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アラン・ウッド『バートランド・ラッセル - 情熱の懐疑家』碧海純一(訳)

(みすず書房、1963年2月 382,viii p. 20cm.)

* 原著:Bertrand Russell: the passionate sceptic, 1957, by Alan Wood.)
* A. ウッド略歴


訳者(碧海純一)あとがき(1962.11)

 本書は、Alan Wood, Bertrand Russell, the passionate scepetic(London; Allen & Unwin Ltd., 1957)の邦訳である。(右下肖像写真:本書口絵より)
 著者アラン・ウッドは、オーストラリヤのシドニーに生まれ、本書が刊行されて間もなく、1958年に、43歳の若さで世を去った(松下注:『ラッセル自叙伝』第3巻第3章「トラファルガー広場」の冒頭の記述によれば、ウッドは、1957年10月に死亡)シドニー大学の歴史学教授を父にもつウッドは、同大学卒業後、オックスフォードに留学して哲学を専攻し、バリオル・コレジでジェンキンス賞を受けた。また、第2次大戦中は、従軍記者として活躍した経験もあるという。
 本書は一般むきに書かれたものであるが、ウッドは、これと平行して、「ラッセルの哲学-その発展の研究」(Russell's Philosophy; a study of its development)と題する専門書の執筆にも着手していた。しかし、不幸にもかれの早逝によって、このほうは未完におわり、活字にして約20ページ分の草稿が遺されたにとどまった。ちなみに、この草稿は、ラッセル自身の筆になる『私の哲学の発展』(My Philosophical Development, 1959―野田又夫教授による邦訳が、みすず書房刊「ラッセル著作集」別巻として、刊行されている)の巻末に収められている。
バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)の肖像写真  ウッドが単なる伝記作者ではなく、哲学についても一家言をもっていたことは、上記の未完の研究書からも、また、本書中に散見する哲学上の論議からも、窺い知ることができる。しかし、本書の最大の強みは、何と言っても、数年にわたって親しくラッセルの謦咳(けいがい)に接した著者が、イギリス本国でしか閲読できない厖大な文献を読破したばかりでなく、ラッセルの四分の三世紀にも及ぶ交遊関係にも広く探りを入れて、みずから描くところのこの稀代の知的巨人のポートレートに、いわば立体的な深みを加えたところにある、と私は信ずる。著者が親しく会見して意見を求めたと思われる人々の名の一部は序文に掲げられているが、G.E.ムーア、ギルバート・マレー、ジュリアン・ハックスレー、トレヴェリアン一族など、今世紀前半のイギリスを代表する人々の名がその中に見出されることは興味ふかい。
 ラッセルに対する著者の傾倒は、随所にあらわれており、これは、一面では、ボズウェルの有名なサミュエル・ジョンソン伝にも比すべき魅力を本書に与えている。私自身、太平洋戦争中、まだ旧制高校生だったころからラッセルに魅かれて、かれの書くものは相当にひろく読んできたつもりであるが、本書をひもといてはじめて、ラッセルにもこんな面――たとえば80歳になって急に推理小説を書きはじめたというようなこと――があったのかと驚いたことも一再ならずあった。しかし、他面では、言うまでもなく、著者の傾倒はこの本の欠点にもなっている。特に、ラッセルの論敵や個人的な競争者に対する著者の評価がやや公正さを欠くと思われる点があることは否定できないようである。
 いずれにせよ、こうした部分的な疵にもかかわらず、バートランド・ラッセルという不世出の偉材の80数年にわたる波瀾にみちた生涯を、これほどまでに活き活きと、しかも内面から描き出した著者の力量は高く買われてよい。私自身、ラッセルの思想、特に社会思想、については、未熟ながら書物を公けにしたが[『ラッセル』(思想学説全書n.9)、勁草書房,1961年〕、この小著の執筆に当っても、本書から実に多くの資料と示唆とを受けた。

 バートランド・ラッセルの名は、すでに大正時代から日本の知識層には知られていたし、また、最近では平和運動を通じてひろくジャーナリズムでもなじみの深い名となってきた。しかし、かれの生涯・業績には、まだまだ日本の一般読者にはほとんど知られていない面が多い。本訳書の刊行が、この知的巨人の風貌を日本の読者に紹介することに多少とも役立てば、私にとって望外の幸と言うべきであろう。

 訳業は、多忙な公務の合間を縫って、少しずつ、約1年にわたって行った。そのため、訳文の調子にかならずしも一貫していないところがあるのではないかと心配している。それに、私の不注意や無知にもとづく誤訳、不適訳、誤植などが全くないとはかぎらない。炯眼(けいがん)な読者諸賢の御叱正によって、将来これらの点を改める機会を得たいと念じている。
 初校および再校の段階では、私の友人、森内憲隆氏から多大の援助を受けた。私自身は、特に年若い読者のためにできるだけわかりやすい文章で書くことにつとめたつもりであったが、訳稿ができてみると、やはり読者に対して不親切な悪文となってしまった部分が少なからず見つかった。このような個所を指摘して、訂正の機会を私に与えて下さったのが森内氏であり、また、誤植、誤訳、脱落などの検出についても、同氏に負うところが大きい。原文中、どうしても私にわからぬところが数ヵ所あったが、これらの点については、フルブライト交換教授として東京大学で哲学を講じておられる、オレゴン大学のピーター・アントン教授の御教示を得た。また、みすず書房編集部の富永博子氏は、本書の刊行がはじめて企画されたころから、私の遅筆にもめげず、本書の刊行のために協力して下さった。これらの方々に対し、改めて厚く謝意を表したい。  1962年11月 碧海純一

 追記
 巻末のラッセル主要著作リストは、読者の便宜のために、拙著『ラッセル』(1961年、勁草書房)所掲のリストを部分的に転載したものである。転載を承諾された勁草書房にもここに謝意を表する。