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江口朴郎「南阿戦争とイギリス-ラッセルの立場」

* 出典:『帝国主義時代 II』(岩波講座「世界歴史」第23巻,1969年12月刊)pp.426-430
* 江口朴郎氏(えぐち・ぼくろう:1911-1989)は,執筆当時,津田塾大学国際関係学科教授(東京大学名誉教授)


 いわゆる「世界分割」の終わりつつある時代に,ヨーロッパ以外の地域における人間解放の問題は当然極めて深刻であった。
 東アジアにおいては,日本清国とが多少とも近代化の道をたどりつつあったればこそ,その間にはさまれた朝鮮はこの帝国主義時代に幾重にも犠牲を担わされていた。ここではすでにたびたび論ぜられたように,「東学党」といわれる運動が本質的な農民運動として発展した。しかもこの運動が西学に対して自ら東学と名乗るように,しばしば非近代的な思想と結びつき,また封建的な権力との結びつきさえ生じやすいのも,むしろ民族解放運動に共通の特微でさえあった。そのうえ支配階級の側でも当然開化派守旧派とが存在し,しかも,これも当然のこととして,外国勢力と結びつくことが「現実的」とされがちであった。その点は中国における義和団,さらに孫文・康有為・李鴻章・清朝等々のそれぞれの立場や,動きにもあらわれている。さらにフィリピンの場合を考えても,スペインから独立しようとするアギナルドの運動は1898年の米西戦争においてアメリカに利用され,その上で戦後はアメリカに対して数年間の抵抗を続け,しかも結局は敗北せざるをえなかった。この段階における民族的諸矛盾,その文化面への反映については,ここで述べるまでもないであろう。特に日本の近代化の過程が,この帝国主義時代の歴史に制約された特殊な存在であるだけ,東アジアについては他に詳論される場所があるであろう。
 この時期において,このような矛盾を極めて深刻にもっていたのが南アフリカであった。1899年に始まる南阿戦争は,それ自身,民族的な矛盾を最も複雑にはらんでいる一方で,当然西ヨーロッパ,特にイギリスの社会的・文化的危機感を呼び起こしていた。いうまでもなく,この南アフリカには原住民がおり,ボーア人はオランダ人の子孫である。このほかにアフリカにはその当時インド人約15万,アラビア人と称する回教徒の商人たち等々が存在する。したがって,原住民,オランダ人とフランス人の混血と称するボーア人が存在し,インド人の中には母国インドでの宗教的差別・階級的差別が南アフリカにもそのまま持ちこされている。1893年,かのガンディーが弁護士としてこの南アフリカに渡るのであるが,そこではインド人は居住・職業・乗り物・宿屋・交際・便所に至るまで,ヨーロッパ人から完全に差別される。ガンディーは,人種差別の問題をかつて留学したイギリスにおいてではなくこの南アフリカで正面から経験せざるをえなかった。ガンディーはこのような南アフリカで,インド人の組織化に努力しつつあった。そのような時期に,1899年,イギリスは南阿戦争を始め,ボーア人の建てたトランスバール共和国やオレンジ自由国を征服し,イギリスの直轄領であるケープ,ナタールの2つの植民地とともに,自治植民地「南アフリカ連邦」を造ろうとしていた。当時なお,インド人のイギリス統治下の幸福を信じ,眼中に南アフリカのインド人の運命だけしかなかったガンディーは,この戦争が帝国主義的な侵賂戦争であることから眼をそらし,1000人以上のインド人野戦衛生隊を組織し,大英帝国に奉仕した。
 このようにしてボーア戦争はこの時期の従属的諸民族のもつ矛盾をさまざまの形で反映するものであったが,この戦争がイギリス国内に与えた影響も多大であった。この1899年から3年間続いたボーア戦争自由党の帝国主義に反対する一部の党員に反戦的な「親ボーア運動」を提唱せしめたが,社会主義運動家のウェッブ夫妻はむしろ政府のとった態度を支持したので,後の労働党党首ラムゼイ・マクドナルドなど約40名はフェビアン協会を脱会した。帝国主義論の古典的な名著とされるホブスンの著作もこのような雰囲気の中から生まれた。

 しかしこのような政治的転換の中で,文化面にあらわれた1つの顕著な転換は,バートランド・ラッセルの場合であろう。
 この南アフリカにおける戦争の事実は,少数のイギリス知識人に大きな衝撃をもたらしていた。1902年,19世紀を通じてイギリス帝国主義はまだ完全にはいきづまりを意識しないで済んでいた。客観的には植民地で原住民に対する搾取が行われていたとしても,本国では進歩の側が着々と政治的な地歩を獲得し,人々は人類の進歩について明るい見通しを持つことができた。しかし数十万の大軍を動員しボーア人の農場を徹底的に破壊して,罪のないボーア人たちを悲惨な収容所生活に追い込んだ後,ようやく勝利することができたこの戦争は,知識人たちを大きな懐疑に追い込むのは当然であった。はじめウェッブ夫妻等にならって戦争を支持していたラッセルは,植民地戦争の実体が明らかになるにつれて大きな'回心'を体験した。1902年,30歳になろうとするラッセルは「自由人の信仰」というエッセイを書き上げた(松下注:発表は1903年12月)。それが帝国主義的な戦争を経験してのラッセルが人間の愚かさを思い知らされたことを意味していた。このころ,へーゲルなどの観念論から解放され,数学的論理学の方向に向かいつつあったラッセルの立場は,このように当時の世界情勢と無関係ではなかった。
 ラッセルが婦人参政権運動その他に示した政治的関心も知られているが,なんといっても1914年の第一次世界大戦の勃発は,また彼に深刻な影響を与えている。この戦争の勃発の時期に労働者や社会主義者が続々と戦争を支持する方向に態度を変えていく頃,ラッセルはケンブリッジ内の教授やフェローの間で中立を主張する声明文の署名をはじめ,新聞に発表する等々の活動をしていたが,政府の宣戦布告とともにこのとき署名した人たちも大部分は参戦支持にまわっていた。8月4日の夕方,ラッセルはトラファルガー広場で,戦線布告に興奮して集まってくる群衆をながめていたが,たった2日前にはこの同じ場所で参戦反対の集会が開かれていたのであった。人々の間では,今年中には簡単に終わるだろうというような楽観的な見通しが描かれていた。このときラッセルは戦争が普通思われているように必ずしも単に政府によって民衆に押しつけられるものでない側面を知ったのであった。いわば「政治と個人的心理の関連の重要性」に気付かされたのであった。この辺にも厳密な論理学者の立場からみた新しい大衆的な社会の問題点が提示されているといえるであろう。
 ラッセルの態度は,孤独のなかで理性の立場を守り抜くというものであったが,1916年,イギリスに微兵制度がもうけられるや,徴兵反対同盟の人々とともに反戦活動に加わった。彼の戦争支持者たちに対する批判は痛烈なものがあり,当時大蔵省に入って兵役を免除されていた経済学者ケインズに向かって「君は微兵制に対する良心的反対者に共鳴しているくせに,なぜ大蔵省に入ってできるだけ安上りにたくさんのドイツ人を殺そうなどという仕事に従事しているのだ」と詰問したこともよく知られている。この年,良心的反対者の一人が重労働2年の刑を宵告されたことに抗議するパンフレットを執筆した,ということによってラッセルは100ポンドの罰金を申し渡され,トリニティ・カレッジの評議会は満場一致で,講師ラッセルの罷免を決定した。アメリカのハーバード大学に就職する機会を得たが,内務省が旅券の発行を拒否したので渡航できず,経済的にも窮迫したラッセルは就職を断念し,各地を講演してまわったが,その当時イギリスにおいても民衆は戦時下の異常な状態にあり,ラッセルはしばしば肉体的な危害さえも加えられそうな雰囲気であった。この時代,同じ平和主義者の仲間として作家のD.H.ロレンスもいた。
 すでに第一次世界大戦の見通しもほぼついた1918年,ラッセルは微兵反対同盟の機関誌に「英仏に駐留するアメリカ軍は,将来ドイツにそなえるだけでなく,労働者のストラィキを威嚇する役割をもはたすことになるであろう」と論じたことによって,同盟軍を侮辱したという意味で6力月の禁固を宣告され,5月から5ケ月半入獄した。
 1918年11月11日,第一次世界大戦は終結した。群衆は喜び,ラッセルも喜んだ。「しかし私は前と同じく孤独だった」とラッセルは自ら記す。碓かに戦争の結末もまた幻滅であった。イギリス首相ロイド・ジョージは,戦争直後の選挙に勝つためには民衆の興奮に妥協して,結局ドイツから多額の賠償金をとることを約束しなければならなかった。その他さまざまの矛盾を残したベルサィユ条約が成立した。平和の使徒として期待されたアメリカ大統領ウィルソンも,孤立無援の空しい努力ののち,失意の状態で帰国しなければならなかった。客観的にはこのベルサィユ体例の矛盾は相当深刻なものであったが,このような欧米の政治的指導者自身にもそのことはある程度認識されざるを得なかったし,いわんやラッセルのような透徹した認識の下では,いっそう強い幻滅として感ぜられていた。
 ラッセルは,1920年にソヴェト・ロシアを訪問したが,この時期のソヴェト・ロシアの実体に対しても辛辣な批判を下している。この第一次大戦後の諸経験ののちに,ラッセルがマルクス主義に対していだく理論以前の直接的な不満は,それ(マルクス主義)が科学的知識ではなくて,偏見になってしまっている,ということであろう。そのことは「他の人々の学説と同様,マルクスの学説は部分的には正しく,部分的にはまちがっている。・・・。マルクスが宗教的な畏敬の念であつかわれれば,それは不幸な結果を生じることになるだろう。しかし彼もまたあやまりやすいものとしてあつかわれれば,マルクスはなお依然として,最も重大な真理の多くを含むものとしてみられるであろう」というふうに,要約されている。