもなったのであるが,本稿の冒頭で述べたとおり,15年戦争の責任の徹底的追及を怠ったことがどのような結果をもたらしたかを顧みるとき,学界・論壇における不法・不正の言論の責任追及を中途半端で放棄することは,ひとり正義に反するばかりでなく,日本の思思界に巨害をのこすおそれが少くないと予想されるので,あえて好ましからぬ役割を徹底的に遂行する決意を固くした次第である。



1)この点で,現在のヴェトナム戦争に対して,戦争の進行中から早くも戦争の違法性について,世界各国の思想家・学者がめんみつな論議を展開していることは,やはり戦後の新しい世界史的進展を思わせるものがある。ラッセルの活動のほか,例えば日本でも日本民主法律家協会・青年法律家協会等諸団体の「ヴェトナム戦争と国際法」その他の労作が数多く公にされているし,いっそう感銘深いのは,アメリカのごとき,一見コンフォーミズムに塗りつぶされているように見える国の内部からさえ,例えばジョン=サマービル「ベトナム戦争はアメリカ憲法違反である」(『朝日ジャーナル』7巻35号)とか、アメリカのヴェトナム政策に関する法律家委員会の意見書(『法律時報』第38巻第8号)とかいう,堂々たる違法性追及の学問的成果が次々に発表されている事実である。15年戦争下の日本の内部に,日本人の手になる戦争違法性の学問的究明がなされなかったのは,表現の自由がほとんど奪われていた当時の客観的条件の下ではいたし方なかったところであるにもせよ,戦後に表現の自由の回復された後にも占領軍の軍事裁判の擁護・批判という限定された観点から脱却し,自主的な問題意識に基づく法律的研究を生み出しえなかったのは大きな盲点であったといわねばなるまい。
2)島田俊彦氏『関東軍』によれば,「関東軍は合計34個師団におよぶ厖大な兵力で極東ソ連領に対して攻勢をとり,北樺太,カムチャッカを含むルフロウ付近以東の極東ソ連領の重要地域を占領しようという」のが「関特演」の目的であって,「参謀本部では,動員の決意6月28日,動員下令7月5日,開戦決意8月10日,作戦開始8月29日,作戦終了10月中旬ということで日程を組」み,「田中作戦部長を中心に戦争指導計画の研究を進め,その一環として,『対ソ戦争に伴う満州国取扱要領」が決定され,「武力解決発動に伴う占領地行政に関する研究』も行なわれた」という。林三郎氏『太平洋戦争陸戦概史』では,「関特演は,独ソ戦が独軍側に迅速且つ有利に進展するとの見透しに基づく対ソ武力行使の準備であった」と明記されているし,服部卓四郎氏『大東亜戦争全史』にも「満州国は作戦地として相貌を一変し,且つこれら作戦準備のため」に厖大な「作戦資材」が集積されたが,「関東軍においては」その「企図の秘匿を図っ」て「関東軍特別演習と呼称し」た,と記されている。林健太郎氏が本誌314号に投じた拙稿への反論中で,「ソ連領に出撃する」「ための実際的な準備は何もなされなかった」と言い,服部氏の著書の名を挙げているのは全く事実に反している。氏が「1941年夏に日本が満州に兵力を動員し,その計画の立案途上において,独ソ戦の帰趨如何によってはソ連領に出撃するということが想定されたことは事実である。しかしそれすら日本の国策として最終的に決定されたものではなかった」と言っている点も,事実に反している。何となれば,「関特演」は7月2日の御前会談の決定に基づき,7月7日、天皇の裁可を得て実行されたものであり,国家機関の正式決定を経た行為であるばかりでなく,参謀本部では6月28日に動員を決意し,同時に8月29日に開戦する日程まで組んであったというのであるから,「その計画の立案途上で出撃」が「想定された」などという林健太郎氏の叙述が全くのでたらめにすぎないことは明白であろう。
3)林氏は「対手国に宣戦し,武力攻撃を加えた」のでなければ条約に反しないと主張されるもののようであるが,氏は一体日ソ中立条約の本文を読んだことがあるのだろうか。それとも,対手国に対し開戦期日まで予定した上,侵入のための「作戦準備」を進める目的で国境に大軍を動員することも「友好」を「維持」する行為であると言われるつもりなのであろうか。
4)『歴史学研究』309号の拙稿中61頁左側第2文段に述べたことには一点のまちがいもなく,314号の林氏の文章の62頁右側第2文段から63頁左側15行までの主張によって,私の述べたことは一つとして否定されていない。私が昭和40年10月26日号の林氏の論説に対する反論を投書したが没書にされ,編集局長宛抗議文を送った結果,はじめて私に反論の機会が与えられるにいたったこと,これに対し林氏は,11月9日・lO日の2回にわたり私への答えのために紙面を存分に使えたのに対し,私には13日に1回分だけしか反論のスペースが与えられなかったこと(私に対する原稿の分量は毎回指定され,林氏のように書きたいだけ書けたのではない。「家永氏が私の文章と同じ長さの反論を書かれたら読売新聞はそれをそのまま載せたであろう」という林氏の想像論は事実に合していない),新聞社が私の2回目の反論を最後としてこの論争を打ち切ると通告してきたこと,したがって,その後にもういちど林氏に書かせたのは信義に反する措置であること,林氏はいつでも書きたいときに原稿を送れば載せることのできる特権をもっていたのに反し,私は向うから指定された時に指定された枚数だけ書く機会しか与えられなかったこと,要するに読売新聞が私にとり公平な論争の土俵ではなかったこと,もっとも私は,最終反論を要求したのに拒否されたなどと言ったおぼえはないこと,これらはみな事実であるから,林氏の前引部分の所論は拙稿に対する何の反論ににもなっていない。
5)林氏は,まるで私が「『法律の専門家』を以て自認」したかのようなことを,読売新聞11月20日号と本誌314号とに2回にわたって書いているが,何時私が法律の専門家であると名乗ったことがあるか。私は,林氏の「私も家永氏同様法律の専門家ではないのであるから」といった卑劣な抱きこみ戦術(何故「家永氏同様」などと書く必要があるのか。自分のことだけ書けばよいではないか)に憤激して,林氏などと「『同様』と見られてはかなわない」と言ったまでである。私は,例えば数学や自然科学などについて専門家でないことを明瞭に公言するであろうが,自分が責任をもって発言していることがらについては,その主張が正しいか正しくないかという観点から判断してもらいたいこと,専門家であるとかないとかいうレッテルで判断してもらいたくないことを要求する権利があると信じている。また私は隣接諸学問間には厳密な意味での境界など立てられるものでなく,問題によっては専門・非専門の区別をするのがかえって有害無益であるという持論をもっているので,そう考えている私が自ら法律の専門家を以て自任するなどといったばかげた態度をとるわけがない,グレンツゲビートに関して,専門非専門を区別するのはよくない,というのが私の真意なのである。
 林氏は,「殺人が行われなかった場合,人を殺そうと心の中で考えただけで殺人罪が成立するというような法律がどこにあろうか」と言っているが,何時私が「心の中で考えただけで殺人罪が成立する」などと言ったか。ここにも林氏の例の卑劣な手口がくり返されている。読売新聞11月20日号で林氏は,「心の中で考えたことは法の適用の範囲外である」と断定したので,私はその命題を反駁するために,「心の中で考えたこと」でも「法の適用の範囲外でない」ことくらいは法律のイロハである」(本誌309号)と言ったまでである。林氏は最初「心の中で考えたことは」と言い,「心の中で考えたことでも」と私が反論したら,今度の反論で「ことは」「ことでも」を「だけで」とスリかえてしまった。ここに林氏が常套手段に用いる手品の種の仕組まれていることを指摘しておこう。このように相手の言いもしなかったことを言ったかのように曲言して相手を陥れようとする論法を「詐術」と呼ぴ,そのような論争のやり方を「卑劣」と呼ばなければ、世の中に詐術・卑劣の名に値する行為が他にあるであろうか。
 他方林氏は,私が林氏に加えた多くの重要な反論に対しては,頬被りでおし通すという態度をとっている。次にそのいくつかを箇条書に列挙しておこう。

 a)教育基本法第10条の意味は,「教育基本法が国会に提案された際に文部大臣が明言しているし,制定後に文部当局者たちが共同して執筆した『教育基本法の解説』という本にもはっきり書いてある」(読売新聞11月5日号),という私の提示した「証拠」の史料価値について林氏は,今日にいたるまで全然反論を示していない。
 b)右の「証拠」に対し林氏は,それは「あくまでも『一つの説』であって,歴史家の当然準拠すべき『証拠』 というようなものではない」(読売11月201日号)と言われたので,私は林氏が「明白な論点」を「スリカエ」たことを指摘し,それは「学者として恥ずぺき卑劣な態度」であると非難した(本誌309号)。林氏はわざわざ右309号の拙文に答えを寄せながら(本誌314号),このいちばんかんじんの非難に全然答えていない。
 c)「昭和35年には」自分は「史学会の役員ではなかった」し,現在も自分は役員ではない(読売11月10日号)という氏の主張がでたらめであるという私の2回にわたる反論(同紙11月13日号・本誌309号)にも,また昭和35年lO月22日の国会答弁書を「演説」と誤読されること(同紙11月20日号)により,この重要な文書のもつ歴史的意義について全然予備知識のなかったことを暴露した(本誌3091号)という批評にも,全然答えていない。
 d)「関特演」が「具体的な外形をとって『行なわれた行為』であって,『心の中で考えた』ことではないにもかかわらず,あたかも心の中で考えたこと」であるかのごとき強弁を敢てしている」(本誌309号)という私の非難にもまともに答えてない。
 e)「関特演」は昭和16年7月2日の御前会議の決定にしたがって行なわれたのであるから「立派に『国策として』行われたものである」(『中央公論』昭和31年5月号)という10年前からの私の一貫した主張に対し,林氏は何の反証をも示すことなく,本誌314号の答えでも,「日本の国策として最終的に決定されたものではなかった」という同一命題をくり返すにとどまり,私の反論にまともに答えていない。
 f)大正5年5月4日の判例によれば,「刑法第201条の予備罪は,一旦同条の予備行為に着手し,其の幾分を為したるときは,其の後に至り,仮令任意に之を中止したりとするも,同条の制裁を免るることを得ず」とあり,予備行為に着手した以上,任意に中止したとて違法の責任を免れるものでない(『中央公論』同上)というこれまた10年前からの私の一貫した主張に対し,今日まで全く反論がなされていない。私は本誌309号の拙稿で重ねて「既遂の行為ばかりでなく,犯罪の種類によっては未遂の行為から、さらに予備的行為(林氏のいわゆる『計画』だけで「実行されなかった場合をふくむ)だけで犯罪が成立する場合のあることなども,また法律上常識に属する」ことをくり返しておいたにもかからず,本誌314号の林氏の答えではこのかんじんの点をことさらに回避し,「人を殺そうと心の中で考えただけで云々」という,私の言いもしなかったことを言ったかのように曲言する詐術的論法ですり抜けようとしたことは前述のとおりである。なお,氏の右の文章では,「実際に殺人が行われた場合」と「もし殺人が行われなかった場合」という二つに区分して,前者の場合にのみ殺人罪が成立し,後者の場合には殺人罪は成立する余地がないと言っているとしか受けとれぬ形で論述されているけれど,これまた,氏が未遂および予備・陰謀の違法性認識を脱落させている結果にほかならない。「実際に殺人が行われなくても」,「殺人罪」の成立しうることは,刑法第2編第26章の章名と弟201条・3条の規定によって明白である。

6)林氏は,読売新聞昭和40年lO月26日号の文章で,なんら具体的理解を示すことなく、突然私に対し「常識を逸した」「エクセントリック」という罵倒を浴びせた。私がこの不愉快きわまりない論争にまきこまれるはめに追いこまれたのは,この不法なる奇襲攻撃に基づくものである。しかも,その「常識を逸した」とか「エクセントリック」とかいう形容の実体は何かといえば,「関特演」および大学の自由についての私の見解が,林氏の見解と違っているというだけのことにすぎない事実が判明した(読売11月9日号)。しかも,大学の自治についての私の「説」なるものが悪質なねつ造であったことは,その後の論争ですぐに明白となった。私は正当防衛の必要上,林氏に対し心ならずも強い非難の言葉を使用しなければならなかったが,私は常に氏が論争のルールまたはエチケットに反した言説を行なった場合にかぎり,かつ具体的事実に基づき非難の言葉を用いるにとどめたのであって,単に意見が相違するというだけの理由で氏を罵るような挙には出なかったつもりである。林氏は「人に『卑劣』とか『詐術』とかいう言葉を加えることをあまり好まない」そうだが,自分と異なる意見を有する人物を「エクセントリック」とか「異常」とか罵ることはたいへんお好きであることを事実の上で示された。私は本誌309号で述べておいたとおり,「自分と異なる意見の所有者を道徳的・人格的に非難することはもっとも欲しない」けれど,相手の不法な攻撃によって陥害せられてもなお相手を「道徳的・人格的に非難すること」をがまんしなければならない義務はないと信ずるし,むしろそのような不正とたたかうことが正義を維持するために必要であると考えている。私はあえて読者にお願いしたい。この論争は単なる見解の相違に基づく争いではなくて不法なる加害行為に対する正義を守るためのたたかいであることを理解せられ,はげしい言葉が用いられているという表面上の現象に目を奪われて,単なる感情上の争いと見なされざらむことを。