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グリーンスパン(著),野村博(訳)『科学と自由-ラッセルの予言』(世界思想社,1982年6月刊 vi,147,iii pp./世界思想ゼミナール・シリーズの1冊)

原著:The Incompatible Prophesies; An Essay on Science and Liberty in the Political Writings of Bertrand Russell, by Louis Greenspan, c1978.)


訳者(野村博) あとがき

 本書は、Louis Greenspan: Incompatible Prophesies ... An Essay on Science and Liberty in the Political Writings of Bertrand Russell..., 1978, Mosaic Press, Oakville, Ontario, Canada を訳したものである。『両立しがたい予言-バートランド・ラッセルの政治的著作における科学と自由についてのエッセイ』という原書のタイトルは、「凡例」でも触れたが、邦訳書名としては長たらしく思われたので、訳者の一存で『科学と自由-ラッセルの予言』というように簡略化したことを、あらかじめ断っておかなければならない。
 ところで、原著者のルーイス・グリーンスパンは、カナダ・ハミルトン市マックマスター大学宗教学准教授である。このマックマスター大学には「バートランド・ラッセル記録文書保管所」(右写真:Russell Archives ラッセル文書館・閲覧室/『ラッセル協会会報』n.16,p.8掲載写真より)が設置されており、ここに保管されている未発表の資料を容易に利用できる立場にある著者グリーンスパンは、すでに出版されているラッセルの諸著作以外に、これらの未発表資料を徹底的に究明して、本書を執筆したということである。本書のテーマは、原書名からも示唆されているように、バートランド・ラッセルが一方では「自由」を熱烈に鼓吹しながら、他方では「科学的に組織された社会」の必要性を力説している――矛盾というよりも(グリーンスパンによれば)両立しがたい2つの概念の不一致がラッセルの政治的・社会的著作には存在する――、換言すれば、いったいラッセルは科学技術時代の現代社会において自由をどのように考えているのか、という問題にアプローチしようとするものである。

ラッセルの言葉366
 グリーンスパンによれば、ラッセルには自由論者、さらにはアナキストとしての側面と、地政学的現実主義者としての側面があって、そのために彼の思想には深い裂け目が存在する。反科学的なロマン主義者や懐旧の念が強い感傷的な人々に話しかける時には科学的発展を主張するラッセルが、専制君主や筋金入りの共産党政治局員に話しかける時には自由を強調する。問題は科学的発展と自由を調和させることでなければならないが、ラッセルはこの課題解決に成功していない。科学と自由に関して両立しがたい予言をするラッセルは、「19世紀のホイッグ党的自由主義のドンキホーテ的人物として20世紀に話しかけている」悲劇的な英雄に他ならない。――これが本書においてグリーンスパンの論じている概要である。詳しい論旨の展開については、本文の吟味をまつことにしよう。
 ところで、グリーンスパンの立論の趣旨は明確であり、資料の読解は適切であるとしても、その到達した結論に関する限り、訳者としては必ずしも素直に肯定する気持ちにはなれないのである。それは何故であろうか。
 それは、端的に言って、科学や自由という立論の前提になる鍵としての用語が曖昧で多義的なニュアンスのままに使用されているからである。もっとも、グリーンスパン自身が、「本書では科学・自由・組織などの鍵となる用語がもっと正確に定義されていないのは不思議に思われるかも知れないが、実を言えば、この散漫で漠然とした不正確な用語法こそ、科学と自由の関係に関するラッセルの思想が疑わしいことを示唆しているものに他ならない」と述べている。しかし、果たしてグリーンスパンの言うとおりであろうか。
 「科学」については、グリーンスパン自身もラッセルにおける二義的用語法に言及し、概念の内容を比較的明確にしているから、ここで再論することは省略しよう。科学と対照的に用いられている「自由」については、しかし、訳者の私見によれば、グリーンスパン自身が、ラッセルの自由概念をあえて明確にすることなしに使用している向きが感じられるのである。確かにラッセルにおける自由の概念は、ほとんど1世紀に垂んとして生きた長寿のなかで数多く書かれてきた著作物だけに、一種の揺らめきのようなものが見られるけれど、根本的には一貫していて変わっているとは考えられないのである。この点について訳者が別に発表した論文があるので、その結論に当たる部分を、やや長いが、次に引用したい。
「なるほど、初期には、非情な自然との関係における思考の自由や、自我の放棄による宇宙との結合で獲得される精神の自由など、いわゆる精神的自由について論じられ、後に年齢がいくにつれて、拘束の欠如としての消極的な政治的自由が扱われるようになっていく。確かに一見しただけでは、ラッセルにおける自由観が変化したように見えるかも知れないが、しかし、一歩深く考えれば、それはラッセルが自由に対する見解を変えていったということでないことは明らかであろう。ラッセルは、自由という語を少なくとも二様に使ってきた。初期の頃は、思考や精神の自由によって、彼は人間の創造性、芸術、愛・思想のような人間に特有の創造的営為を意味してきた。我々は、このような自由を'積極的自由'と呼ぶこともできるだろう。積極的自由を最大の価値、それ自体で目的である価値と考えていたラッセルは、しかし、その後、この価値の実現を妨げるさまざまの拘束・障害が欠如している状態を政治的自由や経済的自由と称して、その獲得のために論陣を張ってきたのである。後者の自由は、彼の言う精神的自由-積極的自由―に対して、彼みずからも何度か述べているように、消極的な概念である。つまり端的に言えば、初期のラッセルは積極的自由としての精神的自由を論じ、以後のラッセルは諸種の'消極的自由'を主として論じてきたと考えられるのである。したがって、ラッセルの自由観が変化したのではなく、自由の積極的概念の主張から消極的概念の論議へと、その視座が移行したのにすぎないのである。彼自身のなかに異なった自由観が存在したとか、1つの自由観から他の自由観へ変化したとか、いうのではない。自由概念の積極性から消極性への移り行きが、彼の政治行動の活発化とともに見られるだけである。
 ラッセルは、自然の子供である有限的存在としての人間の本質を、創造的に思考する精神の自由に見いだし、人間個人の創造性に究極的目的としての最高の価値をおいたが、この目的の実現に対する障害や拘束を排除するために、手段的価値である政治的自由・経済的自由を彼の政治理論の支柱に据えたのである。
 このようにラッセルが自由という語を、人間個人の創造性の発揚という精神的な意味における自由と、この積極的自由の実現を妨げる障害・拘束・強制のない状態という政治・経済などの外的で消極的な意味における自由との二様に使用したことが、一見して彼の自由観の変化を思わせる原因となっているのである。これを要するに、ラッセルにおける自由の概念は明らかに二義的であるが、今世紀最大の徹底的なリベラリストであるラッセルの自由観には少しも変化がなかった、と私は考えるのである。」(『新訂・ラッセルの社会思想』法律文化社会、1979年、pp.183-184)。(松下注:「自由」は「~の自由」と「への自由」の2つの意味があり、二義的に使うのは、ラッセルだけでなく、E.フロムはじめ通常のことである。ラッセルの『自由とは何か』(1952年)その他、ラッセルの著作を丁寧に読めば、そのようなことはすぐ理解できることであるはずである。)
 「科学は手段で、自由が目的である」と言われる場合、ラッセルにおいて目的としての自由は、右に述べたような意味での積極的自由を指すのであって、積極的自由の実現を妨げる諸種の障害がないという意味での消極的自由のことではない。したがって、科学、組織としての科学、科学的に組織された社会――これらの用語は、グリーンスパンの本書において同義語的にルーズに使われているが――は、必ずしも積極的自由と相容れないものではないばかりか、かえって逆に積極的自由の実現を促進し援助するはずのものでさえある。社会の科学的組織は、本来、積極的自由の実現に対する障害の除去――つまり消極的自由の確保を狙うものである。だからラッセルが、グリーンスパンの言うように、自由な社会をもたらすために強制力の使用される厳格な施策をしばしば要求しているのも、決してリベラリストとしてのラッセルにとって自己撞着ではないのである。この点から見ても、「ラッセルの両立しがたい予言」とは安易に言えないはずであろう。
 しかし、と反論されるかも知れない。自由という概念を積極・消極の2面に分けて、ラッセルにおいては積極的な自由が目的であるというのは、あまりにも恣意的にすぎるのではないか、と。なるほど、この異論には一見して正当性があるように思われるかも知れないが、しかし、自由ということばが曖昧で多義的に使用されている今日、これを整理し分析し概念を明確化することが焦眉の急務であると考えられるのである。周知のように、「~からの自由」(消極的自由)は、拘束・束縛・強制・干渉など思想と行動を妨げる障害の欠如を意味するものとして、「~する自由」(積極的自由)と一応はやはり弁別しなければならない。しかもそのうえで「~する自由」は「~からの自由」を必然的に含意ないし要請するが、その逆に「~からの自由」は「~する自由」を必ずしも含意しいないということを確認しなければならない。ここに自由の陥穿が存在するのである。
 ところで、「~する自由」を実現ないし行使するためには、その障害になるものを除去しなければならないが、障害の除去それ自体、一種の強制であるとも言えるだろう。例えば、私が何かをするためには、その障害になるものを除去することが否応なしに――つまり強制的に要請されるのである。この意味合いにおいて、(積極的)自由は背後に強制を必然的に伴うと言わなければならない。逆に言えば、強制がなければ(積極的)自由は実現できないということが否定できない現実である。この意味において、ラッセルが科学的に組織された社会(という一種の強制)を自由な社会――万人がそれぞれ積極的自由を実現できる社会――のために強力に求めたとしても、そしてまた、放任的な自由主義ではなくてギルド社会主義を力説したとしても、それは決して「両立しがたい予言」とは言えないのである。
 原著者グリーンスパンの結論について、訳者としての私が必ずしも同意できない気持ちになった理由は、おそらくこの辺にあるように思われる。しかし、それにしても、グリーンスパンの到達した結論はともかくとして、ラッセルの社会思想史的研究に興味をもつ人ならば、ラッセルに関する未公開の資料を直接思いのままに自由自在に使える立場にあるグリーンスパンのような人が、ラッセルの思想をどのように解剖しているのか、ということに格別の関心をもたないわけにはいかないだろう。事実、訳者などには未知の新しい資料――未発表の論文や手紙など――に数多く接することができたのも幸いであった。
 また、当然のことであるが、ラッセルが科学技術時代の現代社会において自由をどのように考えているのか、という本書の基本的な主題に興味をもつ人であれば、本書の結論に釈然としないものを感じる訳者の個人的な受け止め方は別にして、大方の読者にとって得る所が多いだろうと思われる。

 訳者がグリーンスパンの本書を読んだきっかけは、ラッセル関係の文献で目に触れ入手できるものは読んでいこうと思っていたからであるが、また一方では、自由を求めておそらくはあらずもがなの愚考を巡らしつづけてきたためでもある。「自由を求めて」などと言うと、世の中は持ちつ持たれつ――裏返して言えば欲と欲の衝突・調整・我慢――だから、所詮は人間が人間である限り、本当の自由なんていうものはあるはずがないと言って、素直で率直な人々に冷笑されるかも知れないし、また、社会正義のために日に夜を粉骨砕身、闘争に従事している人々からは、机上の空論をもてあそぶ守旧の徒輩として、ひんしゅくを、いや激怒をさえ買うかも知れない。
 しかし、人間にとって――人生にとって――最高の価値あるものは「自由」であると考える私にとっては、だからこそ、その「自由」を明確にしないわけにはいかない。それがたとえ人間にとって「永遠の課題」であるにしても、「自由を求めて」生きることが何にもまして肝要な一大事であると思うのである。
 それにつけても、私の脳裏にこびりついて離れない重要な言葉がある。それはアインシュタインが青年時代に大きな感銘を与えられたと語っているショーペンハウエルの言葉であって、すなわち、「人間は自分の欲することを確かに行なうことができるが、しかし、人間は自分が何を欲するかを決めることはできない」(I Believe- the personal philosophy of twenty-three eminent men and women of our time, 1940/『私は信ずる』社会思想社、1957年p.139)というものである。
 このショーペンハウエルの言葉の前半は、「為せば成る為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という特殊日本的古歌(?)を――その歴史的・社会的文脈とは関係なしに――想起させるが、まさに「意志のあるところ道あり」(精神一到何事か成らざらん)という未来指向的な可能性を含意している「自由」を人間に開示しているものと受け取れる。
 ショーペンハウエルの言葉の後半は、しかしながら、「自由」とは全く対蹄的に、意欲の内容に関しては人間の思慮を越えて「決定」されることを暗に宣言しているものと言えないだろうか。『歎異抄』で語る親鸞聖人の「業縁」を不安におののきながら思い浮かべさせられる厳しい言葉である。
 それはともかくとして、いみじくもショーペンハウエルは、人間が自由と決定(必然)を矛盾的に内包している存在であることを道破しているように思われる。確かに人間は、自分では自由自在にふるまっているように思っていても、自然法則的に運行している広大無辺の宇宙から見れば、所詮は言わば仏の掌中で跳び回っている虫にしかすぎない「決定」された存在であるかも知れない。人間のいろいろな仕草に対するおかしさの念やユーモアの精神、寛恕の心といったものも、帰するところ、ここに因由するとも考えられるのである。
 しかし、それと同時に人間は、宇宙はもとより、かかるものとしての自分自身をも対象化することができる存在として、未来に開かれた目的を指向し実現しようとする能力を付与されている生命でもある。換言すれば、宇宙の立場からすれば必然で決定されている人間も、未来指向の実現能力をもった生命的存在として、そこに自由があると考えないわけにはいかないのである。だから自由こそ、人間にのみ特有のものとして、人間にとって最高の価値であると言わなければならない。
 ところで、未来指向の実現能力としての自由は、根源的に生命に根差すものとして、人間の創造的な営為そのものにほかならない。したがって、私がさきにラッセルの自由概念を分析して、障害の欠如としての消極的自由とは区別されるべき積極的自由は、ラッセルにおいて、人間個人の創造性の発揚を意味すると述べたのも、実はこの点に言及していたのである。しかし、言うまでもないが、障害の欠如としての消極的自由が無価値であるとか不要であるとか言うのでないことは、当然である。むしろ創造的な営為――積極的自由――にとって障害となるものがないこと――消極的自由――は、必要不可欠の条件であり、その意味において消極的自由は手段的価値を有しているのである。ただ、人間にとって究極的な最高の価値を有するものは積極的自由である、ということを明確にしなければならないだけである。
 このように「自由」について考えてくると、再び繰り返すことになるが、ラッセルが一方で自由を鼓吹しながら他方で科学的に組織された社会を強調しているのは「両立しがたい予言」であるとグリーンスパンが主張するのは、どうも納得しがたい思いになるのである。科学的に組織された社会は、消極的自由の確保にとって必要不可欠であり、ただ惜しむらくは、その社会の構造・機能についてラッセルがもっと社会科学的に究明を与えていないという点である。
 取り止めもなく思いのままに書いてきた「訳者あとがき」が、あまりにも長きに失するようである。この辺でピリオドを打つことにしよう。

 翻訳については、正確を期すように努力したことは当然であるが、訳者の浅学非才もさることながら、公務に忙殺されながらの訳業であるため、思わぬ誤訳や不じゅうぶんな箇所があるのではないかと懸念している。幸いに機縁があって本書を、お読みいただける方々から、ご教示とご叱正を賜わることができれば、訳者としては幸甚の至りである。
 この訳書が日の目を見るようになったのは、世界思想社編集部の大野耕一さんに相変わらぬご厚情を寄せていただいた賜物である。ここに記して、心から深甚なる謝意を表明したい。
 1982年3月16日
  窓外に春光を感じながら 野 村 博