E.H.S.バーロップ(著),奥山修平(訳・解題)「アイシュタイン・ラッセル声明起草のころ」
* 出典:『日本の科学者』v.15,n.1(1980年1月)pp.51-54.[(訳者注)世界科学者連盟(WFSW)会長 E.H.S. バーロップ教授は、1979年3月12日に、CERN(ヨーロッパ国際素粒子研究所)で開催されたアインシュタイン生誕100年記念集会に招かれ,講演をおこなった。その内容は、WFSW機関誌 Scientific World, v.23,n.2(1979)に 'The Einstein-Russell Statement' と題して掲載され、それがこの翻訳の原文である。訳文中の[・・・]は、訳者による挿入である。なお、バーロップ教授の略歴については,本誌1977年12月号41ぺ一ジ参照のこと]
(松下注:通常、「ラッセル・アインシュタイン声明」と言われているが、アインシュタインに対する尊敬の念からか、バーロップは「アインシュタイン・ラッセル声明」としている。)
きわめて傑出した科学者として,またきわめて傑出した人物としてのアルバート・アインシュタインについて全面的で有意義な評価を,私は今晩(1979年3月12日)、お二人の優れた科学者からうかがいましたが,その上でお二人の発言されたことに何かを補足しようなどという程、私はあつかましくはありません。私は,アインシュタインのプリンストン時代に一度会ったにすぎません。私の話は,アインシュタインの最大の関心事の一つであったかれの未完成の仕事 --すなわち核時代における人類の生存の問題-- に言わば脚注をつけたにすぎないものであります。この問題は,明らかにそして残念なことに私たちが成功していない領域のことであります。そこで,私は格別の関心を、アインシュタインの生涯のほぼ最後の活動であり,ラッセルと協力してかれが提唱したいわゆるアインシュタイン・ラッセル声明に払いたいと思います。
この声明は,明瞭さと、何にもましての緊急性とをもって,人類の直面している諸問題を提示しています。これらの論点は今日も依然としてきわめて説得力のあるものであり,私はあなたがたがこの声明を読み,あなたがたの間で討論し、それを今日の実情に関連づけるよう、希望いたします。そこで、この声明の準備に私も関係していましたので,私がその事をいく分詳細に述べることは役にたつかも知れないと考える次第であります。しかも,このことについて、私はかつて一度も話したことはありません(でした)。
1950年代の初期の時期 --つまり冷戦の頂点であり,アメリカのジョー・マッカーシー(Joseph McCarthy)に象徴されるように,自由主義者や国教を支持しない人に対する偏狭なやり方が横行した時期-- を,今日納得できるように再現することはむづかしいことです。極度の敵意にみちたこの環境下で,米ソ間の水爆開発競争が死にものぐるいに続けられていたのです。毎朝超きるたびに,睡眠中に核戦争が勃発してはいなかったことを知り、胸をなでおろすほどであった、というのもあまり誇大な表現ではなかったのです。
1954年3月のビキニ水爆実験の際、爆心地点から風下の方角に150km以上離れていた日本漁船「第五福竜丸」が,致命的な放射性降下物に見舞われるという悲劇的な余波を受けた事件以降,恐るべき危険性を孕んだ現実を公衆に警告するために何か効果的なことがされなくてはならない,という思いが広がっていました。
当時の世界科学者連盟会長であったフレデリック・ジョリオ・キュリーが,私にある頼みごとをもちかけてきました。それは,最も著名な、そして社会的・政治的立場については可能なかぎり幅広い範囲の科学者が一堂に会して、無視することのできないような重みをもった声明を発するよう,国際約に結集する準備を私が責を負ってやってみてはどうか、というものでした。その声明は,核兵器開発のもつ共通の危険性について、政府と国民とに同様に訴えるものとなろう,ということなのです。
私たちが直面した大きな困難は,資本主義国や社会主義国・第三世界の国においても等しくその意見が尊重されるようなきわめて傑出した尊敬すべき人物で,かつ会議の呼びかけ人として喜んで活動してくれる人をさがすことでした。ちょうどその時、1954年の暮でしたが、バートランド・ラッセルがBBC放送のクリスマス番組[1954年12月23日の「水素爆弾による人類の絶滅(破滅)」という番組](右写真参照/出典:The Life of Bertrand Russell in pictures and in his own words, compiled by C. Farley and D. Hodgson, c1972)に出て,かれの独特の言い回しで,水爆開発の結果として人類が直面させられている危険性を概説したのです。
私は,早速、ジョリオ・キュリーと連絡をとり,ジョリオが考えているような国際会議の呼びかけ人の役割を,ラッセルが引き受けてくれるかどうかを打診する書簡をかれに書くよう提案しました。書簡は実際、1955年1月31日に送られ,ただちに返事がありました。ラッセルは会議には賛成しませんでしたが,かわりに少数のきわめて傑出した科学者が署名をし,あらゆる傾向の意見を盛り込んだ声明を出すことを提案しました。ジョリオは,そうした声明についての提案を受け入れて、3月2日に返事をしましたが、会議が必要であることは力説しつづけ,声明に会議のための呼びかけを盛り込むよう提案したのです。加えて、ジョリオは、この問題に関するラッセルとの討論のために、自分の代理人として私(バーロップ)を推薦したのです。その結果、ラッセルから電話をいただき、ロンドン郊外のリッチモンドのかれの自宅に招かれ、お茶を飲みながら討論したのが1955年4月1日のことでした。
私は、おとずれてから知ったのですが、ラッセルはすでに声明について熟考し、草案をしたためていたのです。そこで私は、核兵器によってもたらされる危険性の言及の仕方においては草案は賞讃に値すると、思うところをのべましたが,明らかにラッセルは核兵器のことを全戦争の除去のために天が与えた好機であると見なしていたのです。多くの点で異なった見解をもつ科学者が結集し得る共通の立場とは,核兵器のもつ格段の危険性についてであって、基本的には絶対平和主義的立場を説くような草案で合意を得ようとするのは困難なこととなるであろう、と私は述べました。(松下注:ラッセルは、核兵器製造の技術が広まっている現代世界においては、小規模な戦争であっても、核戦争にいたる危険性があると考えていた。)また私は,科学的な会議の呼びかけが一切ないことを批判いたしました。私たちはこれらの事柄について長時間論議をし,ついにラッセルは,草案を改めて準備しようと述べたのです。
かれは,私に4月5日に再度おとずれるよう求めました。かれは,次のような主旨の一節を文章に挿入したのでした。それは,「'戦争自体の撤廃'が核兵器に対する唯一正しい防護措置であるが,第一段階として核兵器を放棄する協定は好ましいものとなるであろう」というものでした。かれは、この問題をこれ以上つづけるつもりはなかったのですが,討論の末,私の指摘したほぼ全ての点を含む重要な修正をさらにほどこしました。とくに,かれは科学者の会議の必要性を強調する一節を、実に、文書全体の冒頭に加えました。そして、現草案には中立国の役割について東側西側双方の科学者を怒らせかねない言葉使いで表現されている言及がありましたが、それをかれは削除いたしました。また、かれは、思い切って文章全体の長さをおよそ半分に縮小しました。
ラッセルは,この冒険的な計画について、アインシュタインと連絡をとっていたことを打ちあけました。そしてこの計画にアインシュタインが全面的に賛成と支持を寄せており,かれはこの計画全体の共同提唱者となるだろう、と。私たちはそこで、署名を持ちかけるべき人々について討論しました。当時、世界科学者連盟は冷戦にもかかわらず、社会圭義者の科学者と友好的な関係を保っていた国際的な科学者組織でしたので,左翼的傾向の科学者の署名をあつめることで、ラッセルは明らかに世界科学者連盟を頼りにしていました。結局,私たちは、L.インフェルト,F.ジョリオ・キュリー,L.ポーリングやC.P.パウエルの署名を得る手助ををしました。たいへん適切であったことは、インフェルトが署名したことですが,これはかれがアイン'シュタインの緊密な協力者であったという理由だけでなく,かれは,1952年の世界科学者連盟の執行委員会できわめて傑出した科学者会議を召集する活動を世界科学者連盟の方針の中心に据えるべきだと、最初に主張した人物だったのです。
私たちが現左手にしているのは,最終文書ですが,アインシュタインは死の数日前にこの文書を見て署名をしたのです。1955年7月9日に最終的に文書が公表されるまでの数週間のあいだ,ラッセルは,アインシュタインか署名したという事実を,数名がすでに署名した草案に最後の微細な修正をもとめる提案をしりぞけるために,たいへん効果的に利用したのでした。修正を求めようとした人びとの一人は F.ジョリオ・キュリーでした。ラッセルは1955年4月のパリ訪問の際にかれにあっており,かれとは直接の結び付きをもっていました。ジョリオがたいへん心配していたことは,独立のためにもし必要ならば武力をもってさえも戦う種々の民族解放闘争の自由の戦士たちの権利を否定するように解釈される宣言に、何も言ってはならない、とすることに対してでした。かれは署名に躊躇しました。ラッセルはついに,全署名を留保しておく'締切り'をかれに提示したのです。ジョリオは,これに応えてピエール・ビカールをロンドンヘ派遺しました。ビカールはジョリオの多年にわたる友人かつ同僚で,世界科学者連盟の書記長(→事務局長)でした。ビカールが私の家に着いたのは,7月1日の晩7時ごろで,私たちはラッセルにその晩の面会を求めて直ちに電話をしたのです。ラッセルは,「ビカールはジョリオの代りに署名をし得る権限を委譲されているのか?」とたずねたのです。私は、言葉をにごしました。するとラッセルは、ビカールがその権限をもっていないのならば会いたくないとのべたのです。そこでパリのジョリオのところへ数回程電話を入れしました。真夜中になってようやく、ジョリオは声明の注にあるような保留事項をつけて自分の名前を加えることに同意したのです。私はラッセルに電話をしました。かれは電話口で待ちつづけていたのです。そして,私は,いまやビカ一ルは必要な権限をもっています,と告げました。私たちがラッセルの家に着いたのは午前1時でした。依然として長い討議が続けられ,ジョリオの署名が加えられたのは午前2時でした。(松下注:ラッセルは『ラッセル自伝』の中で、「ビカール氏とバーロップ博士の二人は、夜11時30分に到着した。」と書いている。30分まで時間を限定しているところからすると、ラッセルあるいは妻のエディスが記録していたと思われる。パリとロンドンでは1時間の時差があることから、バーロップ博士とラッセルが記憶している到着時間の差は「30分間」ということになる。該当部分の記述)
声明は広く知れ渡り、深い感銘を与えたのです。世界中からラッセルの下へ寄せられた実に何百通という手紙を,かれは私に手渡し,処置を求めたのです。私は、声明で呼びかけた会議に対して援助を申し出ている2通の手紙を選びだしました。一つはオナシス(注:ギリシアの船舶王)からのもので,モンテ・カルロのかれのヨットの上での会議を行なうよう援助を申し出たのです。もう一通は、カナダ人でアメリカの富豪で実業家のサイラス・イートンで,ノバ・スコシアにあるかれの故郷の村・パグウォシュで会議がもたれるならば援助いたしましょうというものでした。これが1957年7月に傑出した24人の科学者が(パグウォッシュに)集い,今日にいたるまで継続し,影響力をもっているパグウォシュ運動創設の由来なのです。これはまた別の機会にゆずりましょう。
結論として,私はアインシュタイン・ラッセル声明が今日の私たちにとってなお充分な妥当性と緊急性とをもっているという理由で,みなさんがそれを読まれるよう訴えるものであります。
この世界において,適切にも MAD(狂気) --Mutually Assured Destruction(相互確実破壊)-- と呼ばれている戦略原則の適用の結果として'不安定的平和'が維持されているのです。
この世界においては,アインシュタインやラッセルの時代には想像もできなかったほど精密化された何千という核兵器が,全世界に配備され,核兵器は次第に拡散し,人類に対する危険性はまさしく危機的状況にあります。アインシュタインを偲んで,私たちができる最大のたむけは,かれが自分の名前を記した最後の声明にあらわされている遺言がみたされ,核兵器によってもたらされた脅威から人類の未来が守られるまでは、私たちが立ちどまることはけっしてないと固く誓うことでありましょう。
「解題」(奥山修平=東工大・科学史専攻)
従来,ラッセル・アインシュタイン声明とパグウォシュ会議との関係については,次のように言われている。第1回会議(パグウォシュ--筆者)の開かれる2年前の1955年にイギリスの哲学者ラッセルと有名な物理学者アインシュタインの2人が、いわゆるラッセル・アインシュタイン宣言を発表して、ひろく世界の科学者に訴えた。この宣言の趣旨は,核兵器の発達によって人類は大きな危機に直面していること,そしてどうすればその危機から人類がのがれ得るか科学者自身考えることを求める,というものであって,そのために科学者が会議を開くよう要請したものであった。第1回パグウォシュ会議は,このラッセル・アインシュタイン宣言を受けて2年後に開かれることになったのである。」*1 このようにいわれる根拠は,「声明」発表後に付されたラッセルによる背景文書の中で「この声明を出すことを最初に考えたのはアインシュタイン博士と私」*2とあることと,「声明」自体に「科学者の会議を召集すべきだ」*3とのべられていることにある。(松下注:「声明」そのものの発案と、科学者国際会議の発案とは分離して考えたほうが良いと思われる。)また湯川秀樹氏によれば、ラッセルからの署名の意志を問う手紙(1955年4月5日付)の主旨は次のようであったという。「自分はアインシュタイン氏と相談した結果,別表のような少数の科学者の賛成を得て,同封の草案のような「熱核戦争の危険についての声明」をしたいと思う。・・・。この種の声明の発表が、この線に沿った国際科学者会議を開くための前奏曲となることを期待している。」*4
このように「声明」から「パグウォシュ会議」にいたる動きの中で,ラッセルとアインシュタインとが中心であったとされている。しかし,この「声明」が今日もなお燦然と輝く歴史的意義をもったものとして起草されるためには,この2人だけでは不充分であった。この2人に協力し,それを充分なものにした人びとこそ,ジョリオ・キュリーを先頭とする世界科学者連盟に結集した科学者たちである。この活動の一幕を紹介したのが,このバーロップのCERN講演である。
ジョリオが,ラッセルに有効な声明を発表し国際会議を呼びかけるよう進言した事実(1955年1月3日付書簡)は,バーロップ講演以前より明らかにされている。*5)*6) このジョリオ提案以来,この問題について、ラッセルはアインシュタインと緊密に連絡をとったが,その内容は,ネーサン,ノーデン(編)『アインシュタイン平和書簡集』(邦訳・みすず書房,1977年)に,ほぼ全体がおさめられている。その概略をここに紹介しておこう。ラッセルはアインシュタインに,ジョリオの提案(声明を発表し国際会議を呼びかける)を紹介し,声明には賛成しながらも国際会議には否定的意見をつたえている(1955年2月1日付)。ただしラッセルはこのとき6名程度の会合(具体的にはインド政府任命の委員会を企図)をもち報告書をつくろうという意見を披露している。これに応えてアインシュタインは,ラッセルに賛意を表わし,アメリカでの運動の困難さをのべ、中立国を含めるためには、ニ一ルス・ボーアが、ロシアの科学者を加えるにはインフェルトが役立つとのべた(同2月16日日)。ラッセルは,そこで、声明の発表についての2人の意志を確認し、人選はアインシュタインとボーアに委ねると伝えた(同2月2日)。早速アインシュタィンは,ボーアにこの事業について、ラッセルと協力してくれるよう訴えた(同3月2日)。アインシュタインから根回しをしたという手紙(同3月4日)を受けとったラッセルは、ボーアヘ要請した(岡3月8日)が,ボーアは声明をだすことについていくつかの疑問をラッセルに対して提出(同3月23日)したにすぎなかった。
このあとのラッセルとアインシュタインとの手紙は、4月5日付の世界の15名の科学者にラッセルより送付された署名提案と、それに応ずるアインシュタインの署名となる。つまり、科学者の国際会議を呼びかけることに(すなわち今日のパグウォシュ会議)については、ラッセルとアインシュタインの間では論議されていなかったということである。この会議提案がどういうふうにして盛り込まれたかを明らかにしたのが、パーロップ講演の核心である。
バーロップ講演の後半にのべられている,ジョリオがなおも「声明」にもっていた意見の詳細は,ビカール著『F・ジョリオ・キュリー』(邦訳・河出書房新社,1970年)の付録にあるジョリオの書簡を参照されたい。(これにたいするラッセルの'断固たる'回答も収められている。)この書簡の文面にはあらわれてはいないが,おそらくジョリオの脳裏には,共産主義者のみならずフランスの知識人にとっては特別の意味をもっていたインドシナやアルジェリアの解放闘争が浮かんだのであろう。「声明」発表や「会議」開催の意義を最初に見通し、「声明」の内容に躊躇し意見をのべかつ署名をしたこの科学者を評して坂田昌一は言う。「第二次大戦後,ジョリオ・キュリーは、世界科学者連盟会長として,また世界平和評議会議長として,平和擁護運動の先頭にたって働いたが,抵抗運動の中で鍛えられた彼の才能は、他を圧して燦然と輝いていた。」*7
1)湯川・朝永・坂田(編著)『平和時代を創造するために』(岩波新書,1963年)p.73
2)『自然』(中央公論社)1955年10月号
3)同前
4)湯川・朝永・坂田(編著)、前掲書、p.7
5)ピエール・ピカ一ル(著)『F.ジョリオ・キュリ一』(河出書房新社,1970年)p.167.
6)ネーサン,ノーデン(編)『アインシュタイシ平和書簡集』(みすず書房,1977年)p.723。
7)湯川・朝永・坂田(編著)前掲書、p.38.