日高一輝「バートランド・ラッセルの平和運動」
* 出典:『理想』n.448(1970年9月号)pp.58-64.* 日高一輝氏(写真右)は当時、ラッセル協会常任理事、相模女子大学講師
* 由良君美氏は、同じラッセル特集号掲載の論文「ラッセル卿のために」の冒頭で、「・・・。わたくしには理解できない。なぜ、ラッセルをかつぐことで、自己の存在理由をなりたたせてきた人たちが、この『理想』誌のラッセル追悼号にその心血をそそごうとしないのかが。・・・、果ては、ラッセル思想の理解すらどうかと思われる猟奇の文章を、彼の死にさいして週刊誌に寄せ、あまつさえ、ラッセルの生涯をその女性遍歴史を中心に描いたベストセラーによって産をなそうという手合いにたいしては、仲間と思って頂いては迷惑至極であることを、まず申しあげておこう。」と書かれている。これはあきらかに日高一輝氏らに対する非難の言葉と思われる。由良君美氏は、日高一輝氏が同じ号に、この論文を執筆・掲載する予定であることを知らなかったようである。
I
一九四五年、第二次世界大戦の終結とともに、ラッセルをして猛然と世界平和運動に駆り立てたものは、実はヒロシマ、ナガサキであった。ラッセルは、一九三八年以来、シカゴ大学、カリフォルニア大学、ハーヴァード大学の客員教授としてアメリカに滞在し、ニューヨーク市立大学教授に任命されては、あの有名な「バートランド・ラッセル事件」に遭遇し、家族と共に惨憺たる逆境に喘いだりするのであるが、第二次大戦終結の前年にようやく英国に帰国することができた。ケンブリッジ大学の教壇にも復帰することとなったラッセルは、今後は愛してやまなかったイングランドの田園に居を構えて、静かな読書と執筆の生活に入ろうと決意していた。
そのラッセルにたいして、原爆の衝撃はあまりにも強烈すぎた。とうてい黙視することが出来なかった。一つには、米国に対して発した憤りからであり、いま一つは、人類の将来に対する危機感からであった。
まずラッセルは、米国の欺瞞的な態度に我慢がならなかった。米国は、原爆を投下したのは日本の戦意を失わせるためであったと言い、そうでもしなければ第二次大戦を終結させることができなかったと宣伝したが、それは真赤な嘘だったとラッセルは言う。彼は、こう語った――
それから、人類の未来に対する危機感については、ラッセルは、原爆がやがてソ連にも保有され、つづいて各国に拡散していくだろうし、原爆から間もなく水爆に発展していくことを予見したのだった。終戦のこの時点において、何とか思いきった方法を講じなければ、おそらく人類はとり返しのつかない悲運に陥るに相違ないと考えた。「日本政府は、ヒロシマ原爆より六ケ月も前にすでに降伏を決定していた。スターリンを介して、トルーマン大統領に和平の交渉をすすめていた。米国政府はそれを知っていながら、それが表にあらわれない前にというので、広島と長崎に原爆を投じた。そして一般には、日本人を降伏させるために、ヒロシマ、ナガサキの原爆が必要だったと思いこませようとした。しかし実のところは、原爆投下には三つの動機があった。一つは原爆の性能のテストであった。二には、ソ連を牽制し、脅威をあたえるためであった。三には、ヴェトナムをはじめ東南アジアの民族に恐怖をあたえ、民族独立の指導者たちに、アメリカに抵抗する希望を失わせることにあった。ソ連の指導者たちは、とうにアメリカの真意を見抜いていたが、西洋一般の人人や、東南アジアの民族主義者たちや、それから日本国民も、ヒロシマ、ナガサキは戦争終結のためだという米国政府の作りあげた神話をうけいれたようだった。ところが実際は、広島と長崎の市民を大量虐殺したことは無法きわまる罪悪行為であった。その罪に対して、西洋人のことごとくが責任を負わなければならない。それは、西洋人の共通の名において行なわれたからである」
ラッセル著書解題
(1945年)十一月二十八日、ラッセルは英国国会上院の壇上に立った。彼は伯爵位継承者として上院で演説をする資格をもっていた。演説の全文が国会議事録百三十八巻第三十号に載っている。ラッセルはこの演説で、
(1)熱核融合反応によって原爆よりもっと強力な破壊力を、もっと安価に生産することが出来るようになると説いた。
すなわち水爆の登場を予言してこう警告した――(誤訳がありますが、そのまま掲載します。)
「ただ単に人間だけでなく、あらゆる昆虫やあらゆる種類の生き物、すなわち広い地域にわたって生存している一切のものを殺す放射能をもった産物を一面に吹きかけることが容易に出来るようになりましょう」(II)戦争の抛棄(放棄)を訴えて彼はこう叫んだ――
「戦争は無くされなければならない。戦争をたびたび起こさないというだけでは不十分である。世界が戦争を無くする道を見出そうとしないかぎり、この地球から人間が消え去ってしまうことになりましょう」(III)核兵器を共同管理し、いかなる強大国をも抑えるに足るほどの実力をそなえた国際組織を創造しなければならない、と訴えて次のように提唱した――
「国際連合を原子力の貯蔵所にするのでもいい。ともかくも先ず、核兵器を国際管理しようという意志をつくらなければなりません。それが出来てはじめて管理機関をつくることができます。ひとたび管理機関が存在し、唯一の原子力貯蔵所である強力な国際機関が出来てはじめて、真に大戦争を喰い止めることができましょう。戦争の方が止むか、さもなくば全文明人類の方が終わってしまうかです。」
こうしてラッセルは、戦争を絶滅して平和秩序を創造するところの「世界オーソリティ(World Authority)」すなわち、世界政府(World Government)の確立を唱道したのである。このようにして、終戦直後に展開されたラッセルの平和運動は、まずこの世界政府運動の推進であったのである。もちろんラッセルは、モントロー(モントルー)会議、ルクセンブルグ会議等を経過し、ジュネーヴにおける「世界連邦憲法起草世界人民会議」にいたってようやく軌道に乗ってきた「世界連邦のための世界運動(現在の世界連邦主義者世界協会の前身)」にも力をそそいだし、その会議ごとに指導的メッセージを寄せてきたが、特に彼の主力をそそいだのは、国会委員会すなわち国会内の世界連邦主義者グループの指導育成であった。ラッセルは、国連を強化して世界連邦に発展させるにしろ、核兵力の国際管理機構を創造するにしろ、それは国家間の協力結合によって促進されなければならない、そのためにはそれぞれの国家意志が決定されなければならない、国家意志決定のためには国会の決議がなされなければならない、国会の決議のためには国会議員の大多数が世界連邦主義者にならなければならない、と考えたのであった。ラッセルはよくそうした会合に出席されたし、国会委員会の国際会議のためにはローマ、パリにも赴かれた。
ラッセルの世界政府の構想は、現実的かつ具体的なものだった。要は、いかにして、戦争の危険を防止するかに焦点がしぼられていた。戦争を予防するように立案された「世界連邦憲法」の下に、その機能を十分に実行し得る権力をそなえ、他の何れの国によっても抵抗され得ないだけの軍事力をもつ行政府の必要を強調した。世界政府は、核兵力を独占的に管理し、必要とするいかなる兵器をも製造する権力をもち、いずれの国からも新兵を募集する権力をもつのに反して、各国の方は警察行為に必要なだけの実力をそなえるだけであって、核兵器その他の大量破壊手段を保有することが出来ないのだから、世界政府軍の兵力は非常に大きいものである必要はないし、各構成国に厄介な重荷を課することはないとした。しかもそれは、各国から応募した国籍混淆の部隊であるから、アメリカ派遣軍、インド派遣軍、ヨーロッパ分遣隊、アジア分遣隊といったような性質のものではないし、その高級指揮官も、大国の圧力を排するために、とうてい世界支配の希望をいだくことの出来ないような小国出身の人を当てるべきだとした。さらにこの行政府は、構成各国がはたして軍縮規定や禁止規定に服従しているかどうかを確認するために、監視や査察を行なう権限をもつべきであるとした。このようにして、戦争の危険を防止することに成功した世界政府は、世界中の各地域の生活水準を向上させ、経済的平等を実現させるよう、生産と流通の調整に努力すべきである、それはとりも直さず、世界の安全と恒久平和追求の実践であるとした。
それから、ハーグの国際司法裁判所のような「世界法廷」が必要であるとした。世界憲法、世界刑法等の一連の法規に違反した行為を裁き、処罰する法的手段が必要である、しかしそれは、ニュルンベルク裁判のように戦勝国が敗戦国を裁くことを正義とするようなものではないとした。
世界立法府の構成はもちろん連邦制である。連邦組織は、ほぼ同数の人口を基準とした下部連邦組織をもって構成すべきであるとした。ラッセルは次のような下部連邦組織を提案した。
(1)中国、(2)印度およびセイロン、(3)日本およびインドネシヤ、(4)パキスタンからモロッコにいたる回教世界、(5)赤道地帯のアフリカ、(6)ソ連とその衛星諸国、(7)西欧、英国、アイルランド、それからオーストラリヤおよびニュージーランド、(8)米国とカナダ、(9)ラテン・アメリカ。その他、ユーゴースラヴィヤ、イスラエル、南アフリカ、朝鮮に関しては、後に適当な機会に決定したらいいとした。
各下部連邦から世界立法府への代表の選出は、それぞれその人口に比例して数を決める。世界立法府は、その下部連邦の対外関係だけを審理すべきであって、戦争の危険か或は違憲行為がふくまれていないならば、下部連邦相互の関係、ならびに一つの連邦組織内の各構成国間の関係を審理すべきではない。それから世界立法府は、その承認しない、いかなる下部連邦相互間、ならびにその連邦構成国相互間の条約をも無効とし、必要な場合は現行の条約をも改正する権限をもつべきであるし、平和に対する危険をふくむと考慮される如何なる暴力的国家主義者の教育制度にも反対する権限をもつべきであるとした。
II
ラッセル英単語・熟語1500 |
ラッセルは、この水爆競争は断じて許すべきでない、このまま放置すれば行きつくところは核戦争による人類の破滅であり、実験による放射能塵の影響だけでもその害悪は取り返しのつかない段階にまで進むと考えた。彼は、人類に警告を発し、大国の指導者たちの反省を求めるべく起ち上った。ビキニの後間も無く、「人類の危機」(Man's peril)と題してBBCより放送した。同時にそれを全世界に普及すべく努めた。ラッセルは、そのアピールを最も効果あらしむるためには、自分一人だけの発言とするよりも、権威ある世界的科学者たちの声として発し、さらには、世界科学者会議の決議として訴える方がいいと考えた。
翌、一九五五年、ラッセルは「人類の危機」の論旨をアインシュタインに送り、それを共同声明として発することの賛否を求め、もし賛成であれば、さらにそれに署名してもらうべき適当な科学者のリストを作ってほしいと頼んだ。アインシュタインはラッセルの提案に賛成し、署名してもらうべき科学者の名簿を送ってきた。同時に、共同声明の案文の作成はラッセルに一任するといって来た。そこでラッセルは声明案を作り、署名をしてもらうため、それをアインシュタインに郵送した。そして自らは、ローマとパリにおける世界連邦運動の会議に出席するため旅立った。ローマからパリヘの途中の機上で知らされたのがアインシュタインの急死であった。ラッセルは、アインシュタインが果して声明書案文に署名してくれたかどうかを危倶したが、パリのホテルに着いてみると、アインシュタインからの書状が届いていた。同封の声明書には署名がなされていた。それが、死の二日前になされたアインシュタイン最後の公的な仕事であった。さらにその声明書は、アインシュタインの推薦にもとづいて以下のノーベル賞受賞科学者につぎつぎに郵送され、署名が集められた。すなわち、ボーン教授(ベルリン、フランクフルト、ゲッチンゲン大学)、ブリッジマン教授(ハーヴァード大学)、インフェルド教授(ワルシャワ大学)・ジョリオ・キューリー教授(コレジュ・ド・フランス)、ミューラー教授(インディアナ大学)、ポーリング教授(カリフォルニア大学)、パウエル教授(ブリストル大学)、ロトブラット教授(ロンドン大学)、湯川教授(京都大学)であった。
同年七月九日、ラッセルはこれをロンドンのプレス・コンファレンスで発表した(右写真参照)。それはその日のうちに、全世界の新聞、テレビ、ラジオで一斉に報道された。これが、世界平和者としてのラッセルのイメージを全世界にクローズ・アップさせた有名な「ラッセル=アインシュタイン声明」であった。
この声明は、水爆の脅威について説き、「ヒロシマを破壊したものよりも二千五百倍も大きい威力のある爆弾を製造することが出来る」と警告し、「水爆戦争が人類を死滅させるということに最高権威者たち全員の意見が一致している」と言い、核兵器放棄の協定を結ぶべきこと、戦争を放棄する決意をなすべきこと、放射能微粒子でさえも人間の死の原因となることを全人類に周知させるべきこと等を慫慂(しょうよう)し、
「われわれは、人間として人間に訴える――あなたがたの人間性を思い起こし、他のことを一切忘れてほしい。もしあなたがたにそれが出来るならば、道は新しいパラダイスに開けている。――もしそれが出来ないならば、あなたがたの前に横たわっているのは全人類の死滅の危険である」と結んだ。
そしてラッセルは、世界科学者会議の開催を提唱し、その会議においては次のような決議がなされるべきだとして、その案文をこの声明書に付記した。決議案――
「将来のいかなる世界戦争においても、核兵器が用いられることは確かであり、それが人類の継続的生存を脅威するという事実にかんがみて、われわれは、世界の各国政府が世界戦争によって目的を達成することは不可能だということを悟り、かつそれを公式に承認するよう勧告する。そしてさらに、各国間のあらゆる紛争問題を解決するための平和的手段を発見するよう勧告する」こうしたラッセルの提唱に呼応して開催され、このラッセル=アインシュタイン声明の精神をもって貫かれたのが、開催地パグゥォッシュの名を冠した世界科学者会議(Pugwash Conference)であった。パグウォッシュ会議は、ラッセルをプレジデントとして推戴し、そのプロモーターとしてパウエル博士が促進運営の責任に当り、カナダのパグウォッシュからさらにウィーン、ロンドンというふうに開催地を変えながらも相継いで開催され、世界に向って権威ある、そして有効なアピールを続けてきた。
ラッセルは、これと併行して、原水爆禁止の民衆運動を一段と盛り上げる必要を痛感するにいたった。一九五八年、CND(核兵器撤廃運動)の総裁となり、トラファルガー広場での大衆集会、平和行進、ヒロシマ・デー、原水禁国際会議等を指導した。一九六〇年には、英国政府の核政策に果敢に抵抗するため、もっと徹底した一般市民の不服従運動(civil disobedience)を展開する必要を痛感し、進んで全世界の核禁止運動の急進的方向づけをしなければならないと考えた。CNDの組織の中からさらに生命がけで挺身できる青年の精鋭をすぐり、それにミカエル・スコッットの率いる「直接行動委員会」を吸収して、行動的な「百人委員会(Committee of 100)」を組織した。翌一九六一年、不服従運動はその最高潮に達した。二月十八日、二万人の群衆をトラファルガー広場に集めた。ラッセルは絶叫した――
「英国は他国にさきがけて、今直ちに核兵器を撤廃せよ。ワシントンからの指令で、水爆弾頭ミサイルを発射させることの出来る米空軍基地を英国土から撤去せよ」 と。五千人の集団がホワイトホール官庁街に向って行進した。その先頭に八十八歳のラッセルが立っていた。国防省のぐるりを取巻いて全員が坐った。ラッセル夫妻はその玄関先に坐り込んだ。夫妻の頭上には、「生きるための行動を! (Action for Life) 国防省にて――百人委員会。一九六一年二月十八日」(右上写真参照)と大書された幕が掲げられていた。この日の行動と、八月六日のヒロシマ・デーのハイドパークでの行動が法に問われて、九月十二日、有罪と決定され禁固刑を宣告された。この時ラッセルは、もしこのような運動を二度と行なわなければ無罪にしてもいいと言われたが、彼は、「英国が核政策を続けるかぎり、断じて不服従運動を止めはしない」と公言して刑に服した。十月二十九日の大集会では、さらに、英米をはじめとする自由諸国が、東南アジアやアフリカ諸国の自由を侵害して来た行為をも糾弾し始めた。生か死か! と思いつめた口調で核政策の危険について訴えた。そして、十二月九日を期して、英国全土の核基地と米軍基地に向って坐り込みデモを決行する大会決定が為された。十二月九日、六十年来の暴風雪をついて五万人が動員され、坐り込みが敢行された。そして五百人が逮捕投獄された。それは、ただひたすらに人類が生きのびるためにというラッセルの悲願からであった。
III
こうした運動と併行してラッセルは、一九六二年からは、相ついで断続的に勃発した一連の重大な国際紛争の平和的解決に努力するとともに、多面的かつ具体的な平和運動にも身を入れることとなった。中印国境紛争に関しては、ネール首相と周恩来首相に対して数度にわたって平和的解決を慫慂した。イスラエルとアラブ問題については、それに介入して紛争を激化させている大国の行動を非難し、その反省を求めた。キユーバ危機に際しては、積極的にケネディ大統領とフルシチョフ首相の間を取り持ち、二人だけの直接テレフォンの方式による事態収拾をアドヴァイスした。ウ・タント国連事務総長と懇談しては、国連ならびに世界が当面している基本的な重要問題について討議した。
ヴェトナムに対する米軍の侵略行為が露骨になって来るにつれて、ラッセルは猛然と米国非難を開始し、戦争の否定と、被圧迫民族の解放と独立のために全精力を傾注する決意をする。一九六三年、「バートランド・ラッセル平和財団(B. Russell Peace Foundation)」と「大西洋平和財団(Atlantic Peace Foundation)」を組織し、一九六六年、「ヴェトナム・ソリダリティ・キャンソペーン」を組織し、世界大会をロンドンで開いた。翌一九六七年には、「ヴェトナム戦犯国際裁判」をストックホルムで開く。
一九六八年、ソ連軍がチェコスロバキアに侵入すると、ラッセルは直ちにそれを非難してブレジネフとコスイギンに抗議文書を送り、全世界の平和者、特に社会主義者に向って、ソ連に対する抗議行動を起こすよう呼びかけた。翌一九六九年、「ソ連のチェコ侵入に抗議する世界大会」をストックホルム(二月)と、ロンドン(五月)で開催した。
こうしたラッセルの平和運動を通じて、その基本原則をなしたものはと言えば、それは、人道と自由と平等と平和の原則であった。決して偏ったイデオロギーや感情にとらわれてのそれではなかった。この原則に背くとき、共産主義をも資本主義をも批判し、ソ連・中共の共産諸国をも米英をはじめとする自由諸国をも非難した。ラッセルは、第一次世界大戦に際しての反戦運動以来、自分の平和運動の立場と原則は一貫していると主張してはばからなかった。一言にしていえば、人類愛と青年によせる無限の愛情、不正と欺瞞と独善と圧迫を許さない義憤と正義感、生命をかけて挺身しないでおられない不屈不撓の抵抗精神、そしてヒューマニズムに徹した人道・自由・平等・平和の基本原則に立ってであった。しかもその実践を通じて一貫していたのが、暴力を否定し、法を尊重するという基本的な態度であった。ラッセルはつねに、ルールを尊重するという遵法精神こそが民主主義を保持し育成してゆく基本的要件であると説いておられた。ラッセルの平和運動を理解するためには、その実践そのものとならんで、こうした基本的性格を知らなければならないとおもう。(了)