チョムスキー「デューイとラッセルの教育観」
* 出典:ノーム・チョムスキー(著),寺島隆吉・寺島美紀子(訳)『チョムスキーの「教育論」』(明石書店、2006.8)(以下、引用します。興味のある方は、図書館等で借りるか、ご購入ください。)
私が依頼を受けた話題は、「民主主義と教育」についてです。(原注:この論説は、1994年10月19日に、シカゴのロヨラ大学で行われた講演である。)
民主主義と教育という言葉はただちに、20世紀の傑出した思想家の一人であるジョン・デューイの生涯と思想を思い起こさせます。彼はその生涯と思想の多くをこの問題にささげました。
実をいうと私は彼に特別の関心をもっているのです。このことには多くの理由がありますが、彼の思想が私の人格形成に強い影響を与えたということも、その一つです。・・・。
デューイは、晩年には幾分懐疑的になりますが、生涯の大部分を通じて、初等教育の改革がそれ自体で社会改革の大きなてこになり得ると考えていたように思われます。初等教育の改革が、より公正で自由な社会への道案内になると考えていました。「より公正で自由な社会」とは、彼の言葉を用いれば、「'生産'の究極的な目的が、商品の生産にあるのではなく、対等の立場で互いに連帯する自由な人間を生み出すことにある」ような社会です。・・・。
この伝統(左翼的自由意志論者の伝統)は、啓蒙主義的価値観に起源を有し、労働運動や他の大衆運動の大部分はいうまでもありませんが、ジョン・デューイに影響を受けた人々からなる進歩的自由主義者や、バートランド・ラッセルのような'独立的'社会主義者、また大部分が反ボルシェヴィキだったマルクス主義主流の優れた思想家たち、そして様々なアナーキストと'自由主義的'社会主義者を含んでいた思想的潮流だったのです。
この独立的左翼思想は、デューイもその一部だったのですが、古典的自由主義にその強力な根を持っています。私見では、この独立的左翼思想はまさにそこから成長し、国家資本主義あるいは国家社会主義的な制度や思想という専制主義的動向と鋭く対立しています。・・・。
教育の目的とは、ここでバートランド・ラッセルの言葉を借りれば「独裁的支配に価値を与えないこと」「自由な共同体の聡明な市民」の育成を支援すること、個人の創造性と自由をもった市民連合を奨励することにあります。つまり、「庭師が若樹を眺めるように、私たちが子供を眺めること」「適切な土壌と空気と光が与えられれば、素晴らしい形に成長していくという性質を本質的に持ったものとして子供を眺めること」がラッセルの言う教育の目的でした。実際、デューイとラッセルは、他の多くの事柄では意見が一致しなかったのですが、ラッセルが教育の「人間主義的観念」と呼んだ考えに関しては、意見が一致していたのです。・・・。それは18世紀の考え方でしたが、二人が復活させたものです。
ディーイとラッセルは、このような啓蒙主義や古典的自由主義の優れた思想が'革命的な性質'を持っていることを共に理解していました。そして20世紀の前半にその思想について書いたことを保持し続けたのです。それが実行されて初めて、'利殖・蓄財・支配'ではなく、むしろ、'平等・共有・協力'の下に自由に連帯すること、民主的に考えられた共通目標を達成するために対等の立場で参加することに価値を置く、自由な人間を生み出すことができる、と主張し続けたのです。「すべては私たち(自分たち)のために、他の人々のためには何も無用」という格言に対しては、軽蔑が存在していただけでした。アダム・スミスは、それを、「支配者たちの卑劣な格言」と読んでいました。
伝統的な価値観として賞賛し尊重するように私たちが教えられてきた、こうした「人間主義的」指導原理は、いま絶え間ない攻撃にさらされ、徐々に損なわれています。いわゆる保守主義者たちがここ数十年にわたって、そのような猛攻を先導してきたからです。//(ここまで)