公平珠躬「Bertrand Russell『ギリシア語練習帳』とテキスト・プロセッシング」
* 出典:『Litteratura』(名古屋工業大学英語学研究室)n.5(1984年10月15日)pp.69-77* 公平珠躬(キミヒラタマミ)氏は、1995年に名古屋工業大学を退官されているので、60歳定年としたら、生まれは1935年頃か?
* 本論文は、多少「重箱の隅をつつく」ような感じを受けますが、少し毛色が変わっているということであえて電子化してみました。[研究余滴](infomalなメモ書きのようなもの?)ということですので、ザット読み飛ばして(流して)ください。(1984年当時のPC及びソフトウェアを使っていますので、当時のコンピュータによるテキスト処理は幼稚です。こんなことをしてどれだけの意味があるのだろうかという気もしますが、今だから言えることでしょうか?)
B.ラッセルの『ギリシア語練習帳』と呼ばれる「日記」の存在に気付くのは,一般の読者ならたいてい My Mental Development(1944)に於ける彼自身の言及,あるいは My Philosophical Development(1959)に於いて発表されたこの「日記」の中の11項目,そして最も詳細なものは『自叙伝』(1967)第1巻に所載のものによってであろう(1)。少なくとも私自身はそうであった。ところが昨年(1983年)に至って,遠大な計画の下で漸く刊行が開始された The Collected Papers of B. Russell の第1巻 Cambridge Essays に於いて,ラッセルの初期の著作の第1番目のものとして,この Greek Exercises(1888-1889)が完全な形で提示されるに至った。青春時代のラッセルの宗教観を知るのに最も貴重なこの資料の分析を最終目標に置いて,ここに[研究余滴]と言う informa1 な形で,テキストの分析を(前号で述べた)英文ワード・プロセッサのみを利用して試みたものを紹介させて頂く。
1.
両親と早く(3才の時に)死別し、祖母の館(Pembroke Lodge)で育てられたラッセルは,ケンブリッジ大学へ入学するまでは所謂学校教育は受けずに,専ら家庭教師から手ほどきを得,あとは旺盛な読書によって知識を獲得したと言う。彼の論理主義・科学主義的面を連想しがちな読者は,後年の既成キリスト教に対する烈しい攻撃ぶりに圧倒されて,彼の宗教的省察の深さをつい見逃してしまい勝ちだが,大学入学前の15才の少年の真摯な精神的模索の文章に接する時,この面での彼の苦悩と精神的努力を深く知らされるのである。家族,特に祖母(Lady Russell)の教えるキリスト教宗教観に次第に疑問を抱いてきたラッセルは,周囲の者にぶつける懐疑の質問がただ嘲りを持って迎えられるだけと覚ると,口に出して言えぬ思いや不安の捌け口として「日記」をつけ始めた。『ギリシア語練習帳』がその「日記」である。その名称は,啄木のローマ字日記のように,異端的思想の隠蔽を目的として,ギリシア文字で書いた英文に,彼自ら英語で Greek Exercisesとタイトルを冠したことによる。
『ギリシア語練習帳』の第一ペ一ジは,上記全集に写真コピーとして載せられているが,書き始めの1888年3月3日の分である。行間には後年になってラッセル自身が書き入れたアルファベットによる(通常の)英語への書き換えが添えられている。我々が接するのは殆ど英文に直された部分であるが,この写真コピーの1頁だけでもこの練習帳が自己の思想隠蔽のための単なる暗号文ではなくて,少なくとも幾分は始めたばかりのギリシア語の文宇どおりの練習帳でもあったとも言えることが分かる。主目的である隠蔽のためのギリシア語化は言語学的に言えば,英単語の発音を相当するギリシア文字に置き換えたのが殆どであると言ってよいであろうが,言語学者でないラッセル独自の転写法(transliteration)が随所に見られる。ギリシア語を習い出した15才の少年が,覚えたての原語をそのまま挿入しているのも当然のことであろう。その際の文法の誤り、語法の間違いはかなり見られると言う。端正かつ明断な英文の書き手として定評あるラッセルの『ギリシア語練習帳』はこの点でも貴重ではなかろうか。さらに176×226㎜のノート(96頁)に鉛筆で書かれたこの『練習帳』は,最初の49ぺージを占めると言う。(残りの頁は所謂雑記帳として使われ,古典・近代の詩の引用や数式の計算などもあるそうだ。)内容の詳細は後述する予定だが,彼自身が行った何回かの引用においても不正確な個所があり,日付の間違い(例えば,4月9日を6日にしている)さえあり,意図的な場合も含めて、省略個所も随分あるようだ。
2.
以下,形式的面を主として述べる。
『練習帳』は22項目(日記形式だから、22日分)よりなる。最後の項目を除いて、1888年3月から7月まで書かれている。最後の[22]は1889年4月(日付なし)となっている。全項目の日付を,My Philosophical Development(1959)および『自叙伝』第1巻(1967年)における引用と比べて記する。便宜上、日記の日付順に1~22の番号を付す。(これは上記文献 Russell(1983) に付されたものと同一である。
番号 | 日記日付 | My Philosphical Development | Autobiograpby v.1 |
---|---|---|---|
1 | (1888年) 3月2日 | 最後の45語省略 | 全文掲載 |
2 | 9日 | なし | なし |
3 | 19日 | 全文掲載 | 全文掲載 |
4 | 22日 | 全文(最終文に括弧なし) | 全文(最終文に括弧なし) |
5 | 4月2日(月曜) | 全文掲載 | 全文掲載 |
6 | 9日 | 最初の約90語省略残り全文掲載 | 同左(日付を6日と記す) |
7 | 14日 | 全文掲載 | 全文掲載 |
8 | 18日 | 全文掲載 | 全文掲載 |
9 | 20日 | 全文掲載 | 全文掲載 |
10 | 25日 | なし | なし |
11 | 29日 | 後半108語省略掲載 | 全文(最終文に括弧なし) |
12 | 5月3日 | 最後の数行のみ掲載 | 最初の数行のみ掲載 |
13 | 4日 | なし | なし |
14 | 6日 | なし | なし |
15 | 8日 | なし | 全文掲載 (ただし、最後のHoraceの引用は省略) |
16 | 20日 | なし | 前半約半分のみ掲載 |
17 | 27日 | なし | 全文掲載 |
18 | 6月3日 | 全文掲載 | 全文掲載 |
19 | 7月15日 | なし | 全文掲載 |
20 | 30日 | なし | 最初の数行省略・途中の引用詩を含む 数行省略して掲載。7月20日の日付を付す |
21 | 31日 | なし | なし |
22 | (1889年) 4月(日付なし) | なし | なし |
この表を見て,Russellの二つの自叙伝的記述の中での「引用の基準」「その相違」をどう解釈すべきだろうか。内容の詳細な分析はここでは行わないが,例えば,『自叙伝』における(21)の省略は理解に苦しむ。下に述べるように,(20)と(21)はこの日記の主題ともいうべき2つのキーワードについて述べたものであるから,後半を省略してしまっては困るのである。あるいは,(22)が両者に於いて省略されているのは、まあ理解できる所である。約1年後に書かれたこの部分は,この日記のなかで苦闘した宗教的問題を一応克服した嵐のあとの静けさとも言うべき「あとがき」的記述ともみなせることと,"Nature-worship"と言う語で書き出されているこの章節に,後年(1917)のMysticism and Logic に至る崩芽が見いだされると言う意味で,幾分の照れ臭さの故の省略とも見なせるからである。
3.
紙面の余裕もないので,この資料のテキスト・プロセッシング処理の一端を示してみょう。
3.1 入力について
(絶対必要条件とはいえ)プログラムの入力でさえ厄介なことなのに,立派に印刷・製本されているテキストを入力するのは少々気が重い。電算機処理をするためには、機械の中にデータが入力されていなくては何もできない(複写機がやるよう瞬時に入ってしまわないものか)。異常な寒気に襲われた今冬,正月の数日を炬燵に入って入力した。昔では考えられなかったことだが,まあ進歩はしているのである。所謂ハンドヘルドPC(2)(パソコンに当たる英語の略語)を使って入力していく。横40桁の液晶のディスプレイに数行表示された入カテキストが次々にスクロールしていく。電池でバックアップされているから電源を切ってもデータは失われることはない。疲れたら休む。ミス・スペリングも入力の際に避けられないだろう。これはあとでスペル・チェックを機械がやってくれるから心配する必要はない。しかし,読み飛ばして入力してもチェックはできない。見直し・確認はやはり避け難い)(3)。さて炬燵のA4型PC(これでも拡張メモリ64K bytesを持つ)に入力は完了した。次に机上のパソコン(4)に通信機能を利用して直接送り込む。あとは前回紹介したCP/P(5)上で動く英文ワープロ WordStar(6)を働かす。入力は既に終わっているのだから,桁数を設定したり右揃えや印字上の指定などをすれば文書としての処理は終わりなのだが,ここでは資料の分析が目標なのだから,仕事はこれからである。オプションとして備えてある SpellStar(7)に登場を願わなくてはならない。
3.2 スペルチェックと使用語数のカウント
SpellStar は(ここで使用したものは)21011語よりなる単語辞書を内蔵していて,入力文書の単語を比較・対照してミス・スペルと思われる単語を拾い出す。この際・固有名詞や変化形も辞書になければ misspe11ed words に入れられる。指示によってこれらの語には印(flag:@)が付けられ,別にそれらの語が文書での出現順に大文字で表示される。このスペル・チェックの際には,同時に現在の文書中の単語総数(重複語を含む),異なる語の総数,対比した辞書中のチェックされた語数,misspelled words の語数などが画面に表示される。スペル訂正作業中,文書の先頭からflagの付けられた語に力ーソルが飛び,訂正(Fix)するのか,無視(ignore)するのか,主要辞書に追加(add to Dictionary)するのか,補遺辞書に入れるのか(add to Supplementary dictionary),バイパス(Bypass)する(一応無視して後で処理する)かを聞いてくるから,それぞれ頭文字(大文字部分)をキー・インすることによって,つぎのflag つき語の処理に移る。ここで言う補足辞書とは用意されている主要辞書にはない語をまとめて専用辞書を別に作るためのもので,専門用語や特殊な語はここに入れて置くと後日役にたつ。(各文書別に補足辞書を作れるので,Russell辞書,ギリシア語練習帳辞書などができる)。むろんDコマンドで主要辞書に加えることも司能であるが,あまり主要辞書の語数を増やすと他の文書のチェックの際,処理に手間がかかることになる。(辞書中のチェック語数が増加するから。)
3.3 『練習帳』のスペル・チェックと語数カウント
前節の処理によって得られた『練習帳』の各項目(日付別)の語数を示す。便宜上,2節と同様に日記の最初の日付けの項目から最後のものまで通し番号1~22を付ける。(文献で付されているのに従う。)
番号 | 総語数 | 異なる語の総数 |
---|---|---|
1 | 146 | 97 |
2 | 150 | 106 |
3 | 198 | 113 |
4 | 235 | 136 |
5 | 286 | 159 |
6 | 318 | 191 |
7 | 304 | 175 |
8 | 317 | 186 |
9 | 453 | 219 |
10 | 287 | 163 |
11 | 288 | 166 |
12 | 445 | 225 |
13 | 318 | 168 |
14 | 463 | 242 |
15 | 377 | 220 |
16 | 334 | 198 |
17 | 352 | 198 |
18 | 375 | 198 |
19 | 368 | 212 |
20 | 694 | 291 |
21 | 621 | 305 |
22 | 534 | 265 |
このカウント表がどんな意味を持つのか。些細なことでは,日別の日記の長さ,それと内容との関係,総語数と異なる語数の比を取って,その比率の違いと内容との関連性など。例えば,一番長い日記は20番の7月30日のものである。長くなったのは,一つには引用詩を含んでいる(この項は3行,次項21では13行)からでもあるが,内容的には次項(翌31日付)と共に,自由意志と不死(free will and immortality)についての当時の彼にとっては核心的・最終的議論を展開しているからである。この20,21の総語数に対する異なる語数の少なさ(両者とも半分以下)に注目されたい。free will, immortalityという語(および主題に関連する語,例えば soul)が頓発されているので,総語数の割りに異語数が伸びないものと思われる。欲をいえば,使用語の出現度数がカウントできれば,より具体的に使用語と内容との関係が分かるはずだ。しかしSpellStarではこの点は自動的には知りえない。ここではWordStar本体を利用して,Kimihira(1983)で紹介したように,検索・置換コマンドを用いてみた。まず・検索・置換コマンド∧QAを与えて,(FIND? に答えて)検索文字列(ここでは soul としよう)を入力し,OPT10N? に対しては,G(Global search全文対象サーチ),N(Automatic replacement 自動置換),U(ignore Upper/lower case 大文字・小文字の区別の無視)をキー・イン・REPLACEWIT? にはsoulと答えてRETURNを押せば・瞬時にしてテキスト中の soulもSou1も*sou1に置換されてしまう。この "soul" を勘定するのがまだ不安(自信がないの)なら,∧QFコマンドを与えて FIND? に対して "soul" と答えると第一の検索語 *soul にカ一ソルが移るから,以後∧L(Find(&replace) again)を検索語の尽きるまで(NOT FOUND と表示される)打鍵する。∧Lの打鍵回数+1が *soul の出現回数と言うことになる。なお,immorta1もimmortalityも共に検索したいのなら,検索文字列としてimmorta1を入力し,OPT10NとしてW-whole word search コマンド(語全体が一致しているもののみのサーチ)を与えなければよい。とにかく,このような方法で,キーワーヅ free wi11, immortality, sou1の出現度数は<20>では,free will:11回, immortality:4回(immortalはない),<21>では soul:8回, immortality:4回 であった。但し,少々念を入れて,代名詞(ここでは,いずれも it)を検索して置いて,その指示語を同定して置かないと危険である。(実際,sou1 が it で表されていることがこの個所では1回ある。) 前回にも触れたように,キーワードを含む重要と思われる文・パラグラフ・セクションが見つかったなら,その個所の始めと終わりで∧KBおよぴ∧KKと入力することによりブロックを作る(画面上は反転表示)。このブロックは∧KWによって任意のファイル名を付してディスクに書き込めるので,いつでも∧KRコマンドで呼出し,引用したり,印刷処理をすることができる。所謂この'電子式切り貼り' 機能は文献処理で重要な,使い道の多い価値を有するものと思う。(昭和59年5月20日)
参考文献
R. Clark(1960/1981の誤記or誤植か?) Bertrand Russell and His World. Thames and Hudson
: (1975) The Life of Bertrand Russell. J. Cape and Weidenfeld & NicoIson
T. Kimihira(1983) 'Notes on English Word Processing'. Litteratura 4.
B. Russell(1938) 'My Religious Reminiscences' Rationalist Annual, repr. in Russell(1961)
1 : (1944) 'My Mental Development' In Schilpp(1951)pp.3-20.
: (1959) My Philosophical Development. Allen & Unwin
: (1967) The Autobiography of Bertrand Russell, v.1. Allen & Unwin
: (1961) The Basic Writings of Bertrand Russell; 1903-1959., ed. by R. E. Egner and L. E. Dennon, Allen & Unwin
: (1983) Cambridge Essays.(=The Collected Papers of Bertrand Russell, v.1), ed. by K. Blackwell et. al. Allen & Unwin
P. Schilpp (ed.)(1951) The Philosophy of Bertrand Russell. Tudor Publishing Co.<
注
(1)Russell 自身の『練習帳』への最も古い言及は,婚約者 Alys P. Smith への書簡にあり,後述の分類に従えば,8項目が抜粋された書簡が保存されていると言う。印刷・発表されたものでは,Russe1l(1938)中の引用が最初だと思われ,そこでは第5項目(4月2日付)の中間から末尾の一部残した部分が抜粋され,神の存在と自由意志の両立性の困難さが論じられている。
(2)(機種名)PC-8201(NEC製)
(3)再入力の労を厭わないのなら,同一文書を再入力して(例えば,GK20. old に対し GK20. new と言う)ファイルを作り,CP/M-86上で COMP.CMD を実行する方法もある。二つの文書のアスキー・コードによる表示が示されるが, 同一個所は新文書においては単にドット(・)で表されるので相違点が分かる筈だが,どちらかに一個所でも脱落があれば以後すぺて相違があると見なされるから,一目瞭然とは言い難い。SpellStar の如きスペリング・チェック・プログラムを使用する際の注意点として,英語辞書にある僅かの差異の有る語の誤入力の危険がある。この日記に頻出する immortality の代わりに immorality と入力しても無論チェックにパスする。因に,(14)ではimmortalityが7回,immoralityが1回出現する。
(4)(機種名)PC-9801(NEC製)
(5)CP/M-86(for PC-9801)Version 1.1(1982) Digital Research Inc./Nippon Electric Co. Ltd
(6)WordStar releasc 3.21(Micro Pro International Corp.)
(7)Spe11Star release 1.20(Micro Pro International Corp.)