バートランド・ラッセルのポータルサイト

ダグラス・クラーク(著)、相川高秋(訳)『再び宗教は必要か』への著者の序文

* 出典:ダグラス・クラーク(著)、相川高秋(訳)『再び宗教は必要か』(荒地出版社,1959年10月刊. 157 p. 19 cm.
* 原著:Christianity and Bertrand Russell, 1958, by C. H. Douglas Clark.)
* 関連ホームページ(福音総合研究所):「バートランド・ラッセルはなぜキリスト教徒ではなかったか」
* 下記の序文は、キリスト教を信じる者は共感できるであろうが、他の宗教の信者は、納得できないと思われる。宗教が現代において有効・有益であるためには、「キリスト教が唯一・・・」といった発言・主張はすべきではない。そのような態度では諸宗教の共存は不可能であり、この地上に平和はもたらされないであろう。もっともどの宗教を信じても同じということであれば、それは「宗教」あるいは「信仰」の名に値しないことになるだろうが・・・。


 

 キリスト教は、その真理に対して、それ自身がその証人となるとしばしばいわれている。私は、いろいろの反対や障害を征服しうるキリスト教の内在力に関してつゆほどの疑いももっていない。だがそのことは、たとえその教えが攻撃されても、反駁したり説明したりまた抗論したりする必要がないということにはならないと思う。
 ラッセル卿は、1927年、バターシーに於て「何故私はクリスチャンでないか」と題する1つの講演を試みた。この講演のテキストは後に印刷されたが、その発行部数は3万5千部にも達し、1951年にはその第11版が出されている。それとは別に、本年(1957年)彼の論文集が出版されたが、その論文集は、右の論文を冒頭にのせ、かつその論文題をそのまま、この新刊の題名に用いている。
 私のこの著作の仕事は今から3年前に始められた。私はその3年の間、出来るだけこの著者の書いたものに眼を通し、その見解を確めることに骨折ってきた。私はその調査の結果、この問題の講演が、今でも、彼の見解であり、かつその適当な要約であると信ずるようになった。それで私は、その講演に答えることが無駄なことではないと考えたのである。
 ラッセル卿(彼は自身では単に、バートランド・ラッセルとだけ表現しているが)は、平和と核兵器廃止の有力なる主張者である。戦争をさけるための彼の真摯な論文と努力とに対する我々の感謝を彼が受けた後、彼がその希望を実現させるのに役立たせることの出来たはずのキリスト教を排撃したということは、私には多少とも悲しく思われるのである。彼は、神はないということ、キリストは一番賢い人でも一番善良な人でもなかったことを人々に納得させようとしている。私がかつてキリストの教えを納得させようとした1学生は、偉大な思想家達がそんなことを信じていないのだから、私が信ぜねばならない理由はどうしてもない、と私に反撃してきた。そのことは、私のキリストに関する説得を困難にしただけでなく、今問題にしているような論文が、キリストの教えを検討しようとする人々にどんな大きなつまずきを与えるかということを、私につくづくと考えさせたのである。
 私はこの著書に対して、どうしても反駁をしなければならないと固く信ずるようになった。それで私はこの答えを書きあげる仕事に私を捧げたのである。予期していたように、これは容易な仕事ではなかった。私としてもすべての人が私に賛成してくれるだろうとは考えていなかった。しかしこれは、私の深い思索と祈りと書きなおしとの生み出した果実であったのである。私は私なりにこの偉大な哲学者とは異っている1つの見解を提出しうる希望をもって、この仕事を世に問うつもりである。私はしかし、気づかずして犯すかも知れないあやまちのために、あらかじめ読者に対しここにお詫びをしておきたいと思う。
 キリストの教えの基礎的原理を欠いた場合、人間は急速に堕落していくものであることを示す沢山の証拠が存在している。元来人間に与えられた仕事は、その心の内部から道徳的方向に向ってたえず進化的な過程をつづけていくことにあるように思われる。そしてその目的実現にとって.必要である心の進化に対する唯1つのインスピレイションはキリスト教のみが与えうるものと思う。キリストによって与えられた、一変したものの見方、一変した動機というものなしでは、人間はその体内に深く巣くった願望や本能との戦いに於て、たやすく、理性や慈悲心の上におかれた原則を棄てさるものなのである。このことが、キリスト教の助けなしで、よりよい世界をつくり出そうとしているこの親切なヒューマニストヘの私の答えの中心をなすのである。
 およそ第16世紀頃から、漸次ではあるが確実に、人間による人間の讃美が強化されてきていることを歴史は記録している。科学とキリスト教思想との間に、なにか根本的な対立があるのではないかという疑いが、最初に起きたのは、その時代であった。この感じは、人間が自然力の主人になるにつれて漸次に強められてきた。人間の謙譲を増し加えるはずの人間の業績が、しばしば彼の自己充足心を強め、彼を聖なる力よりの独立者と感ぜしめるに至った。この傾向は、人間の進化は人間の努力によると主張する人々の声に影響されて更に強化されていった。このような害毒を及ぼす考え方を破っていくのは、ますます科学者たちの責任になってきているように私には思われる。特にその科学者たちが、科学と宗教との間にはなんらくいちがいがないと考えている場合は猶更そう主張されねばならない。科学というものは、それ自身の中に矛盾を示したことはしばしばあったが、科学と宗教との関係は、もし両者が正当に理解されさえしたならば、なんらの争いも起りえないはずのものなのである。
 我々は今ある意味で『うつろの人間』の時代に生きている。うつろな人間の金銭に対する欲望は、ふところに十分食べものや飲みものをもっているのに、その他のすべての配慮を押えつけて、目的自身となっている。世の中には、幸福というものは、大きな富や閑暇に附随していると考えているものが多い。戦争の脅威のある場合は例外として、物的所有が義務の根本的考慮以上の重要性をとりつつあるのである(松下注:原文を見ないとわからないが、このあたりは誤訳と思われる。多分、「現代人は、物的所有について、必要以上の重要性を与えている」といったところだと想像される。)。このような雰囲気の中では、神はない、死後の世界はない、従って最後の審判等ありえないという声が、熱心に歓迎されるのも無理はない。今や、道徳的責任を訴える人々の声には誰も、振り向こうともしない。教会はいまに空になるだろう、そして奉仕と自己否定を説く人達は、全くその人気を失ってしまうことだろう。人々は出来る限りに於て安楽椅子にふかぶかと身を沈めようとし、警告の声はそのうちにきかれなくなるであろう。しかし自己中心的な生活は、果して、人間に満足を与えるであろうか。ある経済学者がタイムズに寄稿して、、「我々の間に広く拡がっている絶望に似た、深い不快」*1と彼が称しているものの原因について調査をしている。彼によると、人間は経済的な要求をすべて満足させても、何か欠けているという不安な感じを心の中にもつものなのであって、なに1つ不足ないということだけでは思っていた程の満足を人々は心にもてるものではない。それでそんな場合人々は、この心の不満をごまかすために麻酔薬や酒類に関心をもつようになり、やがて堕落の路を辿るようになるものなのである。本年度の英国協会の心理学部門の議長である某氏は言っている。「ある時の調査では、病気のため仕事を休んでいる人が約百万人いたが、その大部分は、肉体の病気というよりは、心理的な病気であった」心労は人々を病気に導くと言われている。同時に暴力犯や性犯罪が悲しむべき増加を示し、どこの精神病院も満員であると報ぜられている。しかるに福祉国家と称せられているこの国では、人々の生活程度は一般的にかなり高い。そこで我々は、人々の胸にひそんでいるこの不快の原因を、経済的なもの以外に求めなくてはならなくなるのである。まことに人間は、パンのみで生きるものではないらしい。キリストの教えや影響なしでは、人間は人生の目的や運命について、心にひそむ不安をもたない訳にはいかない。その不安をもつということが、不快や病気の根強い雑草を人の心に生えさせる土壌を彼等に与えることになる。その結果人人は不平家になり、不機嫌、神経過敏になり、またやたらに粗暴な、喧嘩好きな人間になる。キリストなしでやっていけるという人の言葉は、ほんとではない。我々は心の底からそう考えている。この世は道徳的な世界であり、人間は本質的に言って、堕落の可能性をもった精神的存在である。従って人間は神を失えば、その性格の一番深みに於て飢えと不満とを感ぜずにはいられないのである。
 今日の世界の状況は、人々の心が善に向っていくということに関して、多くの希望を与えるものであるとは言えない。核兵器による人類死滅の恐怖に常にさらされているので、人々は容易に、安っぽい享楽主義に陥りやすいのである。この享楽主義は、一皮むけばペシミズムと恐怖につながっていることが解る。民主主義の将来は、信仰や希望をさまたげるような心理的、精神的な力に脅かされている。私はキリストが、この一般的な幻想や恐怖に対して、ただ1つの、ほんとの治療法を提出しているのだと思う。
 進化論的過程や、歴史の変移の中に、なんの目的をも見出すことの出来ない人々に対して、キリスト教は1つの答えを提出している。人間の進化は、道徳を完成させるという目的をもっている。それは、自我を遠く越える愛によってたえず促進されるのである。私はこれこそが、長い苦悩にみちた「進化」の目的であったと思う。人間は自分もそこから出てきたこの過程に1人1人協力するという気高い運命をになわされている。ところが人間はややもすると自利心から行為しやすいのである(もつとも同時に、人にほめられたがったり、面子(メンツ)を保ちたがったり、また自分の過ちを認めて誇りを失わない限り適当に説をまげたりはするのではあるけれども),キリストは我々に、愛の神に向けられた我々の愛が、すべての行為の動機であるべきことを教えた。これ以上高い衝動に基礎をおいた道徳的教訓を我々はまだきいたことがない。キリストは人間を、金や財産の利己的獲得の上ではなく、利他的な奉仕の上に、その進歩の土台をおいた精神的存在者として考えた。そのようにしてキリストは、善に向う最高の動機と同時に恐怖よりの唯一の逃げ路を我々に示したのである。まことに聖書にかかれている如く神を愛する人々には、すべてのことが働いて善となるのである。
 20世紀になって、徐々にではあるが、確実に、信仰の衰退があったことは否定出来ない。その原因を調べてみると、2つの世界大戦後、教会出席が著しく減ったことが、非常に大きく我々の注意をひく。私は、この'悪人の敗北'に終った2つの戦争の結果が、すべてを支配する力の神に対する信仰の増加になると考えていた。もし神がこの戦争を許さなかったとするならば、あの傲慢な専制者達の計画は挫折しなかったかもしれなかったのだ。(松下注:クラークにおける'神'はどのようなものであろうか? 戦争を防止できるような'全能の'神でないとしたら、罰だけを与えることができる、'サディスティックな'神であろうか?)神は、いわばこのような人々が、遂には自分がかけたわなに陥ることを確証してみせたのである。そのことは明確にこの時代の歴史の頁にかかれている。もう1つの原因は、疑いもなく、今目前におかれているような本の出現である。勿論信仰の喪失は漸次的である、それは決して1つの議論、1つのうまい言葉で一挙になされるものではない。ただある著名な哲学者達が信仰の結論について批判したことが、この言葉、あの文章として次第に人々の心にしみこんでいって始めてその作用は認められるに至るのである。元来人間は本能的に不信仰への好みをもっているので、このような書物は非常な影響を人人に与えると私は信ずる。しかしそれと同時に、私は、世の多くの知的世論の指導者達が、キリスト教の倫理に、大きな同情を示していることも否定出来ないと思う。この人達の影響が民衆の中にしみこむのにもまた時間がかかるのではあるが。
 今日宗教問題に関してかなりの関心が世間にあることは確かである。先日ある日曜新聞が、死後の世界はあるのかという意味で「一大神秘」と題する論文のシリーズを出版した時に、編集者の言によれば、バートランド・ラッセルの寄稿文が、数多くの読者側の投書をもたらしたということである。その数百通の中から選ばれたものだけが後に印刷されている。そんな状況から考えると、今日(1958年当時)、宗教はベスト・セラーであると言ってもよいほどである。
 ここで私は私の善き友 N.A.ボナビヤ・ハント氏に謝意を表わしたい。氏は私の執筆中を通じて貴重なる討論によって私を助けまた非常なる興味をもって私の仕事を、みまもってくれたのである。私はまた次の諸著作からいろいろの指示を受けたことも感謝をもってここに記しておきたい。
 1)He Who Is, by E. L. Mascall, B. D., 2)Human Destiny, by Lecomte du Nouy, and 3)The 1953-1955 Gifford Lectures On Selfhood and Godhood, by Professor C. A. Campbell.
 私はラッセルの前掲書(1951版)からの引用について逐条的に述べていくのが最もよいと考えた。それらは各節の始めにイタリックで印刷しておいた(日本文では2字下げの部分)*2。これは一寸風変りと思われるが、それは読者の時間を節約することになると信ずる。なぜといえば、そうすることによってわざわざ前置きしなくても、私の理解によって本質と思われる点を示すことが出来たからである。そのために全体としてだいぶ縮めることも出来たと思う。それ故私はその本の出版社ワッツ社、並びそのような引用の仕方を許してくれた原著者に対して深甚な感謝の意を表する次第である。
 1957年11月、ピースヘーブンにて  著 者
注1:著者は、ここで特に malaise というフランス語を用いている。
注2:ラッセルの『宗教は必要か』(原題「なぜ私はクリスチャンではないか」)からの引用文に付せられたページ数は、荒地出版社の同訳本のページ数である。訳文は原著からの訳文で、大竹氏の訳とは同一ではない。