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日高一輝「バートランド・ラッセルの日常と人間性」

* 出典:『ラッセル;チャーチル』(主婦の友社、1971年、ノーベル賞文学全集・第22巻「月報」)pp.4-5.
* 日高一輝は当時、ラッセル協会常任理事、相模女子大学講師

 わたくしは、1959年12月から1962年3月まで、ロンドンでラッセル卿のもとにあって親しくその日常を見、その人間にふれ、行を共にして多くのことを学ぶことができたし、その後も1969年までほとんど毎年のようにロンドンのラッセル邸を訪れてはその謦咳(けいがい)に接してきた。

 ラッセルの日常生活はきわめて几帳面で、日課がきちんとしていた。朝7時起床内庭を散歩してから朝食午前8時から11時30分まで新聞(ザ・タイムズ、ガーディアン、テレグラフ、ニューヨーク・タイムズ、ヘラルド・トリビューン)を読み、ニュースをきき、手紙の処理に当たる。手紙も1日100通ぐらいの平均で来ていた。午前11時30分から午後1時まで、来客に接し、執筆に当たる。午後1時昼食のあとは夫婦でくつろいで朗読を楽しむ。午後2時から4時まで読書、調べもの午後4時お茶午後4時から7時まで客と会見、執筆、研究午後7時タ食後はクラシック音楽のレコードを楽しむ。午後8時から深夜1時まで読書、執筆。夜の読書は、晩年にはインドや中国の古典が主であり、とくに東洋の哲学にうちこんでおられた。聴覚の方が特にすぐれていたとみえて、読書といってもほとんど夫人や秘書に読んでもらってそれを聞くのであり、執筆といっても、口述して秘書に書きとらせるのが主であった。このように、朗読するのを聞く方がわかりいいし、また、口述して書きとらせる方がやりよいとラッセル自身が語っておられた。
 夜ベッドに就いて寝つかれない時は、詩を吟じたり、愛唱歌を口ずさんだりすると間もなく眠れるとも言っておられた。嗜好としてはスコッチ・ウィスキーパイプ・タバコであった。スコッチはレッドハックルに決まっていて、食事ごとに卓上におかれていた。シガレットは全然喫われなかった。たまに映画や音楽会にいかれることがあっても、宴会や外でのつきあいは一切断わっておられた。

 ラッセルは、礼儀を重んじ、作法をやかましくいわれた。自宅にあってもいつもネクタイをきちんとしめ、靴をはいておられた。規律正しい生活であった。彼は規律こそ教育の根本であると言い、自分で創設した実験学校でも規律を厳しくされた。それがまた彼が特に青年たちをいましめておられた遵法精神に通じるものでもあった。

 ラッセルは、宗教のドグマと形式と制度化を排したが、自ら書き、そして訴えるときのあの真摯な態度はまさに祈りつつする者の態度であったように思う。一日中家にひきこもったままで瞑想にふけっておられることもあった。「永遠なるものと普遍なるものを求めて」とか、「生命の根源をたずねて」とか、ラッセルがよく語られた言葉であった。真理こそが求道の目標であったし、真実をつらぬいて権力にも屈しない、平和反戦を叫んで投獄をも辞さない、そこに宗教家以上の殉道的実践があった。

 ラッセルは、町角の花売りの少女のためにも、また一介の乞食のためにも財布の底をはたく人であった。インドの無名の青年やアフリカの黒人を連れていっても、喜んで迎えて、真剣に語ってくれる人であった。彼は英国一流の貴族でありながら、それを少しも意に介しないで貧しい労働者たち、虐げられている大衆の味方であった。それが、ヴュトナムをはじめ東南アジアやアフリカ諸国の自由、解放、独立を支援する運動につながった。彼は欺瞞、野心、狂信、独善、そして暴力と戦争を憎んだ。そして純潔な青年達と共に生命をかけて平和のためにと叫びつつ、97年の生涯を反骨精神で貫いたのであった。