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杉浦光夫「学者の伝記と回想(ラッセル)」

『UP』(東大出版会)1986年12月号所収)

* 「ノートの余白」シリーズ n.12
* 杉浦光夫(すぎうら・みつお,(1928~ )は、当時東大教授(数学専攻)


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 学者の伝記は、その人物と学問の2つを伝えなければならない。2つの目標を共に達成することは大変難しく、多くの伝記は一方に重点を置いた記述となっている。石川悌次郎『本多光太郎伝』(日刊工業新聞社)は、刊行会が文筆家に依頼して出来たもので、終生三河弁で話したこの大学者の風貌をやや俗な文体で描き出している。定年になっても毎日研究所に来て、各研究室を「どうだあん」と言って廻り、事務は書類の決裁のために所長欄の上にもう一つ「本多先生」という欄を作ったという話など、本多とその育て上げた研究所の関係も良く書かれている。一方、本多の研究内容そのものについての記述が手薄なのは止むを得ない。
 これと対蹠的なのが、板倉聖宣・木村東作・八木江里『長岡半太郎伝」(朝日新聞社)である。これは専門の科学史家の手になるだけあって、土星型原子模型など、長岡の研究の内容及び他の研究との関係について詳細な記述がある。その生涯の仕事の詳しい記述から、自ずから長岡の人間像が浮び上って来るが、重点は明らかにその業績に置かれている。学者の伝記として、自伝や回想の類も重要である。歴史学では、自伝や回想は主観的で信頼度が低いので、他の史料と照合することが鉄則となっている。しかし学者や作家の回想には、本人しか証言できない創造の機微に触れた発言が見られる点で、忘れ難い感銘を受けるものが存在する。筆者が感銘を受けた2つの実例を紹介して、この文章を終ることにしたい。

 バートランド・ラッセルは、1901年(ラッセル29歳)頃から数学を論理学の上に建設する『数学原理』という本を書くことを計画していた。所が間もなく彼は1つの逆理(paradox)を発見し、この計画は行詰ってしまった。ラッセルはこれを解決するために以後数年間苦闘を続けた。丁度この期間はアリス夫人との結婚生活が破綻した時期と重なっていた。ラッセルの『自伝』(G. Allen & Unwin)は次のように記している。「当時私はこの矛盾を解決しようと懸命に努力した。(中略)昼食のための短い中断を除いて、私は一日中白紙を見つめて坐っていた。夕方になっても紙には何も書かれていないことがしばしばあった」。「この白紙を見つめながら私の一生は終ってしまうのではないかと思えてならなかった」。「私はいつもオクスフォードのケニントン歩道橋の上に立って通り過ぎる列車を眺め、明日にはこの列車の下に身を投げようと考えた。けれども明日になると、『数学原理』は何時かはできるに違いないと考え直すのであった」。こうした数年間の苦しい思索の後ラッセルは、「型の理論」(タイプ理論)を思いつき、遂に矛盾を克服することができたのであった。

 岡潔博士は、多変数解析函数論では、3つの問題が中心であると見定め、1935年3月から、これに取組み始めた。『春宵十話』(毎日新聞社)には、次のように記されている。「しかし、さすがに未解決として残っているだけあって随分むずかしく、最初の登り口がどうしてもみつからなかった。毎朝方法を変えて手がかりの有無を調べたが、その日の終りになっても、その方法で手がかりが得られるかどうかもわからないありさまだった。答がイエスと出るかノーと出るかの見当さえつかず、またきょうも何もわからなかったと気落ちしてやめてしまう。これが3ヵ月続くと、もうどんなむちゃな、どんな荒唐無稽な試みも考えられなくなってしまい、それでも無理にやっていると、はじめ10分間ほどは気分がひきしまっているが、あとは眠くなってしまうという状態だった」。「ところが9月になって(中略)中谷さんの家で朝食をよばれたあと、隣の応接室に坐って考えるともなく考えているうちに、だんだん考えが1つの方向に向いて内容がはっきりして来た。2時間半ほどこうして坐っているうちに、どこをどうすればよいかがすっかりわかった」。「私はこの翌年から「多変数解析函数論」という標題で2年に1つぐらいの割合で論文を発表することになるが、第5番目の論文まではこのとき見えたものを元にして書いたものである」。(すぎうら・みつお 東京大学教授 数学)