N.チョムスキー(著)『知識と自由-ラッセル記念講演』pt.1
* 出典:『知識と自由』(川本茂雄・訳:番町書房、1975年5月刊) pp.70-71.* 原著:Problems of Knowledge and Freedom: the Russell lectures, by N. Chomsky (Random House, 1972)
* 訳者・川本茂雄氏(かわもと・しげお、1913~1983)。フランス語学、一般言語学専攻。私も学部の学生の時、川本先生の言語学の授業をとりました。川本先生の訳は少し固い(直訳ぽい)ところがあります。言語学者ではありますが、かならずしも(日本語が)適訳でないところが散見されます。
* チョムスキーは序文の最後に「彼(ラッセルの)哲学的信条と政治的信条とのあいだの連関」について、第1講の最後と第2講の最初で述べるといっているが、以下は、前者にあたる。
発端において無拘束であって、勝手な方向へ自由に乗り出してゆくという精神の姿は、一瞥したところでは、人間の自由と創造性とについていっそう豊かで、いっそう有望な見解を示唆するかのようであるが、わたくしはこの結論は誤っていると考える。
ラッセルは彼の研究を Human Knowledge, its scope and limits(「人間の知識-その範囲と限界」)と題することにおいて正しかった。精神の原理は、人間の創造性の範囲をも、限界をも提供する。そのような原理がなくては、科学的理解と創造的行為とは可能ではなかろう。あらゆる仮説が発端において同格同等であるならば、科学的理解はいかにしても達成され得ないであろう。われわれの限られた証拠と両立する、そして仮説によって精神に等しく入手可能な、諸理論の厖大量のうちから選択する方法がないことになるからである。あらゆる形式、あらゆる条件と拘束を放棄し、単になにか手当り次第の、全く気ままなやり方で行為する人は、他のなにをしているにせよ、芸術的創造にたずさわっているのでは確かにない。「詩心は、あらゆる生ける力と同じく」、おそらく「それ自身の創出にかかわる法則のもとに、規則によって己自身を必然的に取巻かねばならない」、とコールリッジは書いた。
もし、ラッセルがしばしば表明したように、人間の「真の生」は「芸術と思索と愛情とのうちに、美の創造と静観とのうちに、世界の科学的理解のうちに」あるならば、もしこれが「人間の真の光栄」であるならば、われわれの畏敬の、そして可能ならば探索の対象となるべきものは、精神の内有の原理である。
人間の知能の最も身近かな達成のうちのいくつか- 例えば、言語の普通の使用- を究明する間に、それらの創造的な性格、規則の体系のうちにあっての自由な創造という性格によって、われわれは直ちに感銘を与えられる。
ラッセルは書いた。「人間主義的な把握は小児を園芸家が若木を眺めるように眺める、- すなわち、適当な土壌と空気と光とが与えられれば見事な姿に発育する、一定の内有的性質をもつものとして」。人間の成就のうちで最も普通でつつましやかなものの根底に所在する不変的な構造と原理との豊かな体系を発見するにつれて、人間についての人間主義的な把握が前進され、実質を与えられる、と言うことは正当であるとわたくしは考える。