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橋元淳一郎「バートランド・ラッセルは時代遅れか」

* 出典:『SFマガジン』2001年10月号,pp.172-173.

* 橋元淳一郎氏(はしもと・じゅんいちろう:1947~)氏:相愛大学人文学部教授(京都大学理学部物理学科修士課程修了)。SF作家でもある。著書に「物理・橋元流解法の大原則」
* このエッセイは、「プラトンの洞窟」(連載もの)の1篇(=n.34)
* SFマガジン掲載ということで、ラッセルの小説についてふれているのかと想像したが、残念ながらそうではなかった。


●新しい論理学を武器にしたラッセル

 デカルト、カントからへーゲルに至る近代哲学の正統派に対して反旗を翻したのが、ショーペンハウアーやニ一チェの非合理主義哲学だったわけですが、一九世紀末になると、まったく逆の立場からの正統派批判が出てきます。それは数学的論理学を土台とする分析哲学であり、その旗手は大英帝国の貴族の家に生まれたバートランド・ラッセルです。
 ラッセルといえば、一九七〇年まで生き、平和運動に力を入れ、『西洋哲学史』はぼくたちの学生時代の必読書であったのですが、今やほとんど忘れ去られた、というか無視されているような感があります。しかし、人類の知の歴史においてラッセルの果たした役割は、とても大きいと思うのです。
 ということで、今回の主役はバートランド・ラッセルです。

 ラッセルの主著『外部世界はいかにして知られうるか』(Our Knowledge of the External World, 1914)は、哲学書というよりは、ほとんど数学と物理の書である。もちろん数式は出てこないし、公理・定理・証明のたぐいも出てこない。しかし、議論されている内容は、ギリシァのゼノン以来の実在と認識の「科学的」追求である。この本は、一九一四年に行われた講義の集成で、比較的わかりやすい言葉で書かれているが、これまで書かれたいかなる哲学書よりも論理的である。哲学がロゴス(言葉と論理)を手段とする知の営みであるなら、数学的厳密さを伴った論理性というものは、賞賛されこそすれ、軽くあしらわれるべきものではない。
 こうした論理性の根拠は、もちろんラッセルが数学者でもあったからである。
 『外部世界』に先立つ一九一〇年から一九一三年にわたって全三巻として刊行された大著『数学原理』は、ケンブリッジの師であるホワイトヘッドとの共同研究の結果生まれたものだが、アリストテレス以来の論理学の革新を迫るものだったのである。

●伝統的哲学打倒をめざす二大勢力

 ラッセル自身は、当時の哲学的状況を、三つのタイプに分けて説明する。一つは、プラトンからヘーゲルまで、つねに哲学の主流でありつづけた伝統的哲学であるが、いまやこの哲学は打ち倒されねばならないのである。伝統的哲学を打ち倒す一つの勢力は、進化主義である。ニーチェの非合理主義哲学はこの中に入れられるが、ラッセルが主に攻撃するのはベルクソンの「生の哲学」である。
 それに対して三番目の勢力、すなわちラッセルの立場は、「論理的原子論」と呼ばれる。ベルクソンが主張するような直観的な生気論を排し、あくまで厳密な数学的論理によって哲学を再構成すべきだと主張するのである。
 二一世紀の今日、ラッセルの「論理的原子論」もベルクソンの「進化主義」も、いささか色あせた感がするのはやむをえない。この百年の間に、我々はまったく新しい世界を垣間見たのだから。
 しかし「原子論」対「進化主義」の対立は過去のものではない。現代物理学の「行き詰まり」の裏面では、新たな「進化主義」の台頭が見えはじめている。しかし、それについてはいずれ改めて考察することにしよう。
 ところで、ラッセルのいう伝統的哲学と、「論理的原子論」は、何がどう違うのか。二千数百年の哲学史の変遷から見れば、ラッセルの哲学はギリシァのデモクリトスと似ているし、アリストテレスの論理学とも、デカルトの「明噺判明」な哲学とも共通するものがある。少なくともカントまでの伝統的哲学は、その時代時代の科学的知見を最大限に取り入れていた。デカルトは解析幾何学の始祖であり、その数学的明晰性をもとに『方法序説』を書いたのである。カントの哲学は、原子論とは相容れない観念論であるが、しかしその土台にはニュートンの力学があった。つまりカントまでの伝統的哲学とは、当然といえば当然だが、自然科学をその中に内包していたのである。

●色あせぬラッセルの精神

 だから、ラッセルの「論理的原子論」は、哲学と科学を再び統一する試みであったといえるだろう。しかし、ラッセルの試みは成功したとはいえない。その一つの大きな理由は、自然探究に生きがいを感じる二〇世紀の多くの知性は、哲学ではなく科学の道を選んだからである。つまり、二〇世紀の哲学は、もはやイデアや実在や物自体やらを探究するものではなくなったのであり、それはプラトン以来の伝統の終焉であったわけである。
 「論理的原子論」の発展を阻止したもう一つの原因は、ラッセルの著作の直後に起こった数学と物理学の革命である。一九三一年のゲーデルの「不完全性定理」によって、ラッセルらの数学至上主義的哲学は、権威のないものとなってしまった。さらにラッセルが『外部世界はいかにして知られうるか』で展開する物理学の基礎は、ニュートン力学であり、そこには相対論的時空や量子論的実在の話はまったく登場しない。つまりラッセルの原子論は、いまやデモクリトスの原子論と同じくらい時代遅れのものとなってしまったのである。
 一九七〇年まで生きたラッセルが、相対論や量子論を知らなかったはずはないから、もし彼が政治活動や平和運動に走らなかったら、『外部世界』の現代版を書いたかもしれない。しかし後半生の彼の精神は、もはや机上ではなく政治的実践の中にあったのであろう。(松下注:残念ながら、橋元氏はラッセルの初期の著作と1945年に出版された『西洋哲学史』位しか読まれていないようである。アインシュタインの一般相対性理論(に関する主要論文)が発表されたのは1915年のことであり、1914年に出された『外部世界(は如何にして知られうるか)』が相対性理論の成果をベースにしていないのは当然のことと言えるが、ラッセルは相対性理論が発表され、すぐに理解できたわずかな思想家の1人であり、相対性理論の解説者としても有名である。ちなみに、1925年に The ABC of Relativity の初版をだしたが、名著の誉れ高く、後継者によって必要な改訂がなされ、現在第5版が売られている。また、ラッセルは量子力学の理解者でもあり、1923年には、The ABC of Atoms が出版されている。/なお、ハイゼンベルグは1927年に'不確定性原理'を発表し1931年にノーベル物理学賞を受賞している。従って、ラッセルの The ABC of Atoms は不確定性原理発表以前の知見に基づいている。)
 それはともかく、ラッセルが『外部世界』の中で見せた精神は、決して時代遅れではない。ゲーデルの「不完全性定理」を認め、相対論や量子論を熟知した上で、新しい世界観を追求する試みは、誰かがやらねばならぬことである。それなくして、新しい知の枠組みの誕生はないといえるだろう"